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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルト三国紀行(下) 復活祭のエストニアへ  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/09/24  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 手を繋いだ200万人 ≫

 北の国、エストニアに向かう。リトアニアの首都ヴィルニュスから700キロの車旅行の中間点が、ラトヴィアの首都リガだったが、わずか3時間の滞在で切り上げた。フィンランド湾に面する終着点、エストニアの首都タリンに日没前に到着すべく、ひたすら北上する。1日の行程としては、かなりの長旅だ。

「仮に歩いてバルト3国を縦断したら、何日かかるだろう」。ふとそう思った。

「歩いた人の話は聞いていないけど、いま僕たちが車で走っている同じ街道を人間が手をつないで切れ目なく並んだことがある」

 相棒の運転手兼ガイドのアレキサンダー君が早速、話に乗ってきた。1989年8月23日、独立前夜のバルト3国の人々は、ヴィルニュス→リガ→タリンまで、3国の総人口の3分の1弱に相当する200万もの人々を動員して、互いに手をつなぎ、切れ目のない“人間の鎖”を作ったというのだ。

 話は、50年前の同じ日に遡る。この日、ドイツのリッペントロップ、ソ連のモロトフ両外相が、独ソ不可侵条約の付属秘密協定として、当時、つかの間の独立を楽しんでいた3国のソ連の編入を決めた。その代り、ソ連は、ドイツとの関係においては、ポーランドの切り取りは“ご随意にどうぞ”であった。

 ついてないのは、バルト3国だった。この3国は12世紀のドイツ人の進出に始まり、周辺大国のポーランド、スウェーデン、ロシアに翻弄(ほんろう)されたあげく、18世紀末には、帝政ロシアに編入され、「ロシア帝国バルト海諸県」と命名された。そして第1次大戦の戦後処理で独立を勝ちとったものの、1939年の独ソ秘密協定がもとで、国民の意思とは無関係に、ソ連の領土となってしまった。3国の人々にとって諸悪の根源は、秘密協定である。ソ連の締め付けが弱まった機会をとらえ、秘密協定調印、50周年を迎えたこの日、抗議のための総延長700キロに及ぶ人間の絆を作った。3国がソ連から離脱し、独立したのは、それからちょうど3年後であった。

 車中で、バルト3国の概観図を開いて見る。スカンジナヴィア半島の下で、ロシア領にへばりついた格好で、バルト海沿岸の3つの小国が存在している。東の大国ソ連社会主義支配の50年間は、この3国にとって、歴史の負の体験であった。そしていま、国家の存続をかけて、ロシアに背を向け、海の西にあるヨーロッパの一員としての地歩を固めようとしている。

「ハイ。その通りです。まずNATOに加盟し、2005年にはEUに入る。3国の首相の話し合いで互いに競争しない(抜け駆け)ことになってるけど、エストニアが一番早くEUに入ると思う」。アレキサンダー君の分析である。

「どうしてかというとですね、3国の中で一番西欧化が進んでいると見られているからです。エストニア人は、フィンランド人と人種的には同じで、言語も文化も近い。彼らは北欧人的性格をもっている。クールで合理的。そこが西欧に好まれてるみたい…」

 その点、アレクサンダー君の母国、リトアニアの人は、スラブ系で情熱的な人が多い。そのせいか西欧の受けが、いまひとつという。


≪ ロシア人は、ノー・サンキュー ≫

 “西に向いた”バルト3国で、共通してるのは、ロシア人に対する“敬遠策”だ。この3国では、基幹民族の言葉よりも、ロシア語を話せる人口の方が多い。だからこそ西欧化をめざすバルト3国は、言語も含めて、ロシア色を薄めるのに躍起になっている。私は、バルト3国訪問に先立ち、モスクワの元マルクス・レーニン研究所の主任研究員だった日本学者の案内で、同じバルト海の沿岸国であるロシア領カリーニングラードを訪れた。その際、この3国での通訳(ロシア語?日本語)を依頼したのだが、このロシア人老学者に「行きたいのは、やまやまなれど、貴意に添い難い」と断られた。

 我々日本人のバルト3国入国は、3カ月以内ならビザ不用だが、ロシア人はビザが必要でしかも1カ国につき400ドルの手数料をとられるとのことだ。3国で、1200ドルとは、ほとんど禁止的な“入国税”であり、同行を断念した。

 独立後、バルト3国は、これまでのソ連邦国籍をご破算にして、住民に新たに市民権を交付した。これはエストニアの例だが、ソ連邦編入の1940年以前に生れた人、およびその子孫には無条件で国籍を与える。あとの人(主にソ連時代に移り住んだロシア人)は、語学と歴史と憲法の試験の合格者のみに国籍が与えられる。

「エストニアが一番厳しいです」とアレキサンダー君は言う。後刻調べたのだが、エストニアには10万人のロシア系の人々が、ロシアパスポートのまま暮らしている。老人が多く、この人達は「ロシアに居る親戚を訪ねるのに便利」といっているが、ほとんどの人は、エストニア語のテストの落伍者だという。

 エストニアの首都、タリンに入る。フィンランド湾に面した港湾都市だ。中世の城壁に囲まれた丘(エストニア人の砦)がそっくりそのまま残っている。周囲2.5キロのこの城の中が、タリンの旧市街で、年間600万人もの観光客が訪れる。アレキサンダー君と、15世紀と寸分変わらないと称される街並みを見物する。彼はロシア語である。レストランでもお土産屋でも100%ロシア語が通ずる。

 だが、この国の憲法でエストニア語が国語に採用されて以来、店の看板やショー・ウィンドウの商品説明に外国語の使用が禁止されている。ところが「外国語」というのはロシア語をさすらしく、英語とフィンランド語の看板は街に氾濫していた。「観光地だからOKなんでしょう」。アレキサンダー君が苦笑する。


≪ 「教会は老人と観光客の為に存在する?」 ≫

 私のバルト3国縦断の旅は、生憎、キリスト教のイースターの休暇シーズンとぶつかっていた。十字架にかけられたキリストが蘇ったのを記念する儀式を復活祭という。ゲルマン民族はこれをイースターという。キリスト教の伝来以前から春を告げる女神、「イースター」を祭る習慣があった。これにキリストとの復活を組み合わせて、この地方では春分後の満月の日曜日から始まる1週間を盛大に祝うのだ。だからこの期間は大学や官庁、博物館などはすべて休み。旧市街地の中で開いてたのは、観光客用のレストランと土産屋そして、7つもある教会だけであった。私のお目当ての大学訪問も、教授が休暇で旅行中とのことでキャンセルされた。

 こうなったらいたし方なし。「教会はですね、老人と観光客の為にのみ、存在する」との自説を断固として曲げない若き無神論者、アレキサンダー君と、イースターで賑わう教会巡りをした。エストニアの、キリスト教は、もともとカトリックだったが、17世紀の宗教革命以来、ルーテル派のプロテスタントである。18世紀末、帝政ロシアの支配のもとで、2つのロシア正教の教会も旧市街地の中に建てられた。正教とそうでない教会を、建物の外見で区別するのは容易だ。塔の先端が、トンガリ帽子が、カトリックとプロテスタント、先端が丸いネギ坊主が正教だ。

 教会巡りをするうちに、あることに気がついた。信者が車でやってくるのが、プロテスタント教会、歩いてくるのが正教の教会。老若男女そろっているのがプロテスタント、老人が目立つのが正教だった。

 1901年建立のロシア帝国の置土産、アレクサンドル・ネフスキー聖堂を訪れる。この国の国会議事堂の正面にある教会だが、イースターの礼拝客を目当てに、物乞いの群が出来ていた。信者、物乞いともにこの町に住む、貧しいロシア系住民であった。教会玄関脇の壁に、日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレートがあった。多くのバルト人が、ロシア皇帝に徴用され、日本と闘って命を落としたと記録されていた。

 翌朝、アレキサンダー君に、フェリーの埠頭に送られ、フィンランドの首都、ヘルシンキをめざした。85キロ、3時間の旅である。

 バルトの海は、薄いカフェ・オレ色であった。半ば閉ざされた内海で、海水の90%が外海と入れ替わるのに25年もかかる。だから水は汚れ放題だ。

 相客のほとんどは、免税の上限であるウイスキー1本を大事そうにかかえたほろ酔い加減のフィンランド人であった。寒い国、フィンランドではアル中対策に手を焼いている。酒の販売規制が厳しいので、エストニアまで飲み溜めにやってくる人が多い。ヘルシンキの税関で1列に並ばされた。持ち込みの酒の検査だ。

 ところが日本のパスポートを提示した私だけは何故かフリー・パス。実はウオッカを3リットルも持っていたのだが、フィンランドの税関といたしましては、これを飲んだ日本人がアル中になったところで、知ったこっちゃない! そう思っていたのかも知れない。
 



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