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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 市民ランナーが目抜き通りを思いのままに駆け抜ける大会を夢見て  
コラム名: 悦ちゃんと「一緒に話走(はなそう)」  
出版物名: ランナーズ  
出版社名: ランナーズ  
発行日: 2002/09  
※この記事は、著者とランナーズの許諾を得て転載したものです。
ランナーズに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどランナーズの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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7月から始まった志穂美悦子さんの対談の第2回のゲストは、作家であり、日本財団会長の曽野綾子さん。5月19日に開催された東京シティロードレースでは約6000人のランナーが大都市のメインストリートを駆け抜けた。この大会の仕掛け人でもある曽野さんと悦子さんが「本当の市民ランニングとは何か」「元気な人も、身体に障害を持つ人も自由に参加できる大会とは」をテーマに語っていただいた。
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≪ 皆さんの熱意や善意があればますます大会は良くなります ≫

志穂美◇本日はとても偉大な作家の方との対談ということで、とても緊張しています。どうかよろしくお願いします。

曽野◇私こそ、私なんかでごめんなさい。昔は走っていましたが、今は「ノッソリーズ」って言うの(笑)。雑誌名を変えていただかないと(笑)。

志穂美◇まず、東京シティロードレース、大成功でしたね。おめでとうございます。この大会の前身は「神宮外苑ロードレース」だったんですよね。

曽野◇そうです。国立競技場を起点とした2kmのコースを5周回していました。このコースを第4回まで続けた後、今年から東京国際マラソンのコースのゴール前ラスト10kmを使えることになりました。このコースで、一般の方も、車いすの方も一緒に走ることのできる大会にしたいと思っていたんです。

志穂美◇私は今回盲人の走友仲間を伴走しましたが、彼は外苑ロードレースの時から参加されていた方なんです。

曽野◇そうですか、うれしいですね。苦労も色々ありましたけど、私は人生のことって一般的に「少しずつよくなる」っていう主義なんです。一番最初から理想じゃなくても、市民みんなの熱意や歓び、そして善意などが積み重なれば、この大会も何年かたつと、ある良き姿になっているものじゃないかなと思っています。

志穂美◇エリートランナーしか走れないと思っていた東京の繁華街を私たちも走れるのは最高の気分でした。

曽野◇「我が街」という感覚は、日本では、東京でことに薄いんですけれども、そういう意味でも走りながら、東京を「わが町」として、もう一度愛してもらいたいと思うんです。東京という土地は良い意味で「寄留者を受け入れる」ところにあると思います。外から入ってくる人には規律はあっても優しくなければいけないと思うんです。

志穂美◇私は盲人の彼に精密に情景をガイドしてあげた方が心の中にしっかり絵が描けると思って、小さなことですが、交差点の名前から全部言ってあげたんです。

曽野◇それは素晴らしい。きっと喜ばれますよね。

志穂美◇私たちは他の障害のあるランナーの方と同じスタートでしたが、後ろにいらっしゃった知的障害者の方が自分で自分に全部ガイドしながら走っていたんです。「空にはヘリコプターが飛んでます」とか、「今、大きな交差点を走っています」とか。これは私はこの人に負けちゃいけない! と思って、一生懸命解説しました(笑)。

曽野◇私は毎年障害者の方たちと一緒にイスラエルを訪問するんですが、眼の悪い方がいらっしゃると見るもの全部を言って差し上げるんです。「このバスのシートは何色で、運転手さんはどういう洋服を着て、どういう風貌か」って。そうやって言わないと分からないでしょ? 私は「ハゲで、デブで……」って言うんです(笑)。「曽野さんて悪いこと言ってたよ〜」って言われますが(笑)、急いでたくさんのことを言うには、そうするほかないんです。

志穂美◇喋った言葉によってその方の心の中に絵が描けますよね。私たちが本を読むときもそうですが、読み手が自分で想像して、絵が浮かびますね。だから伴走とは「その絵の中を走ってもらうこと」だと思っています。

曽野◇そうですよね。多少は口が過ぎてもいいんです、余り遠慮せずに。私は小説家ですから、いい面も、悪い面も、あらゆることを考えるんです。たとえば、記録を狙おうとするランナーがいる中で、私みたいなオバサンが走って、交差点で「この辺でやめて、あの店入ってあんみつ食べて帰ろうね」という人がいるんじゃないかと思ってしまいます(笑)。でもそれも許してもらって、みんながマラソンに参加することによって、それぞれの人生讃歌ができるといいなあと思っているんです。

志穂美◇でも本当にそういう意味で素晴らしい大会でした。新緑にあふれていて、走るにはとてもいい時期ですね。一緒に走った方も隣で「ビルの日陰が適度にあって、走りやすい!」と言っていました。盲人の方たちは、陰や日なたにとても敏感なんですよね。

曽野◇そうなんです。においや、湿度も分かってしまうんです。あと、私考えたんですけれども、競技用でない、一般用の車いすで走る部門を作ったらどうかしらね。その方の親や親戚、友達などが押しまくるっていう(笑)。それもひとつの競技としていいのではと思うんです。

志穂美◇それは面白いですね(笑)。

曽野◇もちろん、もしかしたら車いすごとひっくり返るかも知れない。でも大きな事故にならないように必ず乗っている方はヘルメットをかぶるとか、厚いジャケットを着せれば大丈夫だと思うんです。うちの主人(作家・三浦朱門氏)は、車いすを押して、その方をわざと落とすのよ。それですりむいたりすると「当たり前だ、人生このくらいのことあるわ!」って(笑)。でも、落とされた方も喜んでいるんです。だって、すりむき1つ作らない人生なんておかしいでしょ?

志穂美◇その方は、そういう扱いをされることがかえって嬉しかったんですね。

曽野◇そうなんでしょうね。障害を持っているからといって、いつも大事にされすぎるのはいけないと思うんです。そうやって考えていくと、マラソンにも毎年テーマができると思うんです。だからランナーの皆さんのお知恵をいただいて、アイデアを広げていけたらいいですね。

志穂美◇今は88歳ぐらいのお年寄りの方でもフルマラソンを走ってしまいますからね。

曽野◇そうそう(笑)。今はね「古稀は稀なり」じゃなくて「古稀はざらなり」なんて言いますしね(笑)。高価な賞品なんていらないですし、小さい賞でいいから多くの方に贈るといいのではないでしようか?


≪ 日本にはマラソンを文化と捉える考え方が薄いのではないでしょうか ≫

志穂美◇今回初めて臓器移植者の方も参加されていましたね。普段動くのも大変な状況から10kmを完走されたことはとても感動でした。入賞した女性が表彰式で号泣していたのが心を打たれました。

曽野◇そうなんです。あと障害は違いますが、たとえば筋委縮症の方などは、普通、やっとのことで車いすに座れるくらいなんですけれども、少しは立てる方もいますし、両脇を支えてあげると歩けるんです。筋委縮症の方たちのために100mや1kmなどの種目をつくるのもいいかも知れないですね。私は筋委縮症の方を800m歩かせたことがあるんです。

志穂美◇800mもですか? それはどのような状況からですか?

曽野◇エルサレムの町中に、イエス・キリストが十字架を背負って歩いたというビア・ドロローザという道を、抱えられながら歩いたんです。一緒に付き添ってくれた医者がその方が歩くのを見ててくださって、「あれは奇跡だ」って言ったんです。奇跡か奇跡でないかは別として、そういう面白い話が出てくるんです。

志穂美◇医学では分からない「気」が発するのでしょうね。それにしても、海外では障害者に対するマラソンが早くから根付いていますが、日本ではなぜ遅れをとっているのだとお考えでしょうか。

曽野◇よくマラソンは人生にたとえられることがあります。ですから「山あり谷ありで、楽じゃない」という暗黙の共通の観念がやっと受け入れられるようになったんですね。それまで日本人は人生を評価するという方法を知らなかったと思うんです。日本人はスポーツとなると遊園地程度の趣味としか捉えてくれませんよね。

志穂美◇文化として捉えられていないんですよね。

曽野◇そうだと思います。1等になる人もいるけど「1等が必ずしも良くなくて、1等以上のものはない」でしょう? するとビリが一番得なんですよ。ものは考え方ですものね。そういうように人生を様々見て楽しむと言うことができるわけですから。


≪ 人生、どこで何が役に立つかわからないところが素晴らしい ≫

志穂美◇先生は、49歳の時に眼の障害に遭われたんですよね。

曽野◇はい。強度近視でした。かなり矯正できるので弱視とは言えないんですが。ですからそういう方のことは「分かる」と言ってはいけませんが、推測することは他の人より易しいような気がします。

志穂美◇その年齢の時にはほとんど視力がなくなってしまったのですか?

曽野◇はい。一度、バスも飛行機も乗るのがむずかしくなったんです。でもそれが私の「眼の悪い方と一緒に旅行に行って実況中継をしよう」と思うきっかけだったんです。作家ですから、喋ること、描写することはできますし、自分が見えなかったときに何を見たかったかを知っていますから。

志穂美◇あと、4年前に脚も折られたという話を伺ったんですが。

曽野◇そうなんです。全治9ヵ月の大ケガでした。その時あるお医者が「いい人が脚折ったね」と言うから「どうして?」って聞いたら、「曽野さんおしゃべりだから、あらゆるところで『これはバリアフリーの妨げになる』とか言うに違いない」って(笑)。そこで不自由なことがどれだけのことなのか、初めて分かって、日本財団が経営しているホテルに4室、バリアフリーの部屋を作ったんです。これならばグループで旅行をする時でも、車いすの方も一緒に参加できますから。

志穂美◇素晴らしいですね。現在、もう脚は治ったのですか?

曽野◇ええ、まあ、治ったことになっているんですが、多少は右脚の踏ん張りが効かないんです。でも、完全な人聞なんていないんですから。

志穂美◇でも先生のそういった経験が、いろいろなことに役立っているんですね。

曽野◇だから眼が悪かったのも良かったし、足を折ったこともお陰様で役立ちました(笑)。ここへ来る前は「日本船舶振興会」なんてあるのもまったく知らなかった。でもここに来たら船の勉強をしていたこともみんな役に立った。何が役に立つか分からないから不思議ですね(笑)。


≪ 運と「受け身と能動」
  ふたつを掛け合わせたところに人生の面白さがあると思います ≫

志穂美◇先生のご主人も歩かれるんですよね?

曽野◇もうすごく歩くんです。バス代や電車代が惜しくてケチの精神なの(笑)。でも若い人が「先生、靴が減るのとズボンの裾が減るのを計算に入れた方がいいんじゃないの?」って言うんですよ(笑)。突然いなくなると「大井町まで行った」とか、「今日は蒲田まで行った」とか。10kmぐらいは平気で歩いちゃうんです。前はよく走っていましたけど、私が「老人倒れる」って新聞に書かれるからやめなさいって(笑)。そうしたらね、歩くほうに変えたみたいです。

志穂美◇先生もすごくお若いですよね。今回のレースの表彰式で先生がお話になっていたときに歯切れがいいなあって思ったんです。実際のお年を伺ったら「え〜っ」ってビックリしちゃって(笑)。海外とかご自分の脚で見ていらっしゃるからでしょうか。これまでに100カ国以上回られたとお伺いしましたが。

曽野◇110力国ぐらいです。治安の悪い国ばかりですから、防備して無事に帰国することが第一なんです。アフリカに行くときは、ワイヤーロープやアメリカンスコップ、それと寝袋を持って行くような旅行です。そういう物を持って行くのは普通の方は考えないですよね。

志穂美◇最後になりますが、先生ご自身が生きてこられた中で、苦しかったことや、立ち上がれないことがおありになったと思うのですが。

曽野◇私は30代の頃に、鬱病になったんです。そのために眠れなくなるというのが7〜8年続いたんです。先程言いました眼は、どんどん見えなくなった時は精神的にも非常にショックを受けたんです。小説を書けないほどの状況にもなりました。ただ白内障を引き起こしただけなら見えるんですが、以前にもう1つ病気があったので、お医者様にもあまりいいことを言われなかったんです。ですから私は鍼灸師になれば絶対にお役に立ったと思うけど、その時はもう50歳でしたから、切り替えるのが辛かったんですね。

志穂美◇それを立ち上げさせた精神的なものは何が原動力となっているのでしょうか?

曽野◇その当時は宗教は少しも役に立たなかったんですけれども、宗教には「与えられた状況は、神様が贈られたもの」という考え方があるんです。「あなたが眼が見えなくなるとしたら、それは『次の眼の見えない状況を生きよ』と思わなくてはいけない」と思いました。50歳からは割と健康に、普通の問題点だけで生きているので、その当時である程度は問題が出たのかなと思っています。

志穂美◇今回の対談の中でランニングだけではなくて、先生ご自身の挫折をどうやって乗り越えていかれたのかもお聞きしたかったんです。

曽野◇私は「自分で全部解決できる」「自分が全部用心していれば、大丈夫」だと思う人の方が怖いと思うんです。「運」があると思わなければ人間的にもふくよかでないような気がします。運と私たちの人生というのは「受け身と能動」っていうんでしょうか、それを掛け合わせたところに面白さが出てくるのではと思います。神様とまでは言わなくとも、人間以上の何かがあると思わないと面白くないと思うんです。

志穂美◇ロードレースのことだけでなく、先生の人生に対する考え方や、取り組み方までもが伺え、とても有意義なお時間でした。本日は本当にありがとうございました。
 



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