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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: そうでしょうとも!  
コラム名: 私日記 第33回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年6月1日

 太郎(息子)一家と小杉瑪里(朱門姉)と赤坂の中国料理で会食。太一(大学生の孫)、ビワの箱を抱えている。いただきものだという。ひさしぶりに上京して来た両親への贈り物かと思ったら、そのまま持って下宿に帰った。


6月2日

 家で淋巴マッサージを受ける。この頃、この治療法がよく効く。体中が薄汚いドブで、それを大掃除される感じ。治療後、猛烈にだるいが、長年の心と体のしこりはほどかなくてはますますガンコになるだろう。6年前の骨折以来できるようになった足の裏のマメもしこりなのだという。おもしろい見方である。


6月3日

 朝の飛行機で青森へ。青森県立保健大学が会場になっていて、社会人も交えた公開講座をする。「人間性とは何か」私はカトリック的な環境で育ったので、人間の性悪説を少しも拒まない。神さえも「私は善人のためではなく、罪人のためにこの世に来たのだ」と明言されている。もちろん性悪な人間も時には、輝くばかりの魂の高貴さを見せることがあるという、明確な可能性と希望を前提にしての性悪説である。

 しかし戦後の日本では、日教組も、進歩的文化人も、声高らかに性善説を合唱した。さぞかし疲れて、しかも辻褄の合わないことが多かったろう。だから、私は実に心が自由だった。人にも少しは寛大になれた。悪にも驚かなかった。

 性悪説をとると、心が自由になる。何より気楽。これでも少し寛大になれたのだろうと思う。悪を理解することが楽になった。この辺のところプラトンを読むといい。プラトンは性悪説などという言葉を使っていないだろうが。

 夜、帰宅。もう一度淋巴マッサージ。

 明日からシンガポールヘ行くので、書くための資料と食事の材料だけかばんに詰める。


6月4日

 午前9時、財団。

 10時、執行理事会。

 11時半、桜井新氏。12時、C・P・タクール・インド保健大臣ほか。

 午後1時、PHP松本道明氏。

 午後3時、財団を出発、成田へ。

 18時発JALで朱門とシンガポールヘ。


6月5日〜9日

 ここへ来るまで私は親たちの住んでいた土地の一戸建てに住んでいた。ここでは初めてマンション生活を体験した。今度は浴室の天井から水もれ。上の階の人との交渉になる。これも結構大変。

 夕食はいつも私が自宅でご飯を作るので、友人の陳勢子さんはこの土地でもかなりランクが上の「料亭三浦の料理」(私の家の粗飯のこと)を毎食食べに来てくれる。3人分くらいの食事の支度なんて何でもないのだが、勢子さんは、手が空いているからと言って、メイドさんを連れて来てくれた。お味噌汁、とか、お漬け物、などという日本語もわかるので便利。

 このスリという名の娘さんはインドネシア人で、年はわからないが未婚。恋人が自動車事故で死んでしまった後で働きに出たのだという。陳家に来た時には、マレー語しか喋れなかったが、今は英語もできるようになった。頭がいいのである。

 食事の時、私が突然、

「ねえ、勢子さん。私、このブラウス飽きた」

 と言うと勢子さんも、

「私も見飽きた」

 というので笑いだしてしまった。12年前ここへ部屋を作った時、私は日本から要らないナイロンのブラウスを4枚持って来た。以来、いつでもそれを取っ換え引っ換え着ている。日本だと四季があるから、そうそう同じものは着ない。しかしここではいつも夏だから、私はいつもいつも同じブラウスを着ている。それなのに破れも色褪せもしないのだ。

 それで思いついて、古めかしい(まだ植民地風の匂いの残った)手製の鎧戸がついたワードローブの整理をすることにした。余所行きに持ってきた服はほとんど着なかった。余所行きという場がここではないのだ。そういうスーツだの、4枚のブラウスのうちの3枚だの、洗濯してきれいになっているのだけよく選んで、近く休暇で田舎に帰るというスリに持たせることにした。こんなものでも、貧しい親戚は喜ぶと勢子さんが言ってくれたので。メイドさんたちは休暇で帰る時は、お土産が大変だ。話を聞くと、200円未満くらいのものを一生懸命探して買って帰るという。それなら、私の着たものでも使ってもらえるかもしれない。

 翌々日スリが来た時、そうした衣類を差し出すと、嬉しそうな顔をした。朱門の観察では、ジーンズの生地で作ったスーツに一番興味を示していたという。細身で彼女自身が着られるからだろう。

 スリの賢くていい性格を示すエピソード。

 いつか私たちの留守に、勢子さんがお掃除をしなさい、と言ってこのマンションに車で連れて来てくれた。終わったらバスで帰っていらっしゃいと言ったのだが、バス代を渡すのを忘れて自分は先に帰って来てしまった。スリは掃除を終わると、お金がないので歩き出したが、陳家までは4キロくらいはある。何とも暑いので、マンションに引き返し、朱門が使っている引出しの中にあった小銭から60セントをもらって、バスに乗って来た、と勢子さんに報告した由。

 小銭があることを知りながら、決してネコババなどしない。しかし必要とあればそれを使って後できちんと報告する、というのは本当に自然で賢いいい話だ。

 9日の日曜日には、朝10時にカテドラルの、ミサに行った。いつもは8時の早いミサに行っていたのだが、10時のミサは、すばらしい混声合唱がついていた。楽器はパイプオルガンと、エレクトーンの2種類。つまりオーソドックスな聖歌と、ロック風のと、両方を歌いこなす。指揮者は黒いガウンにヴァチカン友好十字勲章をつけた男性で、私も同じ勲章を頂いているのだが、いつどういうふうにつけたらいいのか、今もってわからない。見せびらかすような感じも嫌だし、などと思うとしまいっぱなし。頂いたものは、上手に使う方法を知らなくてはいけない。

 9日夜、遅い飛行機に乗るので、勢子さんが自分で車を運転して飛行場まで送ってくれた。


6月10日

 朝、成田着。家へ帰って、すぐまたマッサージ。


6月11日

 火曜の出勤日。

 9時半、賞与が出た。100人近い職員に短い挨拶。終わって「役員の賞与を7階で渡してください」と言われた。「ああ、理事さんたちのことは忘れていました」と笑ってしまった。「今日いらっしゃらない方には出さなくていいですよね」などと一言余計なこと。

 私は、どうしてもこういう行事を正確に執り行うことがサマにならない性格だ。役員の賞与を忘れるのは、深層心理で妬んでいるからに違いない。私は無給、ボーナスも一切なしなのだから、人の幸せをニコニコできるか。

 午前中「地球環境保全と森林に関する懇談会」。自分の愚かさを感じるのは、こういう場違いな会議に出た時。京都議定書の決定事項を守ることばかり話にでるが、地球上では、数十億人が今でも毎日薪で炊事をしているのだ。そういう事実に関しては一切関係なく議論が進められている。私のような素人の出る幕ではなかった。

 昼には食事を兼ねて、今年も秋に行うインド行きの打合せ。インドの不可触民(ダーリット)と、それ以下の社会的地位にあると言われる地方の非ヒンドゥの部族たちの暮しを見てもらうもの。インドとパキスタンの間が険悪なので、8月まで様子を見てから決定しようということにする。

 午後1時半、ケニアのナイロビで土地の人たちに手芸などの指導をして来られた菊本照子さん来訪。長い間日本財団のお金で事業を進めてくださっていた。こういう現場の責任者がおられなければ、プロジェクトは成り立たないのだ。

 3時半から、桜井新氏にお頼まれした政治家の先生方の勉強会で講演をすることになった。橋本総理、森総理などの他、テレビで始終お見かけする先生方がおられる。1人の国民としての私が過ごした1週間位の間に、どれほど政治的な立場からも放置されて来たことがあるか、話したつもりだったが、終わると司会をされた代議士先生が「今日は政治の話はしませんでしたね」。なんとか法案に反対か賛成かを私が話すと思っておられたらしい。しかし教育や精神の問題は「政治の話ではない」と思うところが代議士先生の限界か。私はすべて政治の根幹となる人間性の問題を話したつもりである。現実に法案をどうするか、ということより、もっと基本だと思っている。

 5時、河出書房新社の太田美穂さんと、作家の鈴木輝一郎氏。鈴木氏には私の文庫の後書きを書いて頂いた。深い洞察があって、恥ずかしくなるほど明快な光を当てて頂いた。感謝を申しあげるのに、岐阜から上京される時間を頂いたことになってしまった。

 6時から、いつも財団の社屋の1階で開いている音楽会。財団が便利な土地にある空間(ちょっとしたコンサートに使えるホール)や、シュタインウェイのピアノや、ストラディバリウスのヴァイオリンなどを所有しているなら、それをできるだけ多くの方たちに(無料で)聴いて頂くこと。それを念願にしている。そうすれば、財団の収入(競艇の売り上げ)が多かった時代に買い集めて、厳重な選考委員会で選ばれた世界中の優秀な音楽家たちに無料で貸与している楽器類も、生きる。

 今日はファンの多いテノールの上原正敏氏の独唱会。

 上原氏のテノールに関する解説がおもしろかった。テノールという困難な歌の音域は、昨日歌えたから今日も確実に声が出るというものではないのだそうだ。だから始まったら、とにかく歌う他はない。恐ろしい作業だろうと思う。一期一会と思って歌われるのだろうか。仕事=オペラというものは、どの領域でも厳しいが、書くことはそれほどでもないような気がする。


6月12日

 午前中の飛行機で富山へ。富山全日空ホテルで行われる「読売文化フォーラム」で講演するのである。始まる前に中沖豊県知事としばらく会談。

 終わってから、読売新聞社の正力松太郎氏、小林與三次両社長の記念館に立ち寄った。大門町という小さな町の2つの名家に、こんな秀才たちが生まれたのである。小林氏が青年時代に書かれた手紙を見れば、今の時代にはこういう教養人はほとんどいない。奥さまが一目惚れななさったというのもよくわかる気がした。

 私たち夫婦は小林社長と生前かなり親しかった。

 或る時、私たちは小林氏とヴァチカンに同行した。その時ヴァチカンから勲章を貰われたのである。ほかにもビジネスが1つあったのだが、そちらの方はヴァチカンが美術品の貸出しに関しては実に多くの障壁を持っているのでうまくいかなかった。

 その時小林氏は、お嬢さんの英子さんと、当時日本テレビで、カトリック教会の提供番組のプロデューサーだった樋口譲氏を同行していた。樋口氏というのは、まことに明るい穏やかな知的な人物で、日本テレビに入社するや美人のタレントさんだった新人を奥さんにしてしまった。私たちは「そういうのを汚職というのです」と樋口氏をヒナンしていたものである。

 その旅の途中でも樋口氏は、

「社長はお嬢さんにはいろいろと買ってあげますが、僕には買ってくれませんね」

 と言った。それが少しも図々しくなく、客観的でユーモラスであった。そういうことを言える社員、そういうことを言わせる社長、そういうことの言える社風、というものを私は羨んだものである。


6月13日

 13時過ぎの列車で米原に出た。

 米原から車で八日市へ向かい、講演。

 終わって琵琶湖の畔のホテルに泊まった。いい景色なのに、ホテルは手入れがよくできていない。


6月14日

 11時半頃、京都着。

 駅で裏千家家元の秘書役、小林哲夫氏に会い、東京からの新幹線を待って、ヴァチカンの尻枝正行神父と、弟さんのサレジオ会士・尻枝毅神父をお待ちした。それから裏千家今日庵へ。

 目的は3年前に亡くなられた千登三子さんの追悼ミサを捧げるためであった。この計画には長い間の時間が必要だった。

 千登三子さんは私の家で、カトリックの洗礼を受けておられたのである。それは登三子さんの希望であったが、私は登三子さんの立場を考えて、ずっと長い間誰にも喋らなかった。しかしその御葬式の時、私は登三子さんが、そのことを一部の人たちには既に自分から公表しておられたことを知った。

 カトリックでは、洗礼を受けた人が、仏教のお葬式をしても少しもこだわらない。心の内面の問題と、「世のしきたり」とは別なのである。むしろどちらかというと、心の問題は心の中に止め置き、世のしきたりを優先することの方が愛の選択だとなっている。

 お家元の千宗室氏から、どういうふうにしてカトリックの回向をしたらいいか、というご相談を受けた時、私は尻枝正行神父に京都に行って頂くことを考えた。しかしその頃、神父は体調を崩されて、日本に帰って来られてもとても外出できない状態だった。

 今度ヴァチカンから帰国された時、もしやと思ってご相談してみると「行けそうだ」というところまで回復されたのである。毅神父に同行していただけば、心理的重荷も減られるだろう。そうやって、今日の日が用意されたのである。

 今日庵のお座敷に、神父さま方、お家元、小林さん、と私が座り、自然にどうしようもなく仏教的な空気の中でミサが始まった。ミサを立てられたのは毅神父だったが、お説教をされたのは正行神父だった。ご聖体拝領の時、神父は、お家元にも聖体をお上げになり、お家元はそれを押し頂かれた。私は誰の顔も見なかったが、涙が止まらなかった。

 そこにあったのは、亡くなった方の優雅な生涯をも含めて、徹底した優しさだけであった。誰をも拒まない、誰をも迎え入れる神の眼差しが漂う時間である。

 私たちが向かっていた床の間には登三子さんの写真を守るように白い百合が香っていた。その更に奥がお仏壇であった。

 お家元と精進料理を頂いてから、私たちは大覚寺の一隅にある千家の墓所に、登三子さんのお墓参りをした。表千家もごいっしょに、一族のお墓が集まっている。墓石も小さなもので、賑やかな温かい感じであった。

 正行神父が少し疲れたと言われるので、夕方はホテルでずっとお喋りをしながら過ごした。それからホテルが親切に紹介してくれた近くの木屋町の「せき川」でお夕食を頂いて、無事1日が終わった。


6月15日

 正行神父は少し元気が出られて、どこか1、2カ所くらい長く歩かないところなら京都を見られそうだとおっしゃるので、タクシーを頼んで詩仙堂に行こうとした。なぜなら、神父はヴァチカンの諸宗教連絡事務所次長だった頃、比叡山ほか大きなお寺には、ヴァチカンからの特使としてあらかた行っていらっしゃるのである。しかし詩仙堂ならそんなこともあるまい、と思ったのだが、タクシーの運転手さんが曼殊院に行くことを勧めてくれた。

 曼殊院は伝教大師が始められたもので、比叡山の東尾坊と呼ばれていたのだが、江戸初期に今のところに移された。桂宮智仁親王の次男、良尚法親王の時である。この方は素晴ら
しい文人・芸術家で、書、画、建築、造園などの細部にまで、非凡な才能を示した。その上、庭の緑も瑞々しい。建築の意図もデザインも明快である。おまけに風も素晴らしかった。

 最後に庫裏の近くまで来た時、往きには気付かなかった写真が廊下に飾ってあった。ここのお住職はヴァチカンヘ行かれたことがあるらしく、一目見てそれとわかる教皇さまとの謁見の写真がある。その中に、正行神父が写っていたのである。「あ、これ、僕だ」と神父も気づかれ、私たちはちょっと興奮した。その後、詩仙堂に立ち寄ったが、人が多いし、中2階の書斎も昔と違って見られない。最後に木屋町の商店街を少し歩いてお漬け物を買った。午後の列車で帰京。


6月17日

 午前11時から、国際開発救援財団の評議員会。他の財団の仕事ぶりを知るのは大変勉強になる。3時半からスルガ銀行社長・岡野光喜氏との対談。

 社屋に飾ってあるブュフェの絵をたくさん拝見できた。


6月18日

 午前中、日本財団の仕事を毎年幾つか選んで、第三者の評価会社に委託して評価をしてもらっている。その結果を2時間かけて聞いた。情報公開の原則を徹底するために、今後その評価の結果も公表したいと思うのだが、いくつかの問題をクリヤーしたいとのこと。

 午後、海上保安庁政策懇談会。不審船引き揚げ、密航・密輸対策、プレジャーボート等の安全対策、大陸棚調査、など。

 夜はうちで海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)の運営委員会。ブラジルの永山神父が働くスラムの人々のための、食料品、ミルク、薬代に3万ドル。ボリビアのシスター・斎藤の手がける売春婦や未婚の母などの厚生事業として、製パン工場の建物建造と機械整備に4万5000ドル。シスター・本郷が働くハイチに校舎建築の費用として9000ドルと、識字教育の運営費に7900ドル。幼きイエズス会のシスター・松本が責任者になっているペルーの貧しい子供たちの学校に朝食の給食費として2万7000ドル。シスター・高木良子が働くコンゴのブラザビルにある学校の校舎修理や機材補充のため1万1800ドル。フィリピンではシスター・有田がスラムの子供たちの教育プロジェクトをやっているが、足となるスクーターを買うのに35万円。総計で約1668万円余り。1回の決定額としては、過去最大の金額になるだろうか。

 今日の我が家の献立は、外国から帰国中のシスターや神父さま方のことも考えて、豚汁、黄味こんもりの生卵、木屋町で買ったお漬け物どっさり。生卵を出すところがミソで、或るシスターが後でこっそり「2個もいただきましたのよ。お米がおいしくて……」。そうでしょうとも!
 



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