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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 尊厳に満ちた生き方?自分のすべきことをすればいい  
コラム名: 透明な歳月の光 36  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2002/12/06  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   亡くなった母と私の主治医でもあったドクターに、私は何となく自分の最期もみとって頂けるような気がしていた。しかし考えてみると、ドクターは私よりお年上だったから、自然のことわりとしてそれは無理だったのだろう。

 先日、ご自分の重篤な病を知りつつ、亡くなる数日前まで仕事をなさって眠るように亡くなられたという話を奥さまから伺った。私はまだお元気な頃のお顔だけを思い出していた。いつもにこにこと柔らかで、昼ご飯抜きで100人もの患者を外来でみられても、疲れたとか、急いでいるとかいう素振りを決して見せない方であった。

 お葬式の時に記念に頂いて来たカードには「働きと祈りと愛とでその日を満たせ」という言葉が書いてある。10代の青年だったドクターに洗礼を授けたパリ外国宣教会の、ラリウ神父という方の座右銘だという。

 ほんとうにその通りに生きられた方だった。この3つの項目は、すべて明白な意志による行為である。市民として要求することが権利だとか、人を非難することが正義だとするような現代の風潮とは無縁の、あくまで自分のすべきことをするという、尊厳に満ちた自己完結型の生き方である。

 奥さまのお話によると、海がお好きだったので、海の近くにお住まいを作られ、遺言で海に散骨された。私がよく週末を過ごしている相模湾の、夕陽の輝きの中にドクターは帰られたのである。

 相模湾の夕景は、それ以来私の中で亡き方の視線となった。夕映えが波と空を毎日違った言葉で語りかけるように染める。人間の一生は永遠の前の一瞬に過ぎないと知りつつ、その一瞬がこれほどに重く、濃密な意味を持つのか、と私は感動に震える。

 考えてみれば、よい人生というものは、簡単なものだ。「生かし、与え、幸福にする」それだけを守ればいいのである。「殺し、奪い、不幸にする」ことの平気な為政者が世界のあちこちにいることを思えば、理解は簡単である。

 ただ単純なことは、むしろなかなか簡単にはできないことが多い。

 中絶という名の殺人もせず、平和を標榜しながら武器を売る国家にもならず、個々の家庭が穏やかで呑気に助け合い庇い合って、もちろん暴力の気配などなく暮らす。この3つの点だけで検証しても、多くの国家と社会と個人が、これに該当しなくなるのである。

 「与え」るものは物質だと思っている人も多いだろう。そうではない。知恵、体験、忍耐力、健康、自由、納得、献身する姿勢、悲しみを通り抜ける術、不幸を受諾する勇気まで、物以上に力を発揮するものはたくさんある。私たちはそれらの存在の大きさをまだ知っていないように思う。
 



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