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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 20年ぶりのマニラ紀行(下) その後のスモーキー・マウンテン  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/04/22  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「クツ」と「スカベンジャー」 ≫

 「あのスモーキー・マウンテンどうなりましたか?」マニラ再訪の案内役をしてくれた穴田久美子さんに聞いた。スモーキー・マウンテン。直訳すれば「煙の出る山」だが、マニラに、煙の出る火山があるわけがない。世界最大規模のゴミ捨て場のニック・ネームだ。ゴミが積もり積もって何十メートルもの山になり、やがて乾期には廃棄物が自然発火し、山のあちこちで白い煙がくすぶるようになった。「山はまだ煙に包まれているのか」。それを彼女に質したのだ。

 20年前、マルコス政権末期、イメルダ大統領夫人の招待でマニラを訪れたとき、「吐き気をもよおす腐臭を放つ、巨大な汚物の山がマニラ湾岸にある」とは聞いていた。「東京湾のゴミ捨て場、夢の島みたいなものか」。当時、その程度の関心しか持たなかった。ところがここは、夢の島のような無人ではなく、何千人ものゴミ拾いが住む山であり、その後、世界的に有名になった。マルコス一族をハワイ亡命に追い込んだ1986年の軍民蜂起「2月革命」が、この無名の山を、フィリピンの“悪しき名所”としてマスコミに登場させるきっかけを作ったからである。

 マラカニアン宮殿に突入した2月革命の群衆たちが、主の去ったイメルダ夫人の居室からなんと2000足の靴を発見した。そのニュースが伝えられて以来、マルコス一族の浪費の極致と、スモーキー山にたむろするゴミ拾いの住人の極貧を対比したテレビ画面が放映された。「クツ」と「スカベンジャー(ゴミを食う貧乏人)」のストーリーは、世界中に知れわたり、海外で活躍するフィリピン人のアイドル歌手グループが、「スモーキー・マウンテン」と名づけたほどだ。

 日本のテレビにも何度も登場したあの白い煙、いまはどうなっているのか??。その後のスモーキー・マウンテンが気にかかっていたのだ。

 「山の火はようやく消えました。1995年、ラモス大統領によってスモーキー・マウンテンは閉鎖された。ゴミの山には土がかぶせられ、雑草が生えた普通の山になってます」。穴田さんが言う。「では、ゴミの山に住みついて廃品回収で生計をたてていたスカベンジャーたちはいずこへ?」とにかく現場へ出かけるにしかずだ。

 マニラ湾岸沿いにあるロハス通りは、首都マニラでも、もっとも美しい目抜き通りだ。ここからの、マニラ湾の夕日は絶景だ。沿道にはこの国の国民的英雄、ホセ・リサール公園や、スペイン植民地時代のシンボル、サンチャゴ要塞がある。大通りからひとつ中に入れば、歓楽街エルミタ通りがある。20年前、私が最初に訪れたときには在比米軍基地の米兵や外国人観光客相手のゴーゴーバー、クラブ、サウナなどのある“セックス産業”地帯でもあった。「いまでは売春撲滅条例でゴーストタウンと化し、人通りもまばら」とのことだ。


≪ 「ゴミを漁り、山に登る。ああ貧なるかな」 ≫

 ロハス大通りを北上し、マニラ湾に注ぐパッシング川にかかるロハス橋を渡って直進すると、およそあたりの景色と似つかわしくない高さ40メートルほどの黒々とした小山が、視界をさえぎった。これが、世界に悪名をはせたゴミ捨て場スラム街、スモーキー・マウンテン跡だった。

 「もともとこの辺は、海辺の漁民の村だったそうです。ニッパヤシの漁民の家があった。昔は、カキ、ハマグリ採りの家族がピクニックにやってきた」。穴田さんの解説だ。マニラ生活17年、フィリピン人の高級官僚を夫にもつ穴田さんは、元スモーキー・マウンテンの住民たちを援助するボランティア活動のリーダーでもある。

 フィリピンの好ましからざる名所は、いつできたのか。車中、その由来を聞いた。事のおこりは1954年、マニラ市がこの場所をゴミの投棄場所に指定したことに始まる。市の清掃局のトラックは、収集した家庭ゴミを投棄していった。焼却など手間がかかるので、ゴミの山がある程度の大きさになったら、土をかぶせるつもりでいた。ところが、ゴミの中には、空きビン、空き缶、プラスチックなど再生可能な資源がある。貧しい人々には、まさに宝の山で、ゴミをあさる人々の仕事場になってしまった。現地では、この人たちをScavengerと英語読みしている。スカベンジャーたちは、ゴミの山のふもとに堀立小屋をつくり、職住超接近のスラム街を形成した。20ヘクタールほどのスモーキー・マウンテンには最盛期、5000家族、2万7000人が住んでいたという。

 汚物の中を大きな竹カゴを背負い、ゴミ漁りにはげむ老若男女。「ゴミを漁りて、山に登る。ああ、貧なるかな」であった。

 あの頃のスモーキー・マウンテンは、もはやない。だが、ゴミ捨て場から1キロほど離れたところに、元住民たちに提供した30棟ほどの仮説住宅の村落があった。2階建の長屋で、一見して倉庫風だ。ここに2700家族がすし詰め状態で住んでいた。

 住民の声を聞くべく穴田さんとともに、村落に入った。1世帯に割り当てられた仮住宅のスペースは、わずか3メートル×4メートル、6畳間ひとつの大きさだ。ベニヤ板のドアをあけると、1メートル四方ほどの狭いたたきがあり、カーテン越しに部屋の中が見える。窓が小さい。廃物利用とおぼしきテーブルと小さな戸棚がある。部屋の中にはトイレも洗面所もない。屋内の廊下や階段には、所狭しと洗濯物が吊るしてある。


≪ リンダさんの「サリ、サリ」ストアー ≫

 穴田さんと親しい間柄のリンダの部屋を訪ねる。「リンダ」と聞いて若い美人を想像したのだが、70代半ばのおばあさんだった。スカベンジャーから足を洗った1人暮らしの彼女は、この部屋で「サリ、サリ」をやって生計をたてている。庶民階級を相手のミニ・ストアーだ。お客は大工手伝い、土方、ボーダー、ジプニーの運転手に転業した元ゴミ拾いたち。タバコ、コメ、インスタントのコーヒー、砂糖、洗剤、チョコレートなどを売る。

 サリ、サリとはタガログ語で「多種多様」の意味とのことで、品揃えも日本流にいえばコンビニといったところだが、日本と違うのは、すべてバラ売りであることだ。タバコなら1本、コメならカップ1杯、洗剤なら1回分が単位だ。スーパーマーケットでまとめて買って、小分けして売る細かい商いだが、もうけは、仕入れ値の50%ある。ちなみに、リンダお婆さんのもうけは月額1000ペソ(2200円)とのことで、なんとか食べていけるという。

 フィリピンの1人当り国民所得は年間1200百ドル。これはあくまで平均値の話で、この国の貧富の差は激しい。「ブラジルでは所得の順位で、上位10%の人が、国の全所得の半分を占めている」と穴田さんに言ったら、「フィリピンも負けず劣らずです」。彼女の話では、人口の5%が年間100万ドル以上も稼ぐ金持ち階級で、大地主、不動産業、銀行業のオーナーたちだという。貧困階級は、下から数えて、年収300ドルのスカベンジャークラスから1500〜2000ドルのメイド、運転手、看護婦から店員、下級公務員、警官にいたる人々で、人口の80%を占めている。あとの15%が年収2500〜5万ドルの中産階級であり、外資系企業のマネージャー、会計士、医師などの専門職や高級官僚からなる中産階級とのことだ。

 私の訪問した20年前のフィリピンには、中産階級なるものは存在していなかった。私立大学は金持ちの子弟から飛び切り高い授業料をとり、そのお金で貧乏人の中から優秀な学生を入学させ、授業料免除だけでなく生活費も支給している。こういう奨学金制度が実って、フィリピンは中産階級を生み出した??。穴田さんがそう解説してくれた。

 マニラの悪しき名所、スモーキー・マウンテンの火が消え、フィリピンに中産階級が発生した。だが、それで「めでたし、めでたし」といかないところが、この国の悩みである。スモーキー・マウンテンが、ゴミの山から普通の山に姿を変えても、マニラの貧困やゴミ処理問題が解決したわけではない。発展著しいマニラ首都圏のケソン市をはじめ、あちこちに「ニュー・スモーキー・マウンテン」が出来ているとのことだ。ミンダナオ島やセブ島などから、スカベンジャー志願の貧民が続々とマニラ周辺にやってきているという。

 「貧困のもぐらたたきです」。穴田さんはそう言うのである。

 ところで、スモーキー・マウンテンの名付けの起源は、アメリカはテネシー州にあるGreat Smoky Mountains、朝夕は濃い霧に包まれ、“お伽の山”といわれる観光地だ。ネーミングとしてはユーモアとジョークを解するフィリピン人の傑作だが、やはりない方がいい。
 



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