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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 葬送、ユーゴスラビア(上)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/03  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一世を風靡した大国でも、ひとたび地球のメインストリームからはずれてしまうと、その国の記事は、よほど気をつけていないと見落してしまう。先日、新聞を拾い読みしていたら、「波乱の73年、ユーゴスラビア消滅」という小さな記事(2003年2月5日付、毎日新聞)に遭遇した。ユーゴスラビア連邦議会(セルビア、モンテネグロ両共和国で構成)は、ユーゴ連邦を解消し、新連合国家「セルビア・モンテネグロ」を樹立する新憲法を採択した??と報じられていた。

 バルカン半島の真ん中を占めているユーゴは遠い。距離のみでなく、文化も宗教も、民族的にも、地政学的にも、日本との共通性はない。すべての点で異質だ。そういう“遠くて、遠い国”にご縁があって2回訪問したことがある。だから、この連邦の命運は、わかってはいたものの、「世界地図からユーゴの名前が永遠になくなる」ことが正式に決定されたとなると、いささかの感慨を覚える。あのユーゴスラビアとは私にとって何だったのか??。2年前の旅日記を操ってみたのである。


≪ 見知らぬ乗客との対話 ≫

 2001年5月17日。ユーゴ消滅の日は近いとの実感はこの頃からあった。私のメモの第一頁は次のような走り書きで始まっている。チューリッヒ発、JAT(ユーゴスラビア航空)に乗る。離陸間もなく雲が去る。先のとがった白い山々が、眼下に連なる。飛行機はアルプスを越え、セルビアの首都ベオグラードに向かう。1時間40分の行程だ。隣席の男。黒背広の上下、一見マフィア風なり。簡単な英語を話す。機内で配布されたセルビア語の新聞を読み耽っている。新聞の題字にキリール文字で「グラース」とある。

 「ロシア語のグラースノースチ(情報公開)知ってるだろ。グラースは、情報という意味だ」。新聞をのぞきこんだ私にそう教えてくれた。セルビア人は人懐っこい男が多い。「この記事の見出しに、キリール文字でチトーと書いてあるね」。水を向けたらさっそく乗ってきた。

 「そうだ。よく読めたな。第2次ユーゴスラビアを作ったチトー大統領の記事だ。共産主義はダメだったけど、チトーは偉かったぜ。あの頃のユーゴは大きな国だったし、金もあった。今のユーゴは、西ヨーロッパとアメリカに憎まれ、ちっぽけで弱い国になってしまった」

 「オイ。あれを見ろ、あれを」隣席の男が、窓際に座る私の肩を何度もたたいた。

 「何?どこ」いぶかる私の頭を大きな手でおさえ、そちらの方向に回転させた。飛行機の進行方向の左側下に大きな川があった。幹線道路走っている。川と交わる鉄橋が破壊され、半分水に漬かっているではないか。男は「NATO、NATO」と連呼した。NATOの空爆にさらされた橋の残骸であった。

 「あと15分でベオグラード空港…」と機内アナウンス。「ノビサドの橋だ」と言った。セルビアの北にあるヴォイヴォデナ自治州の首都ノビサド市であった。18世紀には、ドナウ川を見下ろす小高い丘に城が建てられハプスブルグ家がニラミを効かしたユーゴの交通の要所だった。

 「橋を壊すのは簡単だ。NATOは3分間の空爆で爆破してしまった。でも直すには時間も金もかかる。だから1年もそのままになっている。」男は、セルビア語と英語をゴチャまぜにして、大声で私に訴えた。機首が下がり着陸体制に入る。

 スイスを発った「JAT」は、セルビア人の出稼ぎや買出客で満席だった。空港の税関カウンターには、西欧製の衣服雑貨、文房具、電気器具、台所用品が山と積まれ、通関の列はいっこうに進まない。「あの隣席の男は…」とあたりを見まわす。3人の若い男を従え、税関とは反対側の空港職員用出口から堂々と出て行く後姿が見えた。若い衆は西欧製パソコン入りの、ダンボール箱をいくつもかついでいた。「コンピュータのビジネス」と言っていたこの見知らぬ男。輸入の荷物を子分に持たせ空港の裏口から顔パスで帰国したところをみると、やはりマフィアだったのだろう。

 私の旅日記の機中描写のメモはここで終っている。ビジネスクラスの喫煙席で、赤ワインとタバコを交互にやりながら古き良きチトー時代を熱っぽく語った見知らぬ男。「連邦が消滅しても、したたかに儲けているだろうな」などと懐かしく思い出したのである。

≪ ユーゴとは?「一」から「七」で語ってみると… ≫

 この読みもののテーマのひとつは、欧州の地図からなぜユーゴの名前が消えてしまったのかを、論ずることにある。それには、そもそも「ユーゴスラビアとは何ぞや」を語っておかねばなるまい。実はこれがかなりの難問なのだ。どうしてかというと、この国は生い立ちが、日本とはまったく異質なので、民族イコール国家と思い込んでいる“島国日本の常識”にとらわれると、わけがわからなくなってしまうからだ。ユーゴを含めてバルカンの地は、外国の侵略で壊滅的打撃をこうむったことのない幸せな歴史をもつ日本とは別の世界だ。「民族の坩堝」とか「紛争の火薬庫」とか呼ばれるこの地の故事来歴に触れておこう。

 ユーゴスラビアとは南スラブ人という意味だ。7世紀ごろスラブ人がバルカンと呼ばれるこの地に移住し、いくつかの中世国家を作った。ところが、この地は、もともとビザンチンとローマの2大キリスト教団の狭間にあっただけでなく、14世紀にはオスマントルコによるイスラム教進出の最前線となり、ぶつかりあう世界の3大宗教にもみくちゃにされた。

 移住したスラブ人の中で、スロベニア人とクロアチア人は、ローマ・カトリックを、セルビア人はビザンチンに統治され正教を受け入れ、ボスニア・ヘルツェゴビナのスラブ人の大部分がトルコ支配のもとでイスラム教に改宗した。

 20世紀に入って、第1次大戦後の1929年、セルビア王家の主導のもとで、南スラブ族の統一がはかられ、「ユーゴスラビア王国」が成立した。この読み物の冒頭にある新聞記事の引用の中に「波乱の73年、ユーゴ消滅」とあるのは、ここから数えたもので、この王朝は第1次ユーゴと呼ばれている。

 第2次大戦後、対独戦争の民族的英雄で、しかもソ連とも一定の距離を保った民族的英雄、チトー大統領は、1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」を建国した。これを第2次ユーゴというのだ。機中の見知らぬ男が、“よき時代だ”と回顧したのは、まさしくこのユーゴであった。強くて金持ちだったチトーの連邦はどんなユーゴだったのか。それをイメージするのに便利な、一から七までの数字を使った面白い語呂合わせがある。

 「ユーゴスラビアとは、一つの政党(共産主義者同盟)が支配する連邦国家で、二つの文字(アルファベットが、ローマ字とキリール文字)を持ち、三つの宗教(カトリック、ギリシャ正教、イスラム教)が存在し、四つの言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)が話され、五つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人)からなる六つの共和国(セルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア)により構成され、七つの隣国に取り囲まれている」。このようなモザイク国家が、1つであり続ける必然性はほとんどない。でもチトー時代はまがりなりにも1つの連邦が維持されていた。大国の干渉が7つの隣国を経由して押し寄せるのではないか、との危機感がそうさせたのだろう。

 だが、チトーが死去し、ソ連が崩壊したことにより、ユーゴは解体へと向かった。南スラブという同じ人種に属し、顔は同じでも、宗教も言語も異なる共和国は、てんでにバラバラの道を歩き始めた。経済的には先進国だったカトリックのスロベニアとクロアチアは、もともとウマが合わなかった正教のセルビア人と別れるため1992年、EUの支援で独立を宣言、そして同じ正教でも、言語の異なるマケドニアもセルビアから去った。イスラム教色の濃いボスニア・ヘルツェゴビナも、セルビアの支配から脱出すべく、92年、国民投票で独立に踏み切った。EUはただちに独立を承認したものの、人口の3分の1を占めているセルビア人が反対、内戦となった。「セルビア人は民族浄化をねらっている」とのイスラム側の宣伝が効を奏し、セルビア人居住地区をNATO軍が空爆、この圧力を背景に95年、ボスニア・ヘルツェゴビナは、内戦に勝利した。

 残るは、大きかった頃のユーゴの主導権を握っていた親分格のセルビアと第2次大戦中、パルチザンとしてドイツ軍と勇敢に闘い、チトーから共和国の地位を与えられたモンテネグロのみとなった。以上が、複雑な歴史をもつ、ユーゴスラアビアの故事来歴である。2001年の5月、私がベオグラードを訪れたのは、小さくなってしまった第3次ユーゴスラビア時代であった。

≪ 2001年5月、ドナウの湖畔で ≫

 旅日記に戻る。チューリッヒは雨、気温15度で肌寒かったが、アルプス越えをして到達したバルカンの5月はもはや夏であった。気温25度、午後7時半だというのにまだ明るい。山崎ひろし、佳代子夫妻と再会する。1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で西側の経済封鎖を受けていたベオグラードを訪問したときの通訳だ。ひろし氏はユーゴ人と日本人の混血で、慶応大卒業後、父の母国に戻った。2人ともベオグラード大学の東洋学科で日本学の教鞭をとっている。

 ドナウ川を見下す中世風の建物の中にあるSKOLKA(貝)という名のレストランで山崎夫妻と食事をとる。ベオグラード大学芸術学部の所有する不動産だが、市場経済への移行で、レストランに貸しているとのことだ。味はなかなかのものだった。タコ、キノコ、ネギそして大根のスライスの前菜。仔牛のスープ、小さなイカのソテー(1人前で10匹)、そしてマケドニア産の白ワイン「ALEXAN-DRA」、4人前で3500ディナール=120マルク(約1万円)だった。

 「NATOの空爆の影響で、食糧難が続いていると思っていました。でもこのレストランの食卓、結構豊かですね」

 「ええ、セルビアは人口に比して農地面積も大きく、農業生産性も高いですからね。食糧はありますよ。山の中で、タコやイカがどうして食べられるのかですって? モンテネグロから運びます。あそこはアドリア海に面してるから」

 ひろしさんがそういった。私にとっては安くてウマイ。でもこの国の庶民が払える値段ではない。

 佳代子さんは言う。「チトーの時代、人々の平均月収は、日本円で7万円あったけど、今は1万5000円くらいです。ベオグラード大学の先生の給料が200マルクだけど遅配続き。2000ディナール(70マルク)持って、1週間分の食糧の買い出しに、マーケットに行くとほとんど残らない」。

 1999年3月から6月のNATOの空爆のもとで、ベオグラードはしばしばエネルギーの供給がストップした。冬の期間でなかったので寒さにやられた人はいなかった。だが市民たちは、料理には困ったらしい。「焼き肉が流行しました。空爆で電気とガスの供給が中断される。そうなると手の混んだ料理はダメ。調理はもっぱら木炭に頼っていた。セルビア人の好物は肉の煮込みだが、時間がかかる。だから炭焼きステーキをよく食べた」山崎さんが苦笑した。


≪ 戦禍のベオグラードで ≫

 山崎夫妻の案内で戦禍の旧市街を見学する。「ホテルから南に向かい、ドナウ川の橋を渡ると、地理的にはバルカン半島に入る。そこが旧市街です。ベオグラードというのは、白い町という意味。スラブ人がそう名付けてから1200年を経た古都です。その間、ここを舞台に異民族同士の攻防戦が展開され、ベオグラードは、40回破壊され、40回復興したという話です」と、ひろしさん。

 「すると、NATOの空爆が41回目の破壊?」「ええ、でも41回目の復興はまだです」
1867年建設のベオグラード中央駅前から、サラエボ通りを行くと、連邦国防省の建物がある。夜間に、どこからともなく飛んできた何発かのミサイルがここに命中した。以前(1995年)、この建物の隣にある小児科専門の病院を訪れたことがあり、入院中の子どもたちの事が気にかかっていた。

 「こどもたちは大丈夫。死んだのは、深夜国防省前でたまたま信号待ちしていた車の2人だけ。国防省内は、ほとんど無人だった。でも15分後に再び攻撃があり、出動した消防隊員に重軽傷者が出た」。近くに、大使館通りがある。アメリカ、クロアチア、カナダの順で建物が並んでいた。空爆中、怒った民衆が、アメリカ大使館に侵入、建物を破壊したが、中は空だった。街の公園には樹齢500年のカシの木がある。マロニエの並木が美しい。戦禍にあっても、この街は古都の風情をしっかりと残していた。

≪ 「ミロシェヴィッチよ、ハラ切りせよ」 ≫

 郊外の難民キャンプに出かける。セルビア共和国は70万人(ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアから脱出したセルビア人45万、コソボから25万人)の難民がいる。コソボ自治区から、アルバニア系回教徒の迫害で、脱出した45歳の警察官一家を訪問する。6畳ほどの部屋をカーテンで仕切り2世帯が住んでいる。4人家族だ。最初は1人で、警察の車を運転、1日かけてセルビアに脱出、このあと家族たちが別々にバスに乗って逃げてきた。息子は大学生、娘は高校生、ここから通っている。「幸い、ベオグラードで警察官に採用され、なんとか食べていけるようになったが、キャンプを出たら住むところがないので置いてもらっている」という。

 キャンプの給食を御馳走になる。献立はキャベツの塩づけ、白マメのトマト味スープ、ベーコンのぶつ切りとキャベツの煮込み、そして大きなパン2切れと、バターだった。

 「NATOの爆撃中は肉はほとんど手に入らなかった。セルビアは豚肉の名産地で、輸出するほどある。だが、農村からベオグラードまでの鉄道も道路も、破壊されたので、このキャンプまで運ぶ余裕がなかった。時々、ボランティアの人が危険を冒して田舎から肉を持ってきてくれた」キャンプのコック長のおじさんがそう言った。5棟ほどある難民キャンプの周囲のコンクリート塀に落書きがいくつかあるのに気づいた。山崎さんに読んでもらった。そのひとつに、「ミロシェヴィッチよ。何故ハラキリしないのか。汝はサムライなりや?」とあった。ユーゴスラビアを10年間統治したミロシェヴィッチ前大統領、良きにつけ、悪しにつけ、セルビアの象徴であった。国の名誉にかけて、生きてNATOの虜因の恥をさらすなかれの意だ。セルビア人は尚武の気風をもつ民族なのである。
 



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