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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 或る撤退  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2003/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今から7年前の1995年12月11日、私は日本財団の会長に就任した。

 その当時、日本財団は私には理解のできない悪評にまみれていて、世間も私のような体験のない小説家が、数百億の予算を動かす組織の責任者になるわけはないと思っていた。しかし当時の情勢では、地位と名前に傷がつくと仕事がしにくくなる財界人や学者は、とうてい会長を引き受けられる状態ではなかった。役人の出身者は「アマクダリ」が悪の見本とされていた時だから、財団としても会長に据える時期ではなかった。

 私がその任を引き受けたのは、作家には失うべき名誉も地位も最初からなかったからである。それと私が仕事を引き受けてもいいと思った最大の理由は、日本財団が株式会社の定款に当たる寄付行為の中で「会長は無給」であるということをはっきりとうたっていたからである。日本財団の会長には、交際費もない。言えば出るのかもしれないが、使ったことがない。夫は何にでも大雑把な性格だから、「得にならない仕事ならいいだろう」と言っただけだった。

 私は年間で均すと、週に3日、「会社」と呼ぶ財団に出て、4日は作家をやることにした。つまり私の本業は作家だという態度を維持したのである。「ちゃんと作家をやって、そこから収入がないと、裏でこっそりお金をもらっているんじゃないかと疑われますからね。生活に困らない程度の収入は執筆で稼いでいることを、いざとなったら税務署に証明してもらいたいんです」という小心な防御本能の表れでもあったのである。

 就任の翌日12月12日、私は初めて財団の会長として記者会見に臨んだ。悪意と好奇心に満ちたメディアが数十人、テレビも少なからず入ったのである。しかもこちらはまだ業務内容全般の説明も受けていない。数字など聞かれても頭に入っていない。私の血圧は上がっていたろうと思うが、幸いにも私は普段からひどい低血圧であった。

 記者の1人から「会長として、さしあたりどういうことをやりたいと思いますか」と聞かれた時には少し困った。実は私は人生であまり夢を抱かない、ということで生きて来たのである。前会長の笹川良一氏は、よくも悪くも、自分のしたいことを実行して来た方だった。全世界にハンセン病の薬を配って病気を根絶に導き、アフリカを飢餓から救う農業改革をスタートさせた方である。しかし私は小説家であった。全世界、人類のことなど考えたこともない。常にマクロにではなくミクロの視点でいることだけが、職業上の姿勢だと心に思い込んでいたのである。

 私は記者の質問にたじろいだ。財団の関係者ともまだ一切の具体的な話をする段階に至っていず、私自体も一体自分がどれだけのことをする権限があるのか、何もわからなかったのである。さしあたり私がすることは、787億円の予算を動かすための銀行などの金融機関に改印届けをすることであり、傘下にある15の関連財団の機能を知ることだったのである。

 しかし私にはたった1つ、やりたいと思っていた計画があった。ハンセン病の制圧やアフリカの飢餓救済と並べて言うのも恥ずかしいほどの小さな企画である。それは車椅子の人たちと健常者がいっしょに走るマラソンを発足させることであった。翌12月13日付の産経新聞は、私が「車椅子の障害者と健常者が同時に走るマラソン大会の実施」など「現実的なことから手をつけたい」と語ったと書いている。

 私は1984年、つまり日本財団会長就任より11年前の4月から、或る意味ではほんとうに無謀なことと思われ、当時はまだほとんど行われていなかった視覚障害者の海外旅行というのを始めていた。今でも毎年一度ずつでかけるから来年は20回目になる。きっかけは1981年の夏、私はもしかすると予後があまりよくないかもしれないと言われた眼の手術を受け、予想外の、奇跡的と言ってもいいほどの視力を得た。私は、深い感謝と無償で幸運を得た心の重荷に耐えかねて、何とかしてそのお返しをできないかと考えたのである。私は見えない人に付近の光景を口で「実況中継」するという案内役を引き受けて旅行を始めたのである。

 第1回目の旅に出た時には、視覚障害者の他に韓国のハンセン病患者さん2人も招いたが、第2回目からは車椅子の人たちがどうしても参加したいと言うようになった。それがきっかけで、私は何人もの車椅子の人たちと友達になって、その生活に詳しくなったのである。

 車椅子というものは、平地ならランナーの2倍くらいの速度を出せる能力を持っている。車椅子の走者は2本足のランナーをすいすいと抜いて行くのである。私の周囲の多くの人たちは、車椅子は、健全な足の人が歩くより遅いものだ、と思い込んでいる。その意識を自然に改変するためにも、私は障害者と健常者が共に走るマラソンを現実のものにして、多くの市民の前でその姿を見せたかったのである。

 前会長の3男である笹川陽平理事長は、私がもう少し勇壮な事業計画を口にすることを望んでいたかもしれないが、私がその日抱負として示すことのできた新規事業はそれ1つきりであった。笹川理事長は、新米の私を労って、会長の発案を早速実行したい、とその企画を実行のルートに載せてくれた。関連財団の笹川スポーツ財団に、その実行を委ねたのである。

 ここで幾つかのことを明瞭にして置かねばならない。この企画は最初から日本財団が費用を全額持ち、笹川スポーツ財団を実行機関として行うものであった。ただしいくら私でも、予算さえあれば、すぐに実行できると思っていたわけではない。それこそ関係機関と協議を重ね、コースに当たる道路の管理に責任を有している警察の了解も取らねばならない。どの事業もそうなのだが、表舞台に立つ人より、陰で働く人の方が、どれだけ数も多く、苦労も重ねるかしれないのだ。

 「東京ふれあいマラソン第1回神宮外苑ロードレース」は1996年12月15日に行われた。実に準備に丸1年かかったのである。主催は神宮外苑ロードレース実行委員会、その構成団体は、日本財団、東京新聞・東京中日スポーツ、東京陸上競技協会、日本身体障害者スポーツ協会、SSF笹川スポーツ財団である。主管は東京陸上競技協会。後援は日本身体障害者陸上競技連盟、日本盲人マラソン協会。運営協力がランナーズ、ということになっている。

 この背後には、1995年以降廃止になっていた1つのマラソンがあった。テレビ東京、東京陸協が日本生命をスポンサーとして行っていた「成人記念レース」で、スポンサーがおりてしまったので中止されていたのである。東京陸協は運営協力費が入らなくなるわけだから、東京新聞に相談して新たなスポンサー探しをしていたようである。笹川スポーツ財団は東京新聞からその話を持ちこまれた時、一旦は断った。しかし暮れになって私が就任した時、思いがけず障害者マラソンの計画を口にしたので、この消えたマラソンの代わりに関係者の間で取り上げられたのである。

 このコースは、まずランナーたちが憧れの国立競技場をスタートとゴールに走れることが最大の魅力だった。ちょうどその日は、四十七士の討ち入りの翌日だったので、47人よりは大分足りない偽義士たちが、例の火事装束の下にスニーカーをはいたいで立ちで応援に来てくれた。その中には笹川平和財団の職員である青い眼の義士もいた。「義士が足りないのはどうして?」と私が笑うと、「赤穂に帰ってるんです」「大石クラノスケの眼をかすめて一力茶屋で遊んでいるんです」などという返事が返って来て皆で笑った。山鹿流陣太鼓の代わりに、やはり関連財団の日本音楽財団が、御諏訪太鼓と金沢百万石太鼓の2チームをボランティアとして出演してもらうように手配していた。この太鼓は実は盲目の選手への大きな応援の役割を果たした。伴走者が周辺の光景の説明をしながら走ってくれるとしても、神宮の森から響いて来る太鼓の音は継続的な応援として力強かったのである。

 この間、関係者すべてがあちこちで地道に努力したことに私は感謝したい。誰がどれだけ苦労したか、ということは神でなければ秤にかけることはできない。車椅子が健常者と同時にコースを走ると危険ではないかということが、最大の問題点だったから、鶴ヶ島?青梅間の高速道路が開通し、イベントの1つとして行ったマラソンで、準備のためのテストランをした。当時の運輸省と日本道路公団が、実に協力的に配慮してくれたのである。車椅子は5分間先に出走したが、実は上り坂では遅いので、たちまち後発の普通のランナーたちに呑み込まれてしまった。しかし折り返しの後で坂道を下る時、「突然ランナーたちの群が2つに裂けた」。そしてその中から「獲物を狩るチータのような精悍さ」で車椅子が現れ健常者を抜いて行った、と現場にいた人は書いている。私はその時、車椅子に道を譲ってくれた健常者のランナーたちのスポーツマンシップに、深い尊敬と感謝を覚えたことを今でも記憶している。

 しかし神宮外苑のコースには幾つかの問題があった。開催は日曜日ではあったが、交通の支障になることを避けるために同じコースを5周する。途中に坂がある。できたらもう少し伸び伸びとおおらかに、私たちの郷土である東京の景色を愛でながら走らせてあげたい、という希望は、初めから私たちの間で話に出ていたのである。

 その希望に沿った線で、2002年5月19日、東京都の顔となる「東京シティロードレース」が生れた。ニューヨークのシティマラソンと並ぶものである。いい天気であった。5000人以上が参加したし、帰りの地下鉄の中ではうちの職員がいるとも知らず、「東京もやっとここまでなったよな」と語り合っている参加者もいたという。ここまで漕ぎつけるためにも、関係者がほんとうに苦労をしたのを私は知っている。コースは皇居1周は少し無理だったが、日比谷公園から神保町、飯田橋、四谷から外苑東通りを抜ける国際マラソンの最後の10キロと同じコースを取り、ゴールは晴れの国立競技場という点でも選手の期待を裏切らなかった。

 1年目は主催が東京シティロードレース実行委員会で、その構成団体は東京都、東京陸上競技協会、日本障害者スポーツ協会、東京新聞・東京中日スポーツ、SSF笹川スポーツ財団である。主管が東京陸上競技協会。後援が文部科学省、厚生労働省、日本知的障害者スポーツ連盟、日本移植者スポーツ協会などである。既に神宮時代から、知的障害者がランナーに加わり、今回からは臓器移植によって人生を生き直しているランナーたちも夢を実現するようになった。

 しかし最初から、私は東京新聞と東京中日スポーツだけが、このレースにかかわるのでは不十分だと思っていた。ロードレースとしては唯一の東京都の主催事業である。それならば、他の全国紙もテレビもすべてがそれを応援して、そこに繰り広げられる人生にすばらしいものがあれば報道して当然だろう。東京新聞はブロック紙だから、他の全国紙に入って貰わないと、全国にランナーたちの活躍が報道されないのである。

 費用の点はどこに迷惑をかける必要もなかった。ランナーが参加費として分担する費用以外の総額(2002年の場合5770万円)は日本財団が出しているのだが、パンフレットには日本財団は「特別協賛」と書いてあるだけだ。金を誰が出したのかなどということをはっきり言わずに実現させようということである。金のことをこうしてあからさまに言うのは、私くらいのものだろう。

 しかし東京新聞は他社がいかなる形で加わることも頑強に拒否した。「業界の慣習は今までもずっとそうだから」というのが最初の理由である。日産のゴーン社長が聞いたら「元から考えろ。前もそうだったからそれでいいということでは答えにはならない」と怒りそうな話である。

 そもそもマスコミは「開かれ」ていることと「報道の自由」が売り物だが、事実はそうではなかった。100歩譲っても、自社が経済的に全く他者に依存していないならニュースを独占するのも当然だろう。しかし東京シティロードレースの場合、笹川スポーツ財団だけがスポンサーであり、笹川スポーツ財団に100パーセントの助成をしているのは日本財団である。そのスポンサーの意志を1パーセントも認めないというのが東京新聞の言い分であった。

 現場が万策尽きたので、私は9月13日、東京新聞の南行夫代表と会うことにした。南代表はこの障害者ロードレースの成り立ちについて次のように言って私を驚かせた。「東京陸協さんと私どもの事業局員のこんなことをやったらおもしろいんじゃないかから始まりまして、それで計画を立て」、スポンサー探しは「東京陸協さんとうちの事業局員とでいろいろ歩きまして曾野先生のところからご協賛を頂いたのです」。

 私はきっぱりと否定した。冗談ではない。私が言いだしたことである。南代表は「そういう主張を公的な席でも伺ったことはありません」と言ったが、それは南代表が他社の新聞を読まなかっただけで、1995年12月13日付の産経朝刊の24ぺージには出ていた内容なのである。これが「公的な席」でなくて何であろう。しかしほんとうは誰が言い出したことでもいいのである。私たちが望んだのは障害者が健常者と走れることだけだ。

 南代表は、他社を共催はもちろん協賛にも後援にさえ入れない理由として、このロードレースを「自ら主催している事業」だからとも言ったが、発案も、資金を出しているのも、東京新聞に管理費という名の手数料を払っているのも、ランナーたちと日本財団だ。またこの事業に他社を参加させない理由として「たくさんの競争相手の中で、他の新聞社との差別化を計って、自分の所の新聞の部数拡大につなげて行くんですよ」「商売なんです」と私に言い切った。私も新聞社が慈善事業で仕事をしているとは思わないが、障害者のロードレースまで「商売」だと言って憚らないことには驚いた。少なくとも日本財団は、身体、視覚、知的障害者と、臓器移植者たちの、生き甲斐のためにこの事業を始めた。こうした人々に普通の人の幸福を実感してほしいから、お金も労力も出す意味があると判断した。そして私自身も、関係者への説明や感謝のために動いた。このような感情は、南代表には全くなかった。

 この間、毎日新聞と産経新聞が、小心な業界の慣習を破って「参加します」と言ってくれたことに私は深く感謝している。それは一種の改革への気概であり、人生で筋を通すのは当然という良識の表れである。ことに産経新聞は「主催が東京新聞で、後援が産経ということなら、東京新聞の顔も立つと思いますが」と大人の考えを示してくれた。

 結果として、日本財団はこの東京シティロードレースから手を引くことにした。

 第1の理由は、南代表が、日本財団がなくても企画はやって行ける、とはっきり言い切ったから安心して撤退できたのである。日本財団はランナーたちのために、この企画がつぶれることをいかなる理由があろうと望んではいない。東京新聞が開催不可能な場合はすぐにも出動できるように、用意だけはぎりぎりまで整えているつもりだ。

 第2の理由は、日本財団は1つの会社がはっきり自社の商売のためだと言い切った事業に、財団の金を使うことはルールとしてできなかったのである。

 東京シティロードレースのお膳立てのために苦労した笹川スポーツ財団の職員が私は気の毒だった。私は労をねぎらった後で言った。

 「もしかすると、私たちには、もっと日が当たらないところでやるべき事業が待っているということかもしれませんね」

 「実はもうそんなような予感もあるんです」

 明るい顔だったが、私はまだその予感の内容を聞いていない。
 

「東京シティロードレース2002」について  
「笹川スペーツ財団」のホームページへ  


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