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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: アフリカ学事始  
コラム名: 私日記 第36回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/12  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年9月10日

 日本財団への出勤日。「ルック・ジャパン」取材。日本財団ホームページ用インタビュー。共に南米へ「貧困視察旅行」をした厚生労働省の鈴木章記ドクターが、今度イギリスヘ留学されるというので報告に来てくださった。

 午後4時から、日本銀行理事・永田俊一氏と会報『信託』のための対談。金融業界が「信頼」を勝ち取られるには、今は最悪の時期だろう、とお察しする。私など貧しい国へ旅行する度に、疑う技術ばかり複雑に身につける。内心、我が心の貧しさを、悲しみおもしろがることしきり。

 夜6時から財団8階の食堂の一隅で、今年度の「貧困視察旅行」の打ち合わせ会。外務省の危険度ではまだ最悪の5段階のまま残されているシエラレオーネの治安状況も不安なまま。マラリア予防薬を飲むか飲まないかを決めるのは、自己責任でお願いいたします、と言う。私はいつも多分かからないだろう、ということにして予防薬を飲まない。飲むと吐くほどだったので止めたのである。

 人生すべて、理性的予測と賭けの要素とが対立して襲って来る。安全と危険も対立する。いささかの危険を容認しなければ、人とは違った勉強もできないことははっきりしている。しかし私はほんとうは非常に臆病な性格だと思っている。

 今日は立教大学大学院教授・伊勢崎健治氏、杏林大学客員教授・辻守康氏、鹿島建設海外事業本部直轄事業部工事部担当部長・吉田哲朗氏、のお三方が、簡潔にご専門の分野のお話をしてくださったので、大変有意義な知識を得た。何より私は安心感が増した。


9月11日

 国立劇場で文楽『心中天網島』を見る。感動が長く後を引く。なんという大人の感情の世界。それに比べて、昨今の新聞などの正義や人権論の、なんと幼稚で身勝手なものか。


9月12日

 夕方、東京シティロードレースに関する新聞社の姿勢について笹川スポーツ財団と協議。誰に聞かれても、筋の通る公正な運営の哲学が貫かれていなければ、財団が動くことはできない。


9月13日

 午前中、中日新聞東京本社代表・南行夫氏と帝国ホテルで面会。東京シティロードレースは私が初めて日本財団会長に就任した平成7年12月、数十人の記者たちと初めて会見し「さしあたり何かやりたいことは」と言われ、新任会長はこちこちになって、やっと「障害者が健常者といっしょに走るマラソンをやりたい、と思っています」と言ったのが元。もっと他の抱負も述べてよさそうなものだったのだが、新米で未経験の会長はそれだけしか言えなかった。誰の発案でもほんとうは構わないのだが、それだけの証人がいることを、企画は別の人が立てて、日本財団に後から金だけ出してもらったように事実をねじ曲げられては困る。

 しかし何と言っても、このロードレースをほんとうに可能にしてくれているのは「走る人たち」の存在なのだ、ということを南代表に申し上げる。

 正午前、来年の障害者や高齢者のための聖地巡礼について、指導司祭の坂谷豊光神父、日通旅行社の横田和美氏、と打ち合わせ。まだ発表前から、この旅のことがNHKテレビで放映されたため、既に70人を超す申し込み者があるので、来年のみ120人で行うことにする。マルタ、シシリー、イタリアなど。「ホテルもレストランも20人単位で分宿・分食するほかはありません」と私が発案した。いい宿に当たった人も、まずいレストランで泣く人も出るだろう。しかし人生は不公平を愛せるようになる時、味が出る。


9月14日〜16日

 荷物を造りながら、アフリカ旅行中に締め切りに当たる連載原稿の書き置きをし続ける。全くこの過労が毎回、旅に出てから崇るのである。

 しかし本当に文句を言いたいのは、出版社のほうだろう。ファックスどころか、電話も繋がらないアフリカの奥地などへ行くやつがどこにいるか、ということだ。その代わり全部書いて、校正も済ませて行きますから、その間担当者は少しゆっくりお休みください、と言いたいところだけれど、連載は私だけではない。私の連載なんて短いものだから、係の編集者はそんなにゆっくり休めることにもならないのである。

9月17日

 いつもの出勤日。執行理事会。電光掲示板原稿選定ミーティング。社会貢献支援財団。すべて打ち合わせ。

 かつてのアフリカ貧困視察旅行組の農水省松島憲一氏、今度大学の先生になられる由。どこで活躍されても、あの旅行がお役に立たないわけはない。クライン孝子さんも来訪。


9月18日〜20日

 旅行の準備、原稿書き。皆笑うのだが、私は今四十肩になっている。図々しいわね、70歳を過ぎて四十肩もないでしょう、と言うが、当時そういう経験は一切しなかった。最近になって右腕が利かない。そのためのマッサージも受けなければならないのだから、ほんとうに忙しくて嫌になる。

 ところがちょっと愉快なことがあった。ギリシャで「マリソル」という旅行代理店をしている平島彬伸さんが電話を掛けて来て、腕の痛みが数ヵ月も取れないから、日本で検査を受けます。曽野さんが脚を折った時のドクターを紹介してください、と深刻な声。よく聞いてみたら、何のことはない、私の四十肩と全く同じとしか思えない。平島さんは私よりはるかに若いけれど、多分40代ということはないと思うのだが。

 聖路加国際病院に連絡して、辻荘一先生に診ていただいたらやはり四十肩。今はやりの病気なのかな。深刻な病気でもなんでもないから、同病を笑いものにすることにして、うちでてんぷら蕎麦を食べに来て頂くことにした。病気仲間というのは、ちょっとおかしくて楽しいものだ。


9月21日

 成田で全員集合。もっともこれからロンドンでカメラマンの熊瀬川紀氏と通訳のミシェル・ブルジョー氏が加わる。

 本年の参加者は次の通り。

岸俊光氏   毎日新聞編集局学芸部
将口泰浩氏  産経新聞大阪本社社会部
杉田修氏   TBSラジオ
鈴木浩氏   暮らしの映像社
五十嵐祐子氏 文部科学省初等中等教育局施設助成課
伊東芳郎氏  厚生労働省大臣官房厚生科学課
黒岩宏司氏  気象庁総務部企画課国際室
滝勝也氏   林野庁森林整備部計画課海外林業協力室
中井完治氏  陸上自衛隊第十師団
平塚敦之氏  経済産業省通商政策局国際経済課
藤田剛氏   防衛大学校電気・電子工学科
八尋裕氏   国土交通省河川局防災課

 このうち伊東、中井の両氏は、それぞれ熱帯病に関わって来たドクターである。

 日本財団からは次の6名。

的場順三   理事
坂下晃    海洋船舶部海外事業課長
原田貴美子  公益福祉部公益振興課
長谷川隆治  広報部編集チーム
荻上健太郎  国際部国際協力課
曽野綾子   会長

 正午近く全日空でロンドンへ。ヒースロー空港で5時間以待って、21時半発、ガーナ航空でガーナのアクラヘ。夕食をほとんど食べずにすぐ眠り薬を飲んで眠るようにした。


9月22日

 朝4時半、アクラ着。

 夜の明ける頃、ノボテル(ホテル)着。昼まで仮眠するはずだったが、ほとんど眠れない。昼少し前に集まって昼食を食べてから、GAと呼ばれる県の県議会議長公邸を訪ねる。訪ねる場所を知っているからと言って、アフリカでは決して直接行ってはいけない土地が多い。その地区の長に、いわば「お宅の土地に立ち入らせてもらいます」という仁義を切らねばならない。

 議長はまだ若く、奥さんはつい先日赤ちゃんを生んだばかりである。頭のいい人で野心家という感じ。公邸は広いが、中が薄暗くてソファに坐るのに皆苦労したのは、停電しているからである。よかった。停電を知らない世代への、アフリカ学の第一歩である。後で聞いたことだが、この地区の電気の普及率はまだ15パーセント程度なのである。

 ガーナへ来たのは、ブルリー潰瘍と呼ばれる残酷な皮膚病の実態を知ってもらうためである。

 私が初めてこの病気を見たのはコート・ジボアールだった。昔ハンセン病が肉が腐るなどという言い方をしたが、それは全くの間違いで、ハンセン病そのもので起こる皮膚の異常は、素人にはなかなか見つけられないくらいである。ただ皮膚に知覚麻癖が起こることから、傷の手当てが適当に行われない。つまり痛くないから放置して、その結果化膿によって足や手の指が落ちてしまうこともある。それでも痛くないのである。

 しかしこのブルリー潰瘍は凄まじい。文字通り肉が腐って悪臭を放ち、放置すればやがて骨が見えるほどになる。与えられた資料によると、「1991年に象牙海岸のダロス地区で約100例が見いだされ、現在は西アフリカで約15万〜20万人の患者がいると言われている」と書いてあるが、ダロスという地名は多分印刷ミスで、ダロワが正しい。そういう町があって、土地では「ダロワ潰瘍(おでき)」と呼んでいる。患者は西アフリカだけでなく、オーストラリアにも発見されている。

 ダロワの近くで初めてこの病気を見た時、少年の足の肉は融けて、骨が見えていた。少女の乳房は片方は落ちてしまっていた。患者たちがそうなるまで、病気を放置していたのは、医療施設のある所まで辿り着くお金がない。路線バスがなければタクシーに乗ってくる他はないのだが、傷口から腐臭を放つためタクシーが嫌がって乗せない。村人に病気を隠しておきたい。そうした理由のためである。

 県議会議長も、この病気は水と関係があると言う。大人も子供もブルリー潰瘍が出ると働けないので、トウモロコシとキャッサバの畑にも出られなくなる。一家はたちまち食べられなくなる。病気が明らかに貧困をもたらすのである。

 議長は「井戸の水はまずい。川の水はおいしい。しかし井戸の水を飲め、川で洗濯しろ、と言っている」というので、私はその言葉に長い間ひっかかっていた。アフリカでは水は恐ろしいものだ。水を見たら飛び込むようなことは危険そのものである。

 議長公邸を出て、オバクワ・コミュニティー、アムサマン診療所に立ち寄る。オバクワでは、果たして大木の木陰に陣取ったニ・オシビ村長に挨拶する。患者たちが横一列になって出て来てくれて、ドクターたちはたくさんの症例を見ることができる。包帯らしきものの、ボロ布の何と不潔なことか。

 しかしどちらでも、ほんとうに凄まじい腐ったような傷の部分は見られなかった。皮膚の移植をした子もいたが、母親が見学者である私たちに、慣れきった様子で傷口を見せようとするのが気になる、という人もいる。

 私物も何もない病室では、ベッドの下で寝ている人もいる。下の子も連れて来ているので、どちらが病人なのかわからない。給食はしないから、付き添いの家族が食事を作る。そのための暗い土間の給食室もある。流しも竈もない。石3個の上に鍋を載せればそれで煮炊きができるのだ。


9月23日

 朝、太い黒白の縦縞のシャツのような民族服を着たローリングス元大統領がホテルに来られ、朝食をいっしょに摂りながら団員から直接質問を受けてくださることになっていた。しかしそれは次第にローリングス氏の独演会になった。「政治家はすべて愛国者でなければいけない」と言う。日本ではどうなのか。愛国が悪いこととなっているのは、世界広しといえども日本くらいのものだろう。

 10時、ホテル発。

 正午、ガーナ航空でシエラレオーネのフリータウンに向かう。機中、UNAMSIL所属のクロアチアからの国連兵と乗り合わせる。飛行機はリベリアのモンロビア経由、約3時間の飛行。この国からシエラレオーネに反政府軍の武器が入った、と人々は言うのである。

 空港の隣の建物から、約10分足らずヘリに乗る。ヘリなら10分。車なら2時間という。

 下りた所に、正装のガンダ大司教が待ち受けていた。日本財団の笹川陽平理事長がプラハの会議で親しくなり、ぜひうちの国に来て見てくれ、と言われたのが訪問のきっかけの1つになった。もっとも私は今までに2回、シエラレオーネに入ろうとしてその度に内戦で実現できなかった。私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会がシエラレオーネに住むブラザー・リチャードというスペイン人の内科医の修道士からの要請で、結核の薬を送っていたので、その仕事を見る必要もあったのである。当時既にブラザー・リチャードは無防備なレントゲンの機械を使って患者にレントゲンを掛け続けたので、骨癌になっていた。私は一度、ブラザー・リチャードが生きているうちに会いたかったのだが??それは既に叶えられない夢になっていた。

 しかしこの国では、奥地のルンサーという土地で、日本人のシスター根岸美智子さんが働いている。一旦内戦を避けてメキシコの修道会本部に避難しはしたものの、最近再びここに復帰していた。シスター根岸がいなかったら、私たちはいまだに外務省が危険度5と指定したままのこの国に入る決断はとうていできなかったろう、と思う。

 私はカバンの中に、シスター根岸に渡す現金3万ドルを持っているので、早くシエラレオーネに着きたい思いしきりである。仕事をしようにも足がないので、シスターは現地で四駆を買いたい、と言う。そのお金を今回、海外邦人宣教者活動援助後援会が出したのである。

 夜はガンダ大司教のオフィスのある「聖年会館(サンタアノ)」で歓迎会。副大統領と他に6人の閣僚もいた。2010年をめどに、貧困を制圧するという話だが、それは途方もなく困難なことである。ケープシエラという眺めのいい海岸のホテルに泊まる。


9月24日

 ホテルの私の部屋には、一隅にバーのような高いカウンターとハイチェアーも備えつけられているのだが、これが危険に満ちたものだった。チェアーの丸い座席部分は、唯載せてあるだけで、私が無理に坐ろうとするとすぐ床に転落する。こういう危険をあらかじめ読めないようではアフリカで安全に生きて行けないのだ、などと思って眠ったのだが、夜中に起きて立ち上がった時、突然私は石の床で大きく滑った。

 一瞬理由がわからない。私は浴室の電気だけは安全のためにつけておいた。足元の安全と、入り口に電灯の光が漏れるだけで、夜中に枕探しの泥棒に入られないで済んだことが今までに数回あったからである。しかし今回は体も寝間着もびしょ濡れになった。部屋そのものの明かりをつけて見ると、天井にある亀裂から水が滴り落ちて床に水溜まりを作りかけている。もちろん眠る前にこんな気配はなかった。しかし幸運なことに、滑っても全く怪我をしなかった。ただどんな素性の水かわからないから体と寝間着を洗う。危険に満ち満ちた夜!

 朝9時半発。パトカーが来ている。ガンダ大司教が手配してくれた護衛なのである。しかし武器を携行しているようには見えない。バス1台に団員が乗り、他の四駆に神父たちや、プラハから来たチェルニーさんという大司教お気に入りのチェコ人などが乗る。この人はスケジュールのことで、私と大司教との間に挟まって辛い思いをした。何が何でも自分の大司教区へ連れて行って、あちこちで歓迎責めにしようという大司教の好意溢れる常識と、歓迎行事くらい取材の妨げになるものはない、という私の強引な好みとの間の板挟みになったのである。アフリカでは私の態度は非常識の極だ。歓迎行事は客たちのためでもあるが、歓迎する人たちの楽しみでもあるのだ。そこでついでにごちそうも食べられ、踊る人たち自身も楽しむのである。しかし私はかわいい子供たちといえども、踊りを見るなどということは時間のムダと思っている。

 海岸の屋台に、オサマ・ビンラディンの写真が張ってあった。大した意味はないのだろう。私もどこかで売っていたら買おうと思ったくらいだから。途中、今は廃屋になっているという飼料工場の跡などを見て、暗くなってから、大司教区の中心地、ボーに到着。私たち女性3人は、女子修道院に泊まることになったが、着いた時は真っ暗闇の中。停電しているので、建物の大きさも構造もわからない。長い廊下のはずれの寝室を、舎監さんのような女性と修道女の見習いだという若い女性数人が、ランプを持って、浴室やトイレと共に案内してくれた。暗闇の中の、若い女性の笑顔というものは、独特の輝きを持っている。握り拳型のローソクを持って来たが、非常に安定がよくて役に立つ。ローソクと蚊とり線香は必ずマッチかライターをつけて荷物に入れてあるので探し廻る必要はない。ベッドに蚊帳はあるが、暑いので蚊とり線香を焚くことにする。

9月25日

 朝、男性たちが泊まっているパストラルセンターで合流。粗末なパンとジャムの朝食。流しに水が出ない。そろそろ団員にも不潔にどう耐えるかという心理的な圧迫が始まるだろう。

 チェルニーさんは、大司教の行けという所に私が行きたがらないのでひどく困っている。私はすぐにルンサーに行って、一刻も早くシスター根岸に会い、話をゆっくりと聞きたい。そのために来たのだ。大司教の言う通りの「ご視察コース」など取っていたら、シスター根岸の話は全く聞けないことになる。

 チェルニーさんが弱り果てているので、私は代案を出す。つまりもし、大司教案にそってもいいという人がいたら、半分をそちらに差し向ける。しかし決して強要はしない。

 幸いにも距離はかなり遠くはなるが、プラマ、ドアダ、ケネマなどという土地を見たいという人が半分近くいたので、そちらに行ってもらうことにして、的場理事も加えた私たちはすぐにルンサーに向かう。民家は日干しレンガに草葺。草はエレファント・グラスというススキのようなもので、道端にいくらでも生えている。途中の町で車を止めると、人たちが集まって来る。盲人が目立つので聞いてみると、果たしてオンコセルカ症によるものだった。日本財団は全世界の「川の盲目」と呼ばれるブユが原因で失明するこの病気に対して、特効薬を配る仕事をしている。飲みかけの飲み物を人に上げるということは、失礼に感じてなかなかできなかった行動なのだが、私が半分残したジュースを女の子に渡すと、彼女はすぐに手を引いていた盲目の祖母らしい女性に与えた。

 14時半になってようやく到着。電話がないのだから、遅れを報告する方法もない。こういう場合いつ着いてもすぐに食べられるようにと思ってカップヌードルを私が買って積んでいるはずなのに、すべてフリータウンに置いて来たとのこと。軍で言うと「兵站」がなっていないのだが、これも私が言わなかったからである。おかげで、シスターが雇って教えたという青年が(これも失業対策の1つ)、絶品のスパゲッティ・カルボナーラを作ってくれて、皆日本にはないおいしさだと言う。

 シスター根岸たちの住む、そして今夜の私たちの宿になる建物は、2階の屋根が徹底して反政府軍に破壊された。寒くはないのだが、マラリア地帯なので、蚊の対策なしに寝ることはできない。私は窓に貼りつけるためのサランの網も、掃除用の箒も持って来たのだが、シスター根岸はどうにか広間に蚊避けの網を張っておいてくれた。トイレと水だけのシャワーは2カ所。それだけでも大ぜいたく。男性たちは床にマットを置いて寝る。ガンダ大司教スケジュール組の人たちは21時〜23時の間に到着。1台は故障して遅くなった。へとへとだろう。

 一方その頃私たちは、かなり重大な問題に直面していたのである。(以下次号)
 

「アフリカ貧困視察」について(第1回〜)  
「ブルーリー・アルサー」について  
「東京シティロードレース2002」について  


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