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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 大人になる証?受ける側から与える側へ  
コラム名: 透明な歳月の光 41  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/01/17  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   もう何十年も前、さわがしい成人式に出てからは、成人式というものがこの世にあることを忘れることにしたから、ワルクチを言う種もなかったが、その後も一部の成人の幼稚で愚劣な行動のおかげで、講師たちは怒るか見捨てるかし、ほかのまじめな成人たちも迷惑を被ったはずである。

 成人式は、どうしても出席しなければならないものではないのだから、嫌なら最初から出なければいい。そもそも式というものは、そこで喋るものでもないし、中座していいものでもない。もし予定があるなら、最初から式場に入らず、喋りたければ最初から喫茶店に行くことなのだ。

 人生いたるところに「場の約束」というものがあるのに、20歳になってもそのことさえわからなかった。祈りの場、会議の場、商売の場、病気を治す場、など、社会はそれぞれの目的の違う場を持っている。その目的の違いを理解できない新成人がいるなら、主催者は教育的意味からも、厳しい態度をもって騒いだり喋ったりしたら退場させ、最初から中座は許さない、と宣言してもいいのである。

 今年は大分多くの新成人が礼儀正しくなったようだが、それでも私はまだ気の毒な成人式だと思う。それは成人して大人になったということはどういうことかを、社会が一向に体験として教えようとしないからだ。

 大人になるということは、今日から、その人が受ける側ではなく与える側になった、ということだ。20年間、彼らは未成年として、もっぱら受ける側にいた。しかしその日から、一切の責任は自分にあり、かつ自分より弱い人を庇って、その人々を生かすという光栄ある仕事にも就ける、ということになったのだ。

 それなのに、成人式はただお振り袖を着て、そわそわするばかり。「20753」と言う人もいる。それより成人式には作業服を着て何らか社会のためになる仕事をする、という企画があってもいいのに、と思う。

 1日だけお年寄りの家を訪ねて、ゆっくり話し相手になったり、車椅子を押して公園に行く、という手もあるだろう。その日だけ数時間、近所の公共の空間を掃除する仕事も考えられる。

 とにかく「与える側」に廻ることが、大人になった証なのだ。与えさせない限り、子供は大人になる方法がわからない。うっかりすると、そのまま受けることばかり考える永遠の子供として、不登校やひきこもりになったり、フリーター以外の仕事には就けなくなったりする。

 自立とは、責任と制約の上に立ち、なすべき任務を遂行することだ。それでこそ人生は日々刻々濃密に満たされる。それを味わわせるには、与えさせることなのだが、戦後教師たちは、人権とは(与えることではなく)要求することだ、と間違いを教え続けたのである。
 



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