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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 悪夢のように暑い町  
コラム名: 私日記 第35回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/11  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年8月1日

 日本財団、長光正純新常務理事着任。

 夜、ホテルオークラで朱門(夫)と太一(孫)と会食。「上着がツンツルテンだと、食堂に入れてもらえないかな」と心配していると、今朝方、神戸にいる母親の暁子から電話があった。「ホテルは客の上着なんかほんとうの意味では見ていません。ただ格式として、上着なしは入られると困るというだけ、ってよく教えてやって」と電話を切った。

 年に数度の教育食事である。お酒も太一に選ばせる。カバンにワインのアンチョコを忍ばせて来ていた。今日おかしかったのは、「チーズを召し上がりますか?」と聞かれると「頂きます」と言い、チーズ・プレートが運ばれて来て説明を受けると、「あのう、全種類もらってもいいでしょうか」と言った。「どうぞどうぞ」と切ってもらうと、少量ずつでも相当の量になる。そんなに食べ切れるのかしら、とこちらが不安に思っていると、長い時間かけてゆっくりとおいしそうに、最後まで少しも残さずに平らげた。1つずつ味を覚えようとしているらしい。


8月2日、3日

 三戸浜。一昨年植えた百日紅が咲き出した。来年はもっと花の色が濃くなるだろう。ブーゲンビリアも梅雨が明けて大地が乾くようになると花が多くなった。水がない方がよく咲く花というものは、意外と多い。なぜなのか。すぐ人生に置き換えて考える。


8月4日〜7日

 6日夜、太郎(息子)と暁子到着。

 太一は5日夜来た。今生れて初めて夜警のアルバイトをしているので、来られる日が限られる。そのお金で、1人で北海道旅行をするという。

 「ボクはおやじさんの趣味で、小さい時から東南アジアの田舎ばかり連れられて行ってたんで、日本をよく知らないから」

 モルッカ諸島に連れて行かれた時には、父親がひどい下痢をして七転八倒した。飛行機は1週に1便で、帰る方法もない。父親が「ああ、もうこんな旅行はしないぞ」と思わず呟くと、彼はすぐに手帳と鉛筆を持って飛んで行き、「お父さん、今の約束書いておいて」と言ったという逸話が残っている。

 娯楽もなく、衛生状態も悪い土地へ行く時、太郎は神戸の古本屋で、1冊100円の推理小説3000円分30冊を買って小学生の太一のリュックサックに詰め込んだ。太一はプールも不潔だから入れないような質素なホテルで、ひたすら推理小説を読み続けた。1冊読み終わると、ものも言わず次の本を出して読む。読書の癖はそうしてできた。彼なりに苦難の生活だったのだ。


8月8日

 新幹線で京都へ。京都パークホテルで、シンガポールからすでに到着していた陳勢子さんと合流。五条坂の清水焼の市へ。しかしすぐに失望した。こんな粗末なものを、こんなばかばかしい値段で売っているというのが実感。東京なら高いでしょう、京都は安いはずだと人は言うが、東京は日本一ものの選択が自由で値段も安く買える土地だということを知らない。つまりマーケットリサーチが悪い陶器市である。

 暑いのは覚悟して来たけれど、買うものもない。1つだけ光琳風のおもしろいマグがあって買おうとしたら、「九谷ですけど」と言われてしまった。朱門はホテルで読書。


8月9日

 昨夜、京都駅前のレンタカーで車を借りておいて、今日は朝7時に京都を出て高野山へ行くことにした。4時間くらいかかるというが、運転の交代要員があるので遠出ができる。

 山を上がるにつれて涼しくなるのでほっとする。金剛峯寺の前の駐車場に止めたところでかなり激しい雨になったので、食堂でお昼を食べて、雨の止むのを待つことにした。ここのところずっとゴマ豆腐ばかり。しかしありがたく頂く。

 金剛峯寺がこんなにすばらしい風格のある石庭を持っているとは知らなかった。奥の方までは入れないようになっているのだが、広大雄大である。入り口近くにある紅葉が、ほんの一枝だけ色づいているのも印象深い。

 清水がたえず溢れ出ている水口のある庫裡も拝見して、太一にお守りを頂いて出た。

 帰りは一般道路を走ってひどい混み方。ようやく7時頃京都駅で車を返して、駅ビルでひどくまずいトンカツを食べた。

8月10日

 勢子さんは飛行機で帰るというので、朱門と京都国立博物館と三十三間堂を午前中に見た。三十三間堂は、まだ子供の時、父母に連れられて来た。長い年月を生きてきて、お堂の暗さの中で、ただ静かに世を去りたいと思う。人に殺されもせず、人を殺しもせず生涯を終れれば、大成功なのである。

 金色に輝く観音さまは一千体おられるという。前列に立っている観音二十八部衆像のこれほどの写実性は世界に類を見ないだろう。檜の寄木造りだという。それにしても12世紀にこれだけの人間的な像を作れた人たちが出たということは、そうさせる社会的背景と共に驚く他はない。

 午後の列車で私だけ名古屋駅で降り、9月下旬に出るアフリカの貧困に関する調査旅行のメンバーである中井完治氏夫妻に駅ビルでお会いする。陸上自衛隊第十師団司令部の医務官で脳神経外科の専門である。

 寝袋、懐中電灯、蚊取線香、洗面道具、食器その他すべて携行して頂く旅行で、と言ったら、「演習と思えばいいですね」と言われたので安心した。PKFとしてカンボジアにもおられたという。夫人は私のうんと後輩。

 横浜駅で降りて、シュウマイ、たいめし、などを買って帰り、再びうちで陳勢子さんと合流。勢子さんは当分私の家に泊まる。


8月11日〜17日

 今度こそ、三戸浜で夏休み。陳勢子さんもいっしょ。

 朝、眼が覚めると、まず戸を開けて、海風の中でしばし寝ている。ゴクラク、ゴクラク。しかし畑の雑草はぐんぐん生えるから、本当はタイヘン、タイヘンである。にもかかわらずトマトはもぎたてを食べられるから、これは大ぜいたく。十六ササゲも大豊作で緑の滝のようになっている。しかし蛇が房になっているようで気味が悪い、という人もいる。

 13日から、同級生の石倉瑩子さんと、お嬢さん夫妻の木村卓郎氏と章子さん、一人娘の光沙ちゃんが泊まりがけで見える。若い父母は、子供を海へ連れて行く体力があるのだ。光沙ちゃんは、拾った貝が財産。

 石倉・木村一家が軽井沢に向かってから、16日には大和正道夫妻が来た。翌17日は花火。対岸のシーボニアという大ヨットハーバーの催しで、ほんの15分ほどだけれど、頭上で我が家のためにも花開く。

 もっともひさしぶりで集まってくれた知人たちは、花火が上がる前にさんざん飲んだり食べたり。魚は黒鯛とアユ。炭火で焼くと、どんな魚でもおいしい。他に鳥手羽。私の趣味でサツマアゲ。シシトウ、ピーマンは、畑から採って来た。


8月18日

 藤野さんは大和夫妻を千葉へ送り、私たちは東京へ引き揚げて、明日からシンガポールヘ行く用意。とは言っても仕事の資料だけ。それと今度は勢子さんに、シンガポールからオーストラリアのパースの別荘へ連れて行ってもらうので、薄い冬物をひっぱり出す。あちらは南半球で、今は早春だという。早春とは、何と響きのいい言葉かと思う。


8月19日

 正午発のシンガポール航空。

 勢子さんはANAで遅い便なのだが、私たちと同じ藤野さん運転の車で成田へ来た。機中では、本を読み、少し眠り、よく休む。淋巴マッサージの影響で、時々腰痛が出るのが少し困る。

 ナシムの家に着くと、持って来た梅干しお握りをほうじ茶で食べて、早々と眠る。ここではテレビがうまくつかないので、私は俄に読書家になるのだ。


8月20日

 朝、北のホランドロードにある「スウィニー」という美容院に電話をかけて、お馴染みのフローラに今日、パーマをかけてください、と言う。前回フローラにかけてもらったパーマは、実によく保った。カットもうまい。パーマの後、ヨーロッパ人たちに人気のある店で、大和夫人に約束したインドネシア風の長着を3枚、「コールド・ストーレージ」(スーパー)でイギリスのビスケットと銀磨きの布を買った。銀器がたくさんあるわけではない。銀のアクセサリーを磨くのが私の暇つぶしの趣味なのである。

8月21日

 今回の休み中唯一の仕事。

 日本財団がマレーシア海運局に対して贈った「ペドマン号」という設標船を見にいくことである。この船は同名の船の2代目で、1代目は25年前にやはり日本財団が寄贈した。2代目の新造船は装備を含めて7億8000万円で、新潟鉄工で建造していたが、途中で会社が倒産したので、私は船は、どうなることかとずいぶん心配したのである。しかし1月遅れくらいで無事に完成し、地元の小学生が進水式をしてくれてマレーシアに回送されていた。

 マラッカ・シンガポール海峡は、約1000キロの長く狭く浅い海峡だが、そこを年間約6万隻の船が通る。日本のタンカーの約8割もここを通る。海峡はかつて日本財団によって測量され、浮標や灯台を設置して、ビーコンも機能している。そのようなブイを、過密な間隔で通る船が始終当て逃げしているから、壊されたブイの補修は休みなく続けなくてはならない。波はないが、のたりと暑い海面で働く人々の地味な仕事が、海峡の安全を保ってくれているのだ。

 朝8時、マラッカ海峡協議会の志村所長ほか顔馴染みの方々がワゴンでナシムの家に迎えに来てくださり、第2コーズウェイを通ってマレーシアに入った。国境は空いており、バナナ畑が瑞々しい。タンジョン・ピアイのタグ・ボート用の桟橋の前で、日本とシンガポールのメディアの人々といっしょになり、「ペドマン号」に乗船。ペドマンとはマレー語で「羅針盤」のことだという。

 船は約900トン、巡行速度を10.5ノットに抑えてある。そのため燃費が極めていい。結構な思想である。それにしてもきれいな船である。士官用の船室は個室。それぞれにトイレとシャワーがついている。食堂には、毎日使った真水の量が書き出されていた。マレー人は、統計的に日本人より水を使う。水浴のせいである。日本人のように、他人の入った風呂に入るような汚いことはしない、と言う。清潔好きを自認している日本人の意識も通らない世界があるものだ。

 昼食後、ピアイ・ブイを交換する作業を甲板で見学した。機関長はインド系。水夫長も実によく働く。こんがらかった錨の鎖はどうしてほどくのかと思って見ていたら、ガスバーナーで一部切断してしまった。こうした結び目をほどく方法にしても、専門家たちはそれぞれに一家言を持っている。

 すさまじい暑さを避けて、冷房のある船橋で休んでいる時、反射的に、どこに神棚があるかと探している自分がおかしくなった。ここはイスラムのアッラーがいます世界なのだ。

 帰り、悪夢のように暑いククップの町で、これまた恐ろしく荒っぼい中国料理を食べた。籠の中の白いオウムが喋りっぱなしに喋っていた。


8月22日

 朝、勢子さんの車で、空港へ。パース行きの飛行機に乗る。パースまでは4時間半。ビジネス・クラスだとシンガポールドルで3700ドル(約26万円)。エコノミーだと700ドル(約5万円)だけど、どっちにする? と勢子さんが聞いてくれた時、私たちはもちろんエコノミーでたくさん、と答えた。どうしてそんな差が出るのだろう。

 空港には、勢子さんと昔同じコンドミニアムにいたコルディカット夫妻が迎えに来ていてくれた。さあさあ始まった。オーストラリア英語の世界だ、と思うと笑顔が少し引きつる。厳密に言うと6割が聞き取れなくなっている。

 勢子さんのマンションは、ミル・ポイントというスワン川が大きく湾曲した地点にあるので、部屋の両側から湾かと思える広々とした川の水面が見える。寝室が3部屋、広い居間と食堂、それにファミリールームがあって、そこに麻雀台がおいてあった。麻雀はしないと勢子さんが言うので、そこに原稿用紙や資料を拡げた。なかなかいい書き心地である。

 夜は少し寒くて羽蒲団を引っ被り、丸くなって眠った。


8月23日〜27日

 勢子さんが私の原稿送りのために何とか繋ごうとしてくれたファックスの機械がどうしても機嫌が悪くて苦労をかけたのは申しわけなかったが、そのおかげで近くの郵便局ヘファックスを打ちに行くことになった。

 いよいよオーストラリア英語のお勉強。田舎娘風だが、かわいいファックス係のお嬢さんが何か言うのだが、私はほとんどわからない。何を言われても「イエス、イエス」。それでもちゃんと打てて、送信証明ももらえたのだからいいのだが、人もいないのに綱を張ってあるカウンターの、私は出口と書いてある方から入って行くのだから、相手はよほど英語のわからない移民だと思ったろう。

 それでも私は勢子さんが何か言うと「オカーイ」と答えるようになった。勢子さんはげらげら笑う。オカーイとはオーケーのことである。私は語学の天才なのだ。

 私たちは川向こうの広大なキングス・パークに行った。ここの目玉商品ならぬ目玉植物は、プロテア、バンクシア、カンガルー・ポウである。いずれも、乾いた荒れ地に育つ植物である。

 私は三戸浜の庭で、3種のうちバンクシアとプロテアをたくさん育てている。カンガルー・ポウもいつか一株手がけたのだが、そのうちに枯らしてしまった。きっと過湿だったに違いないと思うとかわいそうになった。しかしプロテアはもしかしたら、我が家の方が見事な花なのではないか、と思う。

 スワン川を見下ろす斜面には珍しくバオバブの若木もあった。サン?テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる巨木バオバブも、私の家のはまだ高さ1メートル、サインペンくらいの太さしかない。ここのは、ちゃんとバオバブの風格らしいものさえ見えている。

 フリーマントルは40分ほどのドライヴで行ける港町で古い建物がたくさん残っている。朝早く行ったので、人気もない昔の町並みをゆっくり眺めることができた。ここでは、刑務所も、精神病院も、信号所も、皆観光名所として使われている。

 私たちはまず魚屋に行き、ムール貝やカマスや牡蠣を買った。なぜカマスが1匹しかいないのか私にはわからないが、とにかく間違いなくカマスである。

 それから1897年に建てられたレンガ作りの古風な日曜市場へ行った。エンドウ豆がすばらしく新しい。イチゴも安い。私はここでイチゴを買ってジャムを煮ると言って、朱門に止められた。「持って帰る気か?」。その代り巨大なサモサ(一種の揚げギヨウザ)を買う。インドで売っているのの優に4倍はある。カレーの匂いを懐に抱いた。

 それから私たちはボート・ハーバーの「ジョーズ・フイッシュ・シャック」というレストランで魚料理を食べた。老いた母親を連れた息子夫婦が3組もいた。

 帰りの道でおもしろかったのは古道具屋だった。骨董屋というにしては少しくだらないものが多すぎる。そこでデミタスを4個と、ガラスの花瓶を1個買った。安ければいい、という面もあるのだ。店の女主人はユダヤ人だった。領収書にヘブライ文字が書かれていた。

 私の腰痛はなかなかしつこかった。勢子さんのマンションに不思議なクッションがあった。中にオーストラリア産の大麦やラベンダーが入っている、と書いてある。それを電子レンジで3分間温めると、熱いクッションができる。それを痛い腰に当てるとひどく気持ちがいいのだ。リュウマチで苦しんでいる知人2人に送りたいと言うと、勢子さんが薬屋で見つけて買って来てくれた。


8月28日

 シンガポールに帰ると、月餅の大売出しが始まっていた。デパ地下は、有名ホテルなどが出店を連ねて、月餅の売り込みに忙しい。朱門は箱に書かれた美人画だけを見て歩いて、「この店のがいい」などとたわけたことを言っている。

 月餅は季節の菓子である。年中売るものではない。中の月に見立てた卵が、きりっとしているのがいい。それとまた塩味がうまいのがいい。


9月2日

 帰国。思いの他、日本が涼しい。


9月3日

 秋の仕事始め。執行理事会。電光掲示板原稿選定ミーティングをしながら、8月23日付の『毎日新聞』の仲畑流万能川柳の中にある句に笑い転げた。

 「和洋中チン3回で出来上がり」

 8月10日付の『読売新聞』に紹介された迷作。

 「得意技コンビニ惣菜皿移し」

 「さあ味見!すればする程わからない」

 こういう女性たちは、料理は下手でもいい性格のような気がする。


9月4日

 「地球環境保全と森林に関する懇談会」に出た。役所側は、国産材は高いけれど使うようにしてほしい、と言う。そうなら「愛国心で」と付け加えることだ。愛国心なしにどうして庶民がわざわざ高いものを買うか。

 しかし今でも「愛国心」という言葉には抵抗があって使いにくい、という。愛国心というものは、論争の対象となるような高級な思想ではない。鍋釜並みの必需品です、それがないと、どんな国民でも生きて行けないんです、と常々私は言っているのだが。

 帰りに横浜のTVKで、佐藤しのぶさんの「出逢いのハーモニー」の収録に出演。帰りに中華街に寄って、少し食べ物を買いたかったのだが、マスカラ、アイシャドーなどをこってり塗られているので、恥ずかしくてどこへも寄らずに帰宅した。
 

「ペドマン」について  


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