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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: どちらも自由意志  
コラム名: 昼寝するお化け 第265回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2002/12/06  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   11月12日付けの産経新聞の投書欄「談話室」に滋賀県日野町の高橋源三郎48歳(地方公務員)という方が、次のような趣旨の談話を投稿していた。

 日本で葬式の前に通夜をするのは、その間はまだ魂が肉体に残っていて、徐々に抜け出すのにそれくらいの時間がかかるということを「直感的に知っていたということではないか」。それゆえ、脳波の停止で死と決めるのは、脳死者への配慮にも欠ける。「ドナーカード」を持っていれば、その人は脳死による死者と認定され、移植のための臓器提供者となる。しかし「カードを持っていなければ、その扱いにならない。このような論理の矛盾は、自然界の『理』を無視した人間側の都合で決められたことではないか」。

 今からもう10年も前に延々2年間にもわたって討議されたいわゆる「脳死臨調」の一委員として、私が当時ほとほとくたびれたのもこの論理であった。

 初めにはっきりしておくが、私はこの方が、このような考え方を持たれることにいささかも反対でない。人は皆自分の希望によってかなり自由に自分の人生を設計できる。最近では、癌と宣告されると手術を拒否して自宅に帰り、残された時間を充分に家族と共に過ごす、という人も増えて来た。そういう話を聞く度に、私は温かい思いになる。一方で幼い子供のために、どんなに苦しい療法でも受けて、何とか生き延びようと努力をしている人もいる。その人に対しても私は深い尊敬を覚える。この2つは少しも矛盾しない。

 私は最近、1人の医師から著書を寄贈された。著者の神保実氏は脳外科のドクターで、まだ35歳の若さで白血病で亡くなった私の親友の弟である。その本の中で神保氏ははっきりと書いている。

 「脳死から回復することはない。もし戻ったら、脳死と言ったのが誤診だったのである。この辺の診断が難しいところだが、時間的に余裕をもって経過を見ていれば、間違うことはない」

 「脳死は、重症脳障害の患者が、治療も万策尽きて、心臓死にいたる途中の過程であって、変な言い方だが、自然のコースだ。それが、人工呼吸によって、時間的に延長されているに過ぎない。意識はなくとも、血圧は保たれ、呼吸もしている。まるで眠っているようだ、という表現は適当でない。」

 「患者は呼吸『させられる』わけで、管理がよければ、この状態で1ケ月近く保つこともあるが、やはり器械による呼吸には限界があり、普通、1週間ほどで心臓が弱って死亡する」

 私の知人の救急センターで働く看護婦さんによれば「傍にいればすぐわかります。人工呼吸器で呼吸が続いていても、やがて鼻や耳から脳が腐敗する臭いがして来るんです」ということなのだ。

 しかし私は投書者の高橋氏が、心臓が止まるまでは断じて死ではない、と言われることに賛成なのである。そう思うのも、自然だ。そして高橋氏は、断じてそう思うことを、貫くことができる。誰もそれを妨げはしない。

 しかし1人のカトリックとして、私たち家族は、脳死になったら、せめてまだ生きられる人に臓器を提供して、その生命を救いたい、と願ったのだ。私たちは、こうした望みが、決して大多数の感情ではないことを知っていた。しかし医学的に無謀な判断でもないことは、この神保氏と同様、脳死臨調に加わっていた医学関係者全員が、脳死は人の死であると認めていたことでも証明できる。

 ただ先にも述べたように、人は皆自分の好みで生きるべきなのだ。死者をして、自分の命を最期に他者に与える栄光を得させたい、と思うのも、キリスト者の考えなのだが、そうでない人も当然いるだろう。

 だから私たちは最初から脳死による臓器移植は、厳密に「あげたいと望む人と、受けたいと希望する人との間」だけで行い、決してそれを一般的な制度にしようとしなかった。それが当人が生前に作る「ドナーカード」というものによる意志表示である。この投書者のようにドナーカードが「論理の矛盾」や「自然界の『理』を無視した人間側の都合」だというのは、個人(故人)の自由と責任と尊厳を無視した考えである。

 キリスト教には、自由な自分の意志で「人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(『ヨハネによる福音書』15・13)という聖書の言葉に賛同する思想がある。戦後の流行は、何が何でも人のために命を捨てる必要などない、ということだった。そういう話が出るとすぐ戦争中の軍部のやり方が引き合いに出され、「死に追いやる戦争」の悪が繰り返され、人のために命を捧げることは何の意味もない、むしろ平和の敵のような行為か考え方だと言われた。しかし私個人はそれに一度も同調したことはない。

 キリスト教が言うのは、自らの自由意志において(この点が重要だ)、他者に自分の命を捧げるのは、偉大なことだ、ということである。そこにはいかなる形の強制もない。そしてそのような自由な人としての選択を妨げることこそ、1つの圧政であり越権だと私は思っている。

 もっとも人間は卑怯なものだから、なかなか人のために、自分の命どころか、ちょっとした労力やお金さえ差し出そうとしない。私もおそらくその1人である。だから、私は、人のために死にます、などと明言したこともないが、脳死の状態になったら必ず臓器を提供しよう、ということだけは、私たち夫婦の申し合わせであった。今は少し長生きし過ぎて「使ってください」と売り込んでも「古モノは要りまへん」と断られるようになったらしいことがシャクである。

 私の働く日本財団の関連財団の1つである社会貢献支援財団は、11月19日、平成14年度の社会貢献者を表彰する。勲章、褒章、表彰などのほとんど対象にならない社会の片隅で、社会に貢献した24人に、表彰状と副賞の100万円を贈るのである。

 その中には4人の死者も含まれている。そう言うとたいていの人が「あら、表彰式の前に亡くなってしまったんですか」と言う。

 そうではないのだ。文字通り他人の救助のために働いて、自分の命を犠牲にした人が、今でも毎年おられるのである。

 感謝の気持ちの100万円はほんとうに少ない、と私はいつも思う。しかしもしかしたら、これだけのお金でも、後に残された子供さんの大学の入学金の足しにはなるかもしれない。

 人のために死ぬのはばかだ、と思うのも1つの考え方だ。人のために死ぬことは崇高なことだ、と思うのも1つの思想である。そのどちらも自由に許される世の中であってほしい、と私は願う。
 

「平成14年度社会貢献者表彰」の受賞者を発表  
「社会貢献支援財団」ホームページへ  


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