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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 神の豪胆  
コラム名: 私日記 第38回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/02  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年10月14日

 23日間のアフリカ4国とシリアの旅から帰国。今回は今まで5回のアフリカ貧困視察旅行の中で一番、出発前から種々危倶することがあった。まず内戦が収まったはずのシエラレオーネの現状がわからない。途中車で何百キロも移動する間に、自動車事故が起きないか。日本人は想像できないことなのだが、田舎道でのけちな強盗に出合わないか、などというちまちました危倶である。

 しかし危倶していたことは荷物の紛失以外は何も起きず、危倶しなかったことはみごとに起きた。中央アフリカで比較的政情の安定していたコート・ジボアールの政変。それを避けるためにヨーロッパまで一旦北上し再びアフリカまで南下するという大きなルートの変更。紛失の後出て来た荷物が鍵を開けられ布カバンを裂かれていたこと。それによる一部の人たちのパソコンとデジカメの盗難。飛行機が2度出発便を遅らせたので、その度に空港へ往復してへとへとになったこと。

 もう大体これで嫌なカードは出尽くしたかと思ったら、最後の中央アフリカのバンギ空港を出発する時には、難民の脱出のような騒ぎが1時間半ほど続いた。順番に並ばせて手際よく捌く、ということの反対だから、客たちは我がちにカウンターに押し寄せ、出国管理、通関、大統領府直属警察の検査といったように、何度も荷物を開けさせられ、ドアを通る度にパスポートなどの書類を提示させられ、数えていた人によれば10回はひっかかって、酷暑の中でくたくたになったのである。

 通訳のミシェルはフランス語ができるから、我々よりさらに苦労した。まず税関のおばさんに「パリまで小さな箱を1つ持って行ってもらえないか」と頼まれ断った。こういうことを平気で請け負って、麻薬の密輸犯として捕まるケースが多いのだから、旅馴れた人は決してやらない。次に控えていた大統領府直属警察の男は、「すみません。ちょっと相談に乗ってくれませんか」と切り出した。「娘が髄膜炎で入院してお金がかかります。少し援助してもらえないでしょうか」と言ったのだそうだ。私はシリアヘ持って行くおみやげのサッカー・ボールを1つ取られたが、私の傍にいた金持ち風のこの国の男は、女性税関吏におおっぴらに札をやって礼を言われている。税関にも金をやっていいのである。

 今でも印象に残っているのは、一切の電気的な検査装置がないか、あっても壊れているままなので、エール・フランスは飛行機のタラップの下に机を2つおいて独自の検査官に手荷物検査をやらせていた。白人の検査官の男の癖に少しぽっちゃりした手の甲が、何度も荷物の中に手を突っ込むので、一部は擦りむけ、全体に真っ赤に腫れている。

 私は一行とパリで別れ、日本財団の荻上健太郎さんと2晩飛行機待ちをしてから、シリアのダマスカスヘ入り、そこで日本財団評議員の堀武昭氏と合流した。3人で北部のクルド人地域に入るためである。ダマスカスからドライバーつきヒュンダイ(韓国車)をチャーターして、800キロ北のトルコ国境に近いカミシュリまで行った。韓国車はすばらしい性能。不思議なことに、私は自覚的にはアフリカで必ずしも元気いっぱいではなかったのに、シリアの沙漠(実は土漠)に入ったとたん体が健康的に軽くなった。

 この間、日本財団は、私たちがイラクやトルコに入るのではないかと心配したらしいが、すでに両国共、クルド人に対しては別としても、外国人に対しては国境を閉じていた。それで私は聖書にも出てくるアレッポとラタキヤを経由してダマスカスヘ戻り、再びパリ経由で日本に帰って来たのである。20人の大部隊がアフリカで行動中は、過労で痩せ細った財団の荻上さんを、シリア旅行で少し太らせることができた。

 明日からはすぐ、出勤。


10月15日

 朝、財団の前で、結核予防会に検診車を贈る簡単な贈呈式。執行理事会。電光掲示板原稿選定ミーティング。社会貢献支援財団の横山専務来訪。

 午後1時半からプレス・センターで高円宮憲仁親王殿下と、日本海事新聞の対談。

 「僕はむだということが嫌いで、子供たちに電気をつけっぱなしにしたり、水道を出しっぱなしにしたりしないように言っていますが、ちゃんと守っているかどうか」

 などとおっしゃる。今の若い父たちのうち、どれだけがこういうことをきっちりと言えるか。

10月16日〜17日

 まず鹿児島の第十管区海上保安部に、北朝鮮の工作船を見に行く。海岸の民間のドックを借りておいてある。近づいた時、あまりにひどい臭気がしたのでびっくりした。沈船はすべて臭うものだというが、その臭気の理由はヘドロなのか死臭なのかは説明されなかった。海保側が射撃した弾は、すべて人間の居住区を避けてエンジン・ルームに集中して当たっている。湾岸戦争の時のアメリカのピン・ポイント攻撃を私たちはゲームのようだと思ったが、日本の武器もこうして人間に当てたくない場所を避け、ただエンジンの停止だけを狙うということができる。居住区側にほんの2、30センチはみ出して当たっているのは、100発近い弾のうちほんの数発。

 17日朝はプロペラ機で岡山空港に降りる。石川島播磨重工の相生工場着。工作船を引き上げたサルベージ船が今はこちらに回航されて来ているのである。多目的作業船第60吉田号は、四角い箱が浮かんだような船なのだが、素人は台船という方がよくわかる。自力で動くのではない、作業地点まではハシケに曳航されて移動する。

 広いデッキは約1000平方メートルあるというから、テニスコートが2面取れそうな広さ。その上に工作船を入れる特注の水槽を作り、そこに浮かべて作業をした。私はこの台船が持つ1700トンを釣り上げるクレーンに見とれた。そんな重いものを釣り上げて、どうして船がひっくり返らないのかどうしてもよくわからない。

 ベテランから潜水作業の話を聞く。なぜか水中の死体を見つける人は会社の中で、大体決まった人だという。遺体に好かれているのである。この世界も奥が深い。できれば書きたいような密かな世界だ。


10月18日〜21日

 だんだん旅の疲れが出て来た感じ。やはりこの年になれば、帰国後、せめて1週間くらいは完全に休むのが当たり前なのに、翌日すぐ出勤し、鹿児島まで取材に行く方がまちがっているのだ。

 しかし20日は、皇后陛下のお誕生日で夕方から皇居に伺い、21日はうちで海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会を開いた。無事、シ壬フレオーネのシスター根岸に自動車購入の費用3万ドルを現金で届けたことを報告する。日本からシエラレオーネまでの間、私がよもや現金3万ドルをハンドバッグに入れて持っているとは、泥棒も思わなかったから、無事だったのだ。

 会合の夕食にひさしぶりにおでんを作った。家中お醤油臭い臭いが漂ったが、おでんというメニューはいつも評判がいい。


10月22日

 いつもの財団の仕事の他に、今日はNHKの小出由美子さん・カメルーン大使になられる国枝昌樹氏、毎日新聞の重里徹也氏、岸俊光氏、画家の毛利彰氏が来訪。

 4時から記者懇談会。その後、財団の建物の1階で障害者が経営するべーカリー「スワン」から甘パンやお菓子などを取って、コーヒーで皆さんに食べて頂く。この定例の記者懇の後で少しまとまってパンが売れることも、店で働く障害者たちの励みになるらしいので嬉しい。


10月23日

 夕方から、明治記念館で行われた世界文化賞の授賞式に出席。授賞式の間はお隣の席の台北駐日経済文化代表處代表・羅福全氏夫妻と、食事の時は、まだ着任早々だと言うスイス大使ジャック・ルヴェルダン氏とお喋りをした。車椅子のエドワード・ヒース元英国首相が、実にいいスピーチをされたので、廊下でお目にかかった時、ちょっと感動した旨をお伝えする。


10月24日

 朝の飛行機で、高知工業大学の公開講座へ。一般の聴講生も来ている。自然をうまくとり入れたすばらしいキャンバスは、大学という概念を超えている。何でも、芸術的できれいな方がいい。しかし学生は、同時に乱雑にも不潔にも耐えられなければならない。

 夕方の飛行機で帰京。

10月25日〜27日

 北京へ。日中国交30周年記念に、今年北京ではいろいろな催しが行われた。日本財団にもさまざまな企画を持ち込まれたが、「ふざけないでください」と言いたくなるのもけっこうあったのだ。結局財団が引き受けたのは、日本音楽財団が企画して、北京で音楽会を開くことであった。

 音楽財団は所有する16挺のストラディヴァリウスを、内外の世界的な演奏家に無料で貸与しているが、その人たちに数回、演奏会を開いてもらう約束である。

 ストラディヴァリウスを抱えて北京に集まってくれたのは8人の演奏家であった。ストラディヴァリウスにはそれぞれ名称がついているようだが、諏訪内晶子さんは「ドルフィン」、エリザベス・バティアシュヴィリさんは「エングルマン」、バイバ・スクリーデさんは「ハギンス」、ヴィヴィアン・ハーグナーさんは「サッセルノ」を使っている。この若い4人は、世界的な技量の演奏家であると同時に絶世の美女たちなので、私たちの仲間からは「天は二物を与えるんだね」という声が聞こえた。

 後の4挺は東京クワルテッドが持って来てくださった。パガニーニが使ったので、パガニーニ・クワルテットと呼ばれる2挺のヴァイオリンとヴィオラが1挺、チェロが1挺である。

 中国についてのおもしろい知識を2つ。

 北京の空港に着くと、私たちはVIPルームに通され白バイの先導で市内に向かった。これは公然と警察が有料でしてくれるサービスで、キロあたりの使用料も決まっており、別に向こうの政府が私たちをVIPと認めてつけてくれたのではない。私たちがこの制度を使ったのは、ホテルから会場の保利ホールに向かうまでがひどい混雑なので、その時、ほんの少し他の車をかき分けてもらって、遅刻しないためである。

 2日目の演奏会は、釣魚台の中の国賓館芳菲園音楽庁というホールで、政府の要人を主賓に、日中双方の北京の代表的な人士を招いて行われた。当日出席されたのは、国務委員(大臣)の呉儀女史、建設委員の汪光涛氏、などである。

 釣魚台は、一般には、政府要人が住む特別な場所と昔は思われていた。今でも広大な敷地の奥の方には国賓をもてなす特別区域があるのだろうが、音楽庁は入り口近くにある近代的なデザインのホールである。中のレストランは食器も金色に輝く豪華なものだが、私たちは音楽会の後、そこで関係者とねぎらいの食事をした。つまりそこは誰でも食事ができる場所なのである。しかし知らない人は釣魚台で食事に招待された、と言えば、大変な名誉なことになる。その辺の人情を、中国というところは実にうまく使っている。

 私はその前に北京大学の国際関係学の大学院生たちに講演をした。日本財団はこの学生たちに、奨学金の制度を設けている。学生たちは、私の言いたい放題の話にも興味を示してくれ、表情も豊かで、楽しく喋ることができた。1975年、初めて中国を訪れた時、この国はまだ硬直し「この北京大学の中にある池のほとりの柳が、病気の女の髪のようだ、などという表現をする学生がいるのは、悪い思想の表れです」などとおかしなことを得意気に言う作家も会議に出て来ていた。言論の締めつけは恐ろしいばかりで、私は当時のことを思い出して、どうして中国が、この程度にでも変わり得たのか、そのことをずっと考えていた。今いる学生たちは、もうその時代の自国の姿を知らない世代になっている。


10月29日

 日本財団への出勤日。

 海上保安庁・深谷憲一長官ほか、お客さま。

 午後4時に、鹿島建設へ中央アフリカで現場を見せて頂いたお礼に行く。

 夜は小松川の教会で聖書に関する講演会。


10月30日

 大阪府社会保険協会の講演会に出るために、のぞみで大阪に往復した。


10月31日〜11月1日

 疲れてお休み。アフリカから帰って以来、まだ少しも続けて休みを取っていないのだ。(これはグチ)

11月2日、3日

 2日は広島県と県教育委員会主催の講演会。その後、広島で、大学時代の同級生に会ってお喋り。かつての大食いたちも今は小食になって、お刺身1皿を2人で摘むくらいに上品になった。料理屋の会計の人が、何も言わないのに「お1人はおいくらですよ」と割り勘の計算をしてくれたよし。世の中のおばさんたちは、口だけは達者でも算数は下手なもの、と知っているらしい、と皆で笑う。

 3日は名古屋へ出て、津で三重県人権センターの講演をした後、名古屋に戻り、名古屋港水族館開館10周年記念の座談会に出席。出席者の中で私1人がこの道の素人なのだが、ただ昔『円形水槽』という長編を書いたことがあって、その時、水族館にせっせと通い、水槽を裏側から眺めて、知人や自分の人生と魚の生涯を引き比べて見ていた。しかし今の水槽のファンタジックな設計や、イルカがいることなどは、当時の水族館の常識と全く違う。

 イルカにははまってしまった。イルカを主人公にした長編を書きたいくらいだ。私は初め「イルカに触ってください」と許可されたにもかかわらず、私の掌のバイ菌をうつしそうで遠慮していた。しかし私が水槽の傍にアイソ悪く立っていると、1匹のイルカが苛立ったのか、私に近づこうとして、細い池の縁に身を乗り上げると、そこに寝転んでしまったのだ。人間を恐れない訓練の結果だろうが、それにしても、これほどお近づきになりたい、と言われたのは初めて。私はこんな嫌な性格なのを、知らないんだナ。

 この水族館には「ベルーガ」と呼ばれる白イルカがいる。白子ではないのだそうだ。大きくて、おでこにこぶがあって、眼が小さくていつも笑っているような顔をしている。命令されると、仰向けにも寝るし、飼育の係の人にマッサージしてもらうといつまでもじっとしている。私もベルーガのマッサージ師になりたい。経絡も少し知っているし、何しろとても上手なのだから。


11月5日

 怠惰を愛好する私としては、むちゃくちゃに忙しい数日の始まり。財団で執行理事会。雑誌インタビュー2つ。お客さま。


11月6日

 放送用のアフリカのビデオに、私なりの語りを入れる作業。

 終って日本財団に帰り、福祉車輌決定プロセスの説明を受け、入社試験の面接。終って対談1件。


11月7日

 財団でシルクロードについてNHKの短い録画撮り。その後、アフリカ旅行に参加してもらったお礼を申し上げに、文部科学、国土交通、厚生労働、経済産業、林野庁の5省庁に行く。参加者たちはたいていが「もう一生ああいう(貧しい土地への)旅行はできない」と言ってくれているらしく、ほんとうによかったと思う。

 夜、高瀬ダムを舞台にした『湖水誕生』を書いて以来、土木を勉強する場所を与えてもらっている東電の方たちと、久しぶりにお会いする。


11月8日

 今日は「世界都市計画の日」だそうで、午後麹町会館で講演。ここのところ講演が多いのは、アフリカ旅行の前に、講演をしなかったのが溜まっているからなのだが、もうこんなに引き受けてはいけないと反省。


11月9日

 大阪で乗り換えて、三田中央公民館で「社会生活と勇気」について講演。大阪から三田までの短い列車が楽しかった。


11月10日〜11日

 2日のお休みで大分体が休まった。『新潮』1月号のエッセイ、「五十年」の下書きをした。来年の7月で、私は原稿料をもらうプロの作家になって50年になるのに、数日前に気がついたのである。その間、不眠症と視力障害と2つの数年にわたる落ち込んだ時期があったが、その間も私はどうにか書き続けていたから……1月平均400字詰め原稿用紙200枚を書いたとして12万2000枚。だから多分本も300冊はあるのではないか、と思う。数えたことはないし、出来の悪いのは入れていないかもしれないが、嬉しいのは、才能は別として辛抱が続く性格だとどうにか1つの仕事はできるということだ。今、私は文章を書くことと歩くことは同じくらいの快さと労力を伴うことだと思う。「歩く」という言葉はペリパテーオーというのだと、聖書の勉強の時教わった。そしてまたギリシャ人はその言葉を「生活する」という意味でも使った。歩くのと生活するのとは、ギリシャ人にとっては全く同じことだったのだ。何という健全さ。何という自然で奥深い真実。


11月12日

 大森少年センター補導員の方たちの研修会で講演。日本財団に行って、2つほど行事の打ち合わせ。


11月14日

 府中の警察大学校で講演。

11月15日

朝新宿のホテルで石原慎太郎東京都知事と対談。そのまま横浜へ廻り、日本社会保険医学会で講演後、羽田へ出て小松空港へ。坂谷豊光神父が迎えに来てくださっていて、車内でいろいろと打ち合わせ。芦原温泉に着く。毎年やっている障害者といっしょの外国旅行の国内版「友の会」に出席。昔馴染みの顔。最近のお友達。この旅をきっかけに元気になったという事実を打ち明けられるのは、いつも不思議。来年は7月23日からマルタ、シシリーを含めたイタリアの旅をする。次回だけ120人の大部隊になるだろうと思われる。指導司祭の坂谷神父はいい加減に嵩上げして「150人」などと挨拶の中で言われるので首をすくめた。このような姿勢を「神の豪胆」というのである。私は気が小さいから、古顔に「助けてね」と今から頼んでいる。

夜遅く迎えを頂いて、鯖江に向かう。


11月16日

午前中、鯖江の青年海外協力隊を支援する会で講演。その後金沢に出て、駅前のホテルで1泊。

日本財団の秘書課の星野妙子さんと夕食を一緒にした。金沢名物の鴨の治部煮がひさしぶりの精巧な日本の味を思い出させてくれた。シリアでは来る日も来る日も羊の焼き肉ばかり食べていたことを、今になって恨みがましく思い出したのである。
 

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