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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 太平洋島嶼国との友好?「SUSUMI」で語る将来  
コラム名: 新地球巷談 19  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/02/24  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   パプアニューギニアという国をご存じでしょうか。東京から直行便で6時間。太平洋を南に直進し、赤道を越えるとニューギニア島にぶつかります。面積約77万平方キロメートル、日本の2倍強という広い島の西半分はインドネシア領で、東半分が英連邦に属する独立国パプアニューギニア(人口約481万人)です。

 昨年暮れ、私は世界保健機関(WHO)のハンセン病制圧特別大使としての業務で、この国を訪れました。

 太平洋戦争下、終戦までの3年余にわたり、この島は日本軍と米国・オーストラリア軍との戦闘の舞台となりました。ニューギニア戦線は損耗率94%、死者のほとんどがマラリアなどによる病死と餓死というまさに悲劇の島でした。終戦当時、日本軍の司令部は島の東部海岸沿いのウェワクにありました。昨年夏、4度目の首相の座に返り咲き、国民から「建国の父」と敬愛されているマイケル・ソマレさんは、このウェワクの人です。

 1970年、父の良一がウェワクに遺骨収集と墓参に訪れたとき、献身的に世話をしてくれたのがソマレさんでした。当時、彼は34歳。ラジオジャーナリストから政治家を志していました。ウェワクを地盤に国会議員となり、独立運動に遭遇しました。75年、パプアニューギニアは豪州の信託統治領から独立、ソマレさんが初代首相に選ばれたのです。

 将来性を見込んだ父は、個人的に東京に招待して当時の佐藤栄作首相に紹介したり、選挙のためのポスター製作や選挙用の車の提供など親身に世話をしました。

 そうした縁もあって、パプアニューギニアを訪れた私が業務の間をぬってウェワクの戦没者慰霊碑に参拝した折、わざわざ首都ポートモレスビーから飛来して夕食会を催してくださいました。そのときのメーンディッシュは、取れたてのマグロの刺し身、なぜかメニューには「susumi」と書かれていました。「きょうはワサビがないのが残念だが、私の好物は『ススミ』」と話され、どっぷりと醤油の中に浮かしてから食べられるのをみて、びっくりしました。

 西欧型のホテルのないウェワクでは海岸のコテージに宿泊しました。早朝、来客とのことでロビーに出てみると、1人の青年が立っていました。

 「私はソマレの息子のリョウイチです」

 そう自己紹介されて、またまたびっくりです。物静かな雰囲気のリョウイチさんは、兄と2人で建設会社を経営しているとのこと。私の父からうけた物心両面の励ましを多としたソマレさんが、父にあやかって三男をリョウイチと名づけたそうです。思いがけず親戚が1人増えたようで、思わず握手する手に力が入りました。

 ところで、日本財団と笹川平和財団は88年、南の島々11カ国の首脳を日本に招き、初の試みとして太平洋島嶼国会議を開きました。もちろんソマレさんも出席されました。この太平洋島嶼国会議はその後、故小渕恵三首相の賛同によって日本政府に引き継がれ、現在の「太平洋・島サミット」へと発展したのです。今年5月、沖縄で「第3回太平洋・島サミット」が開催されます。ソマレ首相は、日本・パプアニューギニアの関係にとどまらず、広く日本と太平洋島嶼国との関係充実のために大きな役割を担ってくれるでしょう。

 ソマレさんとは、来日の折にはワサビをきかせた「ススミ」を食べながら、日本と太平洋の島々との関係を語り合う約束をしました。

 建築家、清家清さんの設計になるウェワクの戦没者慰霊碑は、手入れ良く維持されていました。聞けば、ソマレさんの細やかな気配りで、清掃などにウェワク市も並々ならぬ神経を使っているそうです。旧司令部跡地も下草が刈り取られ、あちこちに散在する旧陸軍の高射砲を一巡できる小径が造られていました。南国特有のまぶしい太陽に映えるサンゴ礁の破片をちりばめた慰霊碑に合掌しました。

 思えば、この拙文の掲載日から11日後の3月7日こそ、日本陸軍がニューギニア作戦開始から満60年目にあたります。「はるけくも」の感、ひとしおです。
 

笹川平和財団(笹川島嶼国基金)のホームページへ  


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