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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 残虐な少年民兵たち  
コラム名: 私日記 第37回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年9月26日

 昨夜から今朝にかけて、私たちがぶつかった問題は、確実になって来たらしいコート・ジボアールの反乱をいかに避けて、この国(シエラレオーネ)の首都フリータウンから、コート・ジボアールのアビジャンを経由せずに、予定通りカメルーンのドゥアラに入れるか、ということだ。既にアビジャン空港は閉鎖され、外国人の国外撤退が始まっている、という。国際線の定期便も止まったというが確実な情報はほとんど入らない。このルンサーという田舎町は、国際携帯電話さえサービス外の地域である。

 我々「アフリカ貧困調査団」(むちろん仮称である)は20人いるのだ。飛行機のルートを変えるにしても、動乱国の周辺で簡単に他のルートで20席が取れるかどうかが問題なのである。私としては時間とお金をけちりたいという両方の理由から、できるだけ元々通り東西に移動するルートを取りたいが、それがかなりむずかしくなって来た。昔からアフリカは、旧宗主国、つまりヨーロッパとしか飛行機の路線が繋がっていないのである。

 財団の人たちと、私はナイジェリアのラゴスを経由する方法を考える。しかしそうしたローカル便は、これまた欠航になることも多い。一旦ヨーロッパヘ行くとすれば、パリかロンドンか。適当な便がもしサベナ航空にあるようなら、ベルギーのブリュッセルヘ出てもいいのではないか、というような協議をしているうちに、同行の霞が関の公務員たちの公用旅券には、渡航先国の限定があり、ベルギーもナイジェリアも記載されていないことがわかった。これには私もがっくりした。ナイジェリアに入るには、首都のフリータウンでシエラレオーネ人の日本国名誉領事に渡航先国の追加を書き入れて貰わねばならないのだが、その人が今休暇で留守なのだと言う。

 時々冗談を言いながら、極めて不真面目に、詰め将棋みたいに脱出作戦を考えている間の私の暴言。

 「ブリュッセルでは私たちは外のホテルに行ってゆっくり飛行機待ちをしましょうよ。こんな融通のきかない公用旅券を持って来た公務員たちは、2日でも3日でもずっと飛行場の待合室の椅子に置きっぱなしにしとけばいいんですよ。それならベルギーに入国することにはならないんですから」

 的場順三・日本財団理事の優しい忠告。

 「曽野さん、昔はそれで済んだんですけど、この頃はセキュリティがうるさいから、空港の廊下にいても必ずパスポートを見られるんですよ」

 夫の暴言。(帰国後のこの事件についての発言)

 「いいんだよ。公務員たちが不法入国だとわかったら、ほっておいてもベルギーが国外退去という形で、日本に送り返してくれるから、大丈夫」

 しかし諸般の手当てのために的場氏、経産省の平塚さん、通訳のミシェルと私は、朝、7時にルンサーを発ってフリータウンヘ。

 午後、スラム街へ。足元には不潔な水溜まり。板を寄せ集めた小屋。川にはゴミの山、その中で豚と子供たちがはしゃいで遊んでいる。コレラともO?157とも関係なさそうに見える。何という強靭さ。日本人が除菌グッズとウェツト・ティッシュ症候群に悩んでいる一方で、シエラレオーネではこういう子供たちが育った。

 スラムに近い町中のビルの2階で、内乱の時、民兵として駆り出され、シエラレオーネ人の手足を切断する、というむごたらしい行為に及んだ少年兵たちの、心のリハビリをしている神父たちの施設に行った。子供たちの多くは10代。5歳からそうした「軍事訓練」を受けた子供もいる、という。麻薬を飲まされ病的に意気高揚した状態で、そうした「仕事」を命じられたという。体のよく発達した女の子は今10代の末だが、その後売春もしたり、妊娠中絶を体験したり、悲惨な状態だったという。

 その後で、今度は被害者たちのリハビリセンターへ。手足を切られたのは、男も女も子供もいる。まだ小学校へ上がるか上がらないかの年で松葉杖の子がいるが、その子も私たちが持って行ったサッカー・ボールには生き生きとした反応を示した。彼らの苦悩は複雑だ。彼らは、敵、というより同胞からこうした残虐行為を受けて、しかも加害者は子供だった。両手を失って生きる一生の重さを、できることなら、報復という形で相手に思い知らせてやりたいと思うだろう。しかしやりきれないことに、加害者は子供だったのだ。子供に報復をすれば、また新たな心の重荷を背負うことになる。

 許し、という最も人間的な行為が、21世紀の最大の課題となるだろう。

9月27日

 荒涼としたラカ地区の義足工場、隣接したハンセン病患者の病棟、結核患者病棟を見学する。スウェーデン人のドクター・ウェストマンが、1人でここに頑張ってハンセン病と結核を診ている。炊事場が古くて使えないので、何とかして作ってもらえないか、とこれは日本財団への依頼のように見える。

 昼食後、初期の宣教者としてこの国に入り、全員3ヵ月以内に死亡した神父とブラザーたちの墓に詣でる。短篇1つ書けると思う。町へ戻ってやはりパリに一旦戻る便が取れたことを知らされてほっとする。町の本屋に行こうとして場所を聞くと誰かが「本屋はあるけど、本はないわよ」と言った。果たしてその通りであった。大司教のオフィスのあるビルの前にいた男の子は私たちに入り口を示しながら、「大司教の部屋は4階だよ。金をくれないか。大司教の部屋は4階だよ。金を少しくれよ」と繰り返す。おもしろい言葉だと思う。

 夜10時近くにロンドンヘ向けて発つ便に乗るのに、5時にはもうホテルを出る。


9月28日

 昨夜は寝入る前にふと見ると、飛行機はサハラの上を飛んでいた。少し太った下弦の月が煌々とサハラを照らしているのに、それでもなお恐ろしいほどの星が散らばっていた。まだ暗い5時少し過ぎに、ロンドン着。

 皆でピカデリー・サーカスの近くの中国料理屋でお昼ご飯を食べて、お開き。私はイラク攻撃とブッシュに反対するデモに数百メートル加わって歩き、それから初めて入る本屋へ行く。ロンドンの唯一の楽しみは2日くらい続けて本屋へ行くことだった。それなのに有名な本屋が次々となくなっているとのこと。本屋がないロンドンなど、立ち寄る意味が全くなくなってしまった。物価は高く、デザインはヤボで、買うものがない。


9月29日

 早朝ロンドン発。パリで2時間の待ち時間があったが、7時間近くの飛行時間でカメルーンのドゥアラ着。熱帯性の暑さ。

 果たして荷物が7個出て来なかった。それでも物は、パリのシャルル・ドゴール空港にあるから、明日の便で届けるとのこと。

 私の荷物も実はなくなった中の1つなのだが、私はまちがいなく積み残されると初めから思っていたので、必要なものは全部手荷物に入れて持っていたから、何も不自由しない。しかし着替えがなくなってがっくりしている霞が関組もいるので、私は内心嬉しくて仕方がない。これでこそ、アフリカというものと対処して生きるすべをわかってもらえたと思う。

 ドゥアラのホテルはメリディアンだから上等。シスター・佐藤という方が、ホテルで待っていてくださった。初対面だが、この町の大司教区が経営する診療所で看護婦さんとして働いておられる。シエラレオーネの地方でスウェーデン人のウェストマン医師が長い年月がんばっている姿にうたれたが、日本人のシスターたちもこうして貧しい土地に住み着いてすばらしい仕事をしていらっしゃる。自分は安逸の中に生きながら、誇らしい思いになる。


9月30日

 8時、ドゥアラ発。荷物がなくなった7人のうち、防衛大学校の藤田さんと私以外は、汗くさいシャツのまま着替えなしに寝たはずだ。藤田さんはさすがに着替えを持っていた
か、着の身着のままごろりと大地に寝る訓練ができているのか、涼しい顔。首都ヤウンデ経由、午後1時半過ぎ、オバラという町の修道院に着き、シスター・田中一栄とシスター・末吉美津子のお2人に再会した。

 シスター・田中はこのオバラで学校の仕事をしておられるが、シスター・末吉はもっと東北の国境近くで、森の中のピグミーの子供たちの教育をしている。私が関係している海外邦人宣教者活動援助後援会が、その子供たちの学用品を調えるためのお金を出していた。ところがシスターがお休みを取って2、3ヵ月日本に来て、またカメルーンに戻ってみると、ピグミーの子供たちは皆森へ帰って連絡がつかなくなっていた、という。とにかく、電話も、所番地があるわけでもないので、連絡の取りようがないのだという。しかしそのうちにシスターが帰って来たという風評が流れるとまた集まって来るのである。便利なものだ。そんな話が私たちにアフリカのおおらかさを強烈に印象づけていたものだ。

 皆が中学校と診療所を見学に行っている間に、私は昼寝。シエラレオーネの最後の頃から寝不足が続いているので、この辺で取り返そうという計算である。夜は他に10人近くのシスターたちといっしょに、持参のラーメンと、この土地の主食であるマニヨク薯もきちんと用意された大ゴチソウを頂いた。マニヨクの味も知らずに援助の仕事はできない。

 怠けると元気になり、幸福になる。

10月1日

 午前中(教会立小学校や公立病院を訪ねる。学校の前の荒れ地に一基の墓がある。誰のものかわからないし、長い年月の間に、雨で遺骸も洗い流されているだろうと思う。不思議な光景。

 修道院でお昼を頂いてから、シスターたちと来年の再会を約して、ドゥアラに向かった。明日は飛行機が朝7時15分発だから暗いうちにホテルを出なければならない。ホテルに着くとすぐ、遅れて着いた私たちの荷物がほとんど開けられていることを知らされる。盗みか、検査のためか。とにかく鍵無しで開けられ、私の布カバンはナイフで裂かれている。紛失物はないのだが布テープで外をぐるぐる巻きにしてやっと保たせられるほどの重傷。

 同行者の被害はすべて「カナモノ」のみ。パノコンをカバンに入れていた人には、「内容に国家機密はありませんでしたか」と一言イヤミ。財団職員の1人は、デジカメをやられた。金目のものを身の廻りから離すのは不用意なのだから、お悔やみを言わないことにした。これでアフリカが密かに私たちに用意していた「つまずきのカード」の3枚目を引いたことになるのだから、この研修旅行の目的は徐々に達成されている、と喜ぶべきなのである。しかし後、何枚この手のカードを引かねばならないか。「あまり多くないことを願うばかりですね」と皆で楽しく笑う。秀才も鈍才も同等に予見能力がないことがおもしろい。


10月2日

 朝4時にモーニングコール。星を頂いて4時50分、ホテル発。空港に着いたとたんに、飛行機が来ていない。出発は夜、9時45分になったと言われる。昨日「カードはもうたくさん」と言ったばかりなのに、再び4枚目が出た。

 ほんとうに笑い事ではなくなって来た。さっきチェックアウトしたばかりのメリディアン・ホテルの部屋は、12時までは使う権利があるので、再び戻って朝食を食べ、部屋で休息。私はこういう時、細切れの時間には全く眠れない。昼ご飯に集まって食べていると、出発時間は再度遅れて、明日朝5時15分と言われる。つまり約22時間遅れることになったのである。飛行機会社はもちろん一切の補償をせず、ホテルの面倒も見ない。

 メリディアン・ホテルは満員で延泊は無理だという。明日朝まで空港のベンチにいたら、疲労もひどくなるだろう。メリディアンでビジネス・ホテルを世話してもらってから、飛行機が遅れたおかげで、予定になかったシスター・佐藤の働く診療所を午後に見られることを喜ぶことにしよう、と思う。

 診療所は、昔かなり裕福だった普通の家を使っているから、待合室も充分ではない。屋外に差し掛けを作っても1日500人から来る患者をさばき切れない。私がショックを受けたのは、診療所にその時、一滴の水も出ないことだった。トイレを流すのにも、貴重な汲み置きの水を使う。時間外で患者はいなかったが、シスター・佐藤は言う。

 「日本人は、医療機関は最低手を洗う水が必要だという感覚ですけれど、ここの人たちはもともと手を洗う習慣などないんです。ですから診療所に水がないことより、他の設備を調える方が先なんです」

 こういう論理は納得するのに、私の心の中で葛藤がある。それが少し疲れる。

 ビジネス・ホテルに入る時、私は毎回30個以上の重い荷物を流れ作業で出し入れしてくれている若い人たちが気の毒で、つい熊瀬川紀カメラマンに小声で尋ねた。

 「熊さん。今晩この荷物、バスの中に入れっぱなしにしておいたら……やっぱり危険よね」

 彼は夫の教え子だがパリに住んでいて、私に厳しく保安についての心構えを昔から仕込んでくれた人である。熊さんは言下に言った。

 「とんでもありません。全部盗られますよ」

 誰も嫌な顔1つせずにやってくれるが、こういうことも疲労に繋がるのである。


10月3日

 今度こそ発てる。朝7時空港着。9時15分ドゥアラ発。2時間15分の飛行。中央アフリカ共和国のバンギ着。

 ここでは鹿島建設がODAで300キロに近い長い工区の道路建設をしている。我々の中には林野庁の滝さんと国土交通省の八尋さんの2人がおられるので、地方の建設現場とその近辺に入ることは少しは役に立つだろう、と思う。

 それとここには私が1985年の飢餓の年のエチオピアで知り合った看護婦の徳永瑞子さんが、1人でエイズ患者を診ている。

 空港で、連絡も取れず、約1日到着が遅れたことを詫びると、過去10年間に何回もの政変、退去、帰任、の嵐に耐えて来た吉田哲朗前所長は「なあに、こんなことはざらですよ」と、これがアフリカ式の爽やかな挨拶である。

 グループは午後すぐ鹿島の現場に出発する組と、バンギに残る組との2手に分かれる。

 いつの日かこの簡易アスファルト舗装は、中央アフリカ横断道路になる予定線であろう。先進国なら、それは確実な事業である。しかし部族間の内乱に、ダイヤや金やその他の地下資源に目をつける先進国のあくどい干渉が続くアフリカでは、いつそのような道ができるか、予定も立たない。

 私は心の中で、36年前『無名碑』を書くために、泥沼のようなタイの現場に入っていた時の「道」のことを思い出していた。あれは日本の大手ゼネコンが、海外工事を始めたばかりの時で、現場の警察に賄賂を要求され、その事情を本社にわかってもらえず、その費用を何という名目で落としたらいいかさえ悩んでいた時代だった。

 現場ではあらゆるものが盗まれた。作業から帰って来たダンプは(毎日日没後には、つけ睫毛のようにワイパーを取り外してロッカーに納める。そうでないと、朝までにワイパーは盗まれるからであった。散水車は丸ごと奪われ、数時間のうちに座席のシートまでばらばらにして、車体の姿もわからないほどに解体されて売り払われた。

 しかし今は違う。夜7時過ぎに着いた鹿島の現場宿舎は、自家発電の電気が煌々と輝くリゾート風の基地で、プールから、中央に会合や談話室としても使える大きな亭まである。

 ODAの任務として、現場の整理整頓、やっつけ仕事でない厳密な技術の移転、絶えずどうしたらいい結果がでるかという研究の継続などを、現実に見せるのだと歴代所長さんたちは言う。今までに数回、動乱で日本人は退去したが、その間、現地の責任者に数ヵ月分の給料まで預けて来た。危ぶむ声もあったが、その金は持ち逃げもされず、乱用もされず、中央アフリカ人だけで安全に運用と保全が続けられて来た。だから日本人は帰って来るとすぐ工事を続行することができた。

 既に新しい時代に入って来ている。今夜はコンテナーを改造した立派な現場宿舎に泊めてもらう。


10月4日

 朝の6時半のNHKラジオ体操は、ブルドーザーやグレーダーやバックホーなどが整然と並んだ重機の前で、現場の職員たち数十人といっしょにやる。もっとも普通は6時からだそうで、我々のために朝礼を30分遅らせたのである。

 ここの土そのものは赤いラテライトで、よく締め固めが効く。普通のアスファルト舗装ではなく、2層にした路床と路盤を、最後にカットバック・アスファルトと呼ばれるやり方で仕上げをしている。問題はこの国が内陸国で、カメルーンからの資材は輸送に1週間から10日かかるので、常にアスファルトなどの備蓄をしなければならないこと、5月から8月までの4ヵ月間は雨期で工事ができない、などという制約があるごとだという。

 ここで杏林大学客員教授の辻守康先生にお会いできたのは、ほんとうに嬉しかった。先生は現場の近くのケラ村という「人食い」だという評判の村に、約30年も熱帯病の治療と検査のために入っていらっしゃって、今では名誉村長さんなのである。野天の粗末な診療机の傍には患者が溢れているし、ドクターが村に現れる日は、皆お祭り気分で広場に集まる。いつもならこういう時、私は丸1日でも2日でも、ドクターの傍に座り続けて、患者たちのパーソナル・ヒストリーを聞くのだが、今日はそれができないので欲求不満。

 鹿島の現場では、昨日は焼き肉、今日は寄せ鍋の夕食を用意して下さる。


10月5日

 朝早く現場を出て、バンギに向かう。途中ポロロ族の村に立ち寄る。彼らは牧畜民でイスラム。子供たちがコーランを書いた版木を庭に拡げて勉強をしている。草の香りが漂う中で、おばあさんはハンセン病。しかし笑顔が穏やか。

 午後バンギで、徳永さんの働くエイズ診療所を訪ねる。中央アフリカのエイズは18パーセントから20パーセント。薬代が今日現在月4000円はかかるので、すべての人がその恩恵に与るわけにはいかない。

 徳永さんの職場は病院ではなく、診療所なのだが、2階の1室に数人の患者を見るに見かねておいている。そのうちの1人は30前後に見える女性で、頬骨が骸骨に見える末期患者だった。夫は母子を捨てて行ったのか、姿は身近にない。2人の幼い娘のうち1人はもう亡くなった。徳永さんは母子の生活を守るために診療所で働かせて来たが、最近彼女がもう動けないほどに体力が落ちて来た。残された娘も長く生きる保証はない。今この1日1日を生きるように手助けするのは、残された母と子が、お互いの思い出をできるだけ多く作るため、と言う。こんな無残な人生は日本に全く見当たらない。

 夜は、鹿島のバンギ事務所で、高倍大使ご夫妻他大使館の関係者が来てくださって、私たちの持参の材料で作ったカレー・パーティー。カレー・ライスだけで人をご招待できるなんて、いいところだ。大使館のコックさん手作りのシュークリームが賛沢なデザートである。

 明日はついに帰国の途に就く。皆の命を無事に日本まで連れ帰ることができたら、感謝以外の何もない。
 

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