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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: パナマ運河見聞録  
コラム名: 文化問答“ヘソ曲がり人”の旅日記  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2002/11  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「コロンビアはお勧めできません!」 ≫

 地球の裏側のパナマ運河に行く。それは言うは易く、行うは難しだ。遊びで行くには遠過ぎて、日時と金がかかり過ぎる。仕事で出張するといっても、この地に格別の用件があるわけでもない。だが、はからずも、パナマ国に出かける機会が訪れた。それは旧知のリカルド駐日コロンビア大使との短かい会話がきっかけであった。

 「いや、今回はお勧めできません。わが国を訪問されるのは…。仮りに3人護衛をつけたとしても、あなたの身の安全は保証できないかも知れません」。

 私の勤務先、日本財団のプロジェクトの関係で、中米のホンジュラス、コスタリカ、そして南米のコロンビアの3国を訪問する仕事が持ち上がった。昨今のコロンビアの反政府ゲリラは、政府転覆から誘拐業に転業、もっぱら外国の要人を勾引かしては身代金を稼ぎまくっている。要人とも言えない私なのだが、念の為にコロンビア行きの是非を彼に聞いたら、そう言う返事が返ってきた。

 というわけでホンジュラス、コスタリカ出張のあと、私がコロンビアでの訪問先で会う予定の仕事上の相手に、隣国のパナマまで出向いてもらい、そこで落ち合うことにした。以下の紀行文は、言うなれば反政府ゲリラ故に、はからずも陽の目を見たのだ。

 2002年の10月。私たちはコスタリカから空路、次の目的地であるパナマ・シチーに入った。愛用の英文の地球1人歩きシリーズ、Lonely PlanetのPanama編にはこう書かれていた。


 パナマは運河だけの国ではない。潜水、魚つり、バード・ウオッチング、エコ・ツアー。世界有数の観光地なり。南北アメリカを結ぶ地狭で、一番細い部分800を占めるこの小さな国には、北アメリカ全体よりも多い940種類もの鳥がいる。南北大陸の交差点だから野生の動植物は多様にして、種類多し。パナマは単位面積当り、最も多種の動物がいる。首都から20分も車を走らせれば、熱帯雨林があり、ヒョウやピューマもいる。イカダ下りの川も沢山あり。でも観光産業はまだ幼稚。道路標識も未整備だ??と。


 私はもう1冊の本を持参した。英国のスパイ小説作家John le Carreの「The Tailor of Panama」(パナマの仕立屋だ)。運河の管理・運営権の米国からパナマヘの返還前夜のパナマを舞台に展開される諜報と陰謀の小説だ。現地で読むと面白さも格別ではないかと期待しつつ持っていったのだが、そこには、We’ve got everything God needed to make Paradiseとある。神が天国を作り給うのに、必要なものはすべてパナマにある??という意味だ。はたしてパナマは天国なりや否や……。


≪ ミラフローレス水門の「神技」 ≫

 コロンビアからやってきた客人との仕事を済ませた翌朝の土曜日、われわれ一行(私、日本財団国際部菅みずきさん、隣国の第2の都市カリから1時間半の空の旅で当地にやってきた日系2世のコロンビア人、カレン朱山さん)は、ガイド兼通訳と車を雇いパナマ運河見学に出かける。「隣の国だからといって、特権階級や大金持ちはともかく、普通のコロンビア人でパナマ運河を実際に見た人はまずいない。みんな貧乏だから…」現地の大学で小児科の免状をとったばかりの若い女医であるカレンさんはそう言う。「いや、日本人だってそうさ。遠いから…」。そんな会話を交わしつつ、パナマ市から北西へ車で20分、パナマ運河の3つの水門のうち一番太平洋側のミラフローレス水門に出かける。カリブ海から8時間かけて湖と運河を航行してきたコンテナ満載の巨大な貨物船が、太平洋に脱出すべく、最後の水門にさしかかっていた。海抜25メートルの自然の水路ガトウン湖をフルに利用したパナマ運河は、3ヵ所の水門で水位差を調整することによって、船は海より高い湖と水路に昇り、水平に航行したのち、出口の水門で反対側の海に降下する仕掛けになっていた。眼下に水門で区切られた長さ305メートル、幅33メートル、深さ50メートルのプール状の長方形の水槽に、6万トンの貨物船の巨体が浮かんでいる。

 じょじょに水が抜かれ、水位が下がり、巨体が沈んでいく。海水位と同じになると水門が開き、船はゆっくりと進み、やがて静々と海に出て行った。この間、約30分。水路の幅33メートルに対し、巨船の幅は32メートル。片側わずかに50センチのすき間しかない。まさに水先案内人の神技である。

 「エート。運河の通行料はですね。船のトン数で決まってまして、1トンにつき2ドル39セント。それも前金で、現金払いです。だからパナマ・シチーには銀行が多い。日本も第一勧銀と東京三菱があったけど、三菱は撤退しました。やっぱり日本、これからもずっと景気悪いんですかね」。日本の会社の現地駐在員だったご主人と一緒にパナマ・シチーに住む案内役の浅井明子さんの解説と感想だ。元専業主婦だが、ご主人の会社が倒産したとかで、市内のホテルで花屋を開業、時たまやってくる日本人観光客のガイドも引受けているとのことだ。

 「運河通過ぎりぎりの大型豪華客船で15万ドルがこれまでの料金の最高額ですが最低はいくらだと思いますか。ヒントは重量によって料金が決まるということ…」

 「木製の手漕ぎのボートの通過料金でしょ。1トンにも満たないから1ドルくらいかな?」

 「ハイ。だいたい正解。1928年、リチャード某という人が、太平洋から大西洋まで全行程を泳いで渡ったそうで、体重の計量の結果、徴収された通行料が36セントとのことです。どうして重さで料金が設定されたかというと運河の通過で消費される水は、船の排水量で決まるから。普段は、2つの巨大なダムに水を貯蔵しておく。この水を使って水門のプールに水を注入する。船が1回通過するごとにその水は海に捨ててしまう。世界有数の多雨地帯のパナマでしか、こんなに賛沢な水の使い方はできない」

 ガイドの浅井さん。主婦の余技にしては、なかなかの博識である。


≪ 国王の道という名の“黄金街道” ≫

 車で、分水嶺を越え、パナマ・シチーから運河の大西洋側の出口、コロン市に向かう。ここから東40キロのカリブ海岸に、1502年コロンブスが命名したポルト・ベロ(美しい港)がある。スペイン人のパナマ植民の起点である。

 「1503年、コロンブスが上陸してから16年後、スペイン人はパナマ地狭の反対側に太平洋があることを知りました。金の略奪が目的でやってきたスペイン人は、狭いパナマで先住民のつけている金の装身具を剥ぎ取り尽くすと、太平洋岸で、船を建造し、コロンビアとペルーに進出しました。ペルーのインカ帝国の文明を破壊し、神の像や、飾りつけなどありとあらゆる金を強奪し、これを溶かし、パナマ・シチー経由で陸路ポルト・ベロに運び、本国に船積みした。ホラ。あの道です」。

 熱帯雨林の入口で、浅井さんが指さした。幅5メートルほどの草むした道路跡らしきものが見えた。昼なお暗いジャングルの奥深く道が続いているように見える。ペルーの金を太平洋岸で一旦、陸揚げし、カリブ海まで運んだ昔のゴールデンロードで、「国王の道」と名づけられた。

 「現地人のベテラン・ガイドの案内がなければあの道には入ってはいけません。迷ったあげく山ネコに食い殺されるかも。冒険好きの人たちのエコ・ツア向き…」。彼女の観光ガイド風のセリフをさえぎり、ちょっぴりアカデミックな議論をいどんでみた。テーマは、「地狭パナマが、欧米人のために果たした地理上の役割」についてだ。

 「それは、この地が富の原産地ではなく、他の地域にある富への接近路、もしくは富の運搬路としての機能だったのではないのか」

 「ハイ。おっしゃる通りと思います。パナマが果たした道の機能の第1号が、王様の道だった」“学術ガイド”の顔に戻った浅井さんが、パナマ運河沿いに走る鉄道を指さし、「あれが第2号です」と。観光案内書によると、「この鉄道から見る運河と自然のコントラストは絶景」とあったが、なぜか土曜日は運休とのことであきらめざるを得なかった。

 この鉄道は、アメリカが建設したものだった。当時、パナマはコロンビア国の属州だったが、アメリカはコロンビア政府と交渉し、自由通行権と武力による鉄路の防衛権を獲得。1850年、コロンからパナマ・シチーまでの鉄道建設に着手した。

 折しもカリフォルニアは空前のゴールドラッシュであった。米国東海岸から北米大陸中央部を抜けて西海岸に出るには馬車しかなく、時間もかかるし、インディアンの襲撃にも備えなくてはならなかった。そこで考えたルートが、金鉱労働者を東部から船でパナマのカリブ海側の港に運んだ。そこから鉄道(当時でもわずか3時間)で、パナマ・シチーへ。そして船で太平洋を北上、サンフランシスコまで運んだという。

≪ 仏から米に、運河掘りの選手交代 ≫

 3番目に登場したのが、パナマ運河であった。現地で聞いた運河着工の前史は、興味深い。最初に運河建設権を獲得したのは、アメリカではなくフランスであった。リーダーは、1869年、全長162キロのスエズ運河を完成した仏人、レセップスであった。1881年工事が開始された。レセップスの目論見は、米国の作った鉄道線路沿いに、ほぼ海面の高さで水平に陸地を削り取り、運河を建設することだった。分水領と海面の標高差はわずか30メートル、簡単にぶち抜けると思ったものの、岩盤が硬くて工事は立往生した。その間、黄熱病とマラリアが蔓延、なんと工事開始以降、10年間で2万2000人が病死し、レセップスの会社は財政危機に陥入り倒産した。

 フランスは運河建設権をアメリカに売却したが、コロンビア政府はこれを拒絶、結局アメリカはコロンビアに2500万ドルの賠償金を支払い、1903年パナマ州を独立させ、10年がかりで、7万5000人の労働者を使って運河を完成させた。それは、レセップスの水平運河とは全く異る方法で、ダムと水門をふんだんに作って、自然に逆らわずに船を山上の湖まで揚げてから、反対側の海に降ろす水路のシステムだった。

 「運河の建設には1人だけ日本人の技師がいました。青山という人で、東大の土木科を出たあと、単身志願して運河建設会社に入り、測量や水門の設計に加わった。始めは日本政府が派遣したスパイ扱いされたらしいけど、だんだん技師仲間の信頼と尊敬を勝ちとったと聞いてます」と浅井さん。

 帰国後、調べてみたら、この人は内務技監をやり、東京の荒川放水路の設計を手がけた青山士氏であった。青山氏がスパイ扱いされたというエピソードは、パナマ運河はいかに米国にとって戦略性が高かったかを物語るものだ。

 「第2次大戦中、米国の延べ5300隻の軍艦と8500隻の輸送船が通過した」。

 パナマ運河委員会の資料にはそう書かれていた。


≪ パナマに戻ったパナマ運河 ≫

 だが、1914年の運河開通以来、85年目の1999年12月31日、米国は運河をパナマ国に返還した。

 返還までの間、運河を通行した船は70万余隻。開発コストの3分の2を回収した時点であった。返還が決定されたのは1977年、カーター大統領の時代であった。何故米国は返還する気になったのか。それは、運河の戦略的価値が下がったからだ。そもそもパナマ運河建設をもくろんだ19世紀末、米国は大西洋と太平洋の双方に強力な海軍力の展開を必要としていた。2つの海にそれぞれ大艦隊を常備するより、情勢に応じて、移動させる方が得策であることはいうまでもない。運河建設によって、米国東海岸から太平洋への航路を3分の1に短縮できる。民間の船舶航行による経済的利点はもちろんのことだが、米艦隊の機動力を生かすねらいがあった。水路の幅は米国の最大の戦艦に合わせて作られた。始めに軍艦ありき、米軍艦が水路の幅を決定し、民間の船舶は、パナマの規格に合わせて船を建造した。豪華客船クイーン・エリザベスも実はパナマをぎりぎりで通過できるよう設計され、世界のすべての艦船が最大6万5000トンのパナマ仕様だったのだ。だがいまは違う。1970年代から米国は空母をはじめ運河を航行できない大型艦船を建造し、超大型のタンカーも続々と出現した。そこで米国は、上院でわずか1票差ではあったが運河返還の条約を批准した。中南米諸国の反米ナショナリズムを抑制し、民主主義を推進するのが、米国の政治的ネライだった。

 「ここは、元アメリカ領でした。いまパナマ人はここにある美しい芝生に囲まれた住宅に住むのが、一生の望みです」。ガイドの浅井さんがいう。1903年のパナマ独立直後に締結された運河条約で、米国は運河の両岸それぞれ幅8キロ地帯の永久租借権をもっていた。ミラフローレス水門近くの空港つきの広大な米軍基地をはじめ、運河沿いの随所に貧しいパナマとは別世界の立入禁止のアメリカ村があったのだ。国土の全域に町主権を回復したのを機に、パナマ政府は外資を導入、再開発をやっている。米軍の兵舎や家族用住宅を改造した分譲住宅5万〜15万ドルで売り出されているが、1人当り平均3200ドルというパナマ人の所得では、特権階級しか手が出ない。おまけに米軍撤退後のパナマ経済は、深刻な不況が続いている。


≪ ノリエガさんは、いま… ≫

 旧アメリカ村の中に、かの悪名高きノリエガ将軍の出身校である米国士官学校のパナマ分校があると聞いて訪れた。湖に面し、熱帯雨林生れの名も知らぬ赤や黄や青い鳥が舞う景勝の地であった。外資が買収し、いまはホテルになっている。不況のせいか観光客誘致下手のせいなのか客はまばらだった。

 ノリエガは、アメリカの製造した「フランケンシュタイン」である。現地の士官学校を優秀な成績で卒業した彼はCIAのエージェントとして米国に奉仕した。そして米国の後押しもあってパナマの秘密警察長官にのしあがった。ここで米国の忠実な部下は変身する。警察軍を国防軍と改称、批判するメディアを閉鎖、大統領を追放し、みずから大統領代理となる。隣国コロンビアの麻薬の対米密輸に関与したり、さらにハイテク製品をキューバに売却したりで、業を煮やした米国はノリエガを犯罪組織の一員として告発した。1989年12月、ノリエガは米国に対して宣戦布告、米軍はパナマを爆撃、90年ノリエガを逮捕、投獄した。その間、パナマ運河は1日だけ操業不能に陥ったが、これが運河史上唯一の休業であったという。

 「ノリエガさんはいま、マイアミの刑務所にいますが、面会に行った家族の話では最近すごく落ち込んでいるそうです。パナマの新聞に出てました」

 「刑期は何年?」

 「40年と聞いてます。死ぬまで出られないと嘆いていたということです」

 「この大邸宅、誰か住んでるんですか」

 「いえ、誰も住んでません。でも親戚の人々が、毎週一度掃除に来てるという話です」

 パナマ市、サンフランシスコ通り。海と旧市街と、高層ビルの林立するパイディージャ岬を見おろす丘の超高級住宅地にあるノリエガ将軍の居宅前でかわした私とガイドの浅井さんとの会話である。「NORIEGA」と書かれた白いタイル板の表札が、門柱にかかっていた。庭に咲く真赤なブーゲンビリヤと、純白の白くて太い穂をつけたすすきが、あまり高くない柵の向こうに垣間見えた。うっかり「パナマの秋ですね」といったら、笑われた。北緯10度のパナマには、春も秋もなく、あるのは雨期と乾期だけ。すすきは1年中繁茂し、たわわに穂をつけてます??と。
 



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