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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: ノーベル平和賞?カーター氏にふさわしい  
コラム名: 新地球巷談 17  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2002/12/23  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今年も残りわずかとなりました。1年を振り返ってみますと、世の動きを含め、本意ならず不満や反省することも多々ありましたが、小柴昌俊さん、田中耕一さん、お2人のノーベル賞同時受賞とカーター元米大統領のノーベル平和賞受賞は、まさに掉尾を飾る快事慶事でした。

 特にカーター氏の受賞は、長年の友人であり共に仕事をしている者として大変うれしいことでした。ノーベル平和賞については、政治的意図が顕著なことから、その存在意義を含め首を傾げる方々のあることは十分に承知しています。しかし、受賞理由として『紛争を未然に回避する予防外交の分野での貢献』が挙げられており、首肯すること頻りでした。

 たまたま海外出張中のホテルで見たCNNニュースの画面にカーター元大統領が登場し、受賞の弁の中で「数ある予防外交活動で最も印象深いのが北朝鮮との交渉だった」と話していました。その言葉を聞きながら、私は「カーター訪朝」実現のために努力した日々を思いだしていました。

 カーター氏の北朝鮮訪問は、1992年3月、私が北朝鮮を訪れて故金日成主席と会談したときの会話に始まります。金日成主席は、日本の金丸訪朝団との三党共同宣言の失敗は、自分自身の外交知識の不足が原因だったと述べました。私はそれに対し再三、日朝交渉よりも米朝交渉の重要性を説明しました。

 当時、北朝鮮の核開発疑惑に業を煮やした米国が、核施設へのピンポイント爆撃をほのめかすなど、米朝関係は一触即発の状態にありました。強者による弱者への恫喝だとして対米不信をぶちまけながらも「誰か信頼できる米国人がいれば即座に軍事施設を見せるのだが」と話す金主席に対し、私は古くからの友人、「カーター元大統領なら必ず期待に応えてくれる」と推薦したのです。

 平壌から戻った私は隠密裏に折衝を開始しました。数度にわたる私との話し合いの末、カーター氏が最終的に訪朝を決断したのは93年1月、クリントン前大統領の大統領就任式の朝、国務省で開かれていた祝賀パーティー会場でした。

 人々が談笑するなか、2人で抜け出し隣室の椅子に座り、私は決断を促しました。彼はすでに覚悟を決めていたのか、韓国からの米軍撤退問題を議題にしないこと、平壌へは韓国側から休戦ライン上の板門店を経由して入ることを条件に訪朝すると確約しました。

 決断から1年半、この間、ダブルトラック外交を嫌うクリストファー国務長官を中心とした当時のクリントン政権からの妨害など、難問を乗り越えてカーター氏は94年6月、平壌を訪問、金日成主席と会談し、政府間レベルでの米朝対話の端緒を作ることとなりました。ワシントン・ポスト紙の著名な外交記者だったオーバードーファー氏の言葉を借りれば、『朝鮮半島が火の海と化すことから救ったカーター訪朝』でした。

 ところで、私がカーター氏と面識を得たのは81年、彼が大統領職を辞し、故郷ジョージア州のエモリー大学で教鞭を執っているときでした。学生食堂の脇に作られた一室にベッドを置いて寝泊まりしながらの生活は、一種、求道僧の雰囲気がありました。

 以来、彼と私はアフリカ14カ国での零細農民救済のための農業開発事業を行って17年になります。したがって、少なくとも年に1度は地球上のどこかで会う仲ですが、いまなおその雰囲気は変わりません。元原子力潜水艦艦長であった元大統領には規律、律義、真面目、理想主義といった言葉が良く似合っています。

 かつて、アフリカの暴れん坊といわれたガーナのローリングス前大統領がカーター氏や私を前にこう話しました。『米国は1人の凡庸な大統領を失った。代わりに世界は素晴らしい米国元大統領を得た』と。

 とかく理想主義に走るきらいがあるとの批判はありますが、齢80を間近(78歳)にして東奔西走、地域紛争の解決に粉骨砕身する姿には頭が下がります。ノーベル平和賞にふさわしい人物でしょう。
 



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