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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ロシアの飛び地カリーニングラードで(下)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/07/23  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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V・イワノフ氏との再会
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≪ 奇特な男の里帰り ≫

 広大な国土の最西端にあるロシアの飛び地、カリーニングラード州。ここに足を延ばすからには、ある人物に是非とも会っておきたいと思った。ウラジミール・イワノフ、52歳。

 この州で生れ、この地とは正反対の極にあるロシアの東の端、カムチャッカ半島で半生を送り、そして1年前ここに戻ったロシア人だ。私が3年前、カムチャッカ半島を旅した際、出会った1人である。てづるをたどって連絡をとってもらった。空港に迎えに来てくれる手筈だったが姿が見えない。「何かの行き違いが起こったのだ。もしかしたら会えないのか」。そう思った矢先、ホテルに訪ねてきた。

「やあ久しぶりだなあ。君がここにやってくるとは夢にも思わなかった。俺がカリーニングラードで初めて見た日本人だぜ、君は。何の用事で来たんだ」

「いや、あんたに会いに来た」

「俺に会いに? 変な日本人だよ、君は。ガッ、ハッ、ハッ、ハッ」

 破顔一笑とはこういう表情を指すのだろう。

 彼はロシア語以外は、英単語を約20個と、「今日は」「サヨナラ」「有難う」の日本語しか出来ない。通訳を介してのやりとりである。私は仕事で訪れたモスクワから、次の出張先に出かける途中、ここに立ち寄ることにしたのだ。通訳は、モスクワから同伴してくれた日本学者、G・ユーリさんだ。

「カムチャッカの会社はどうした? 今でもべーリング海の紅鮭をとって日本に輸出しているのか?」

「ウン。やってる。会社を所有してはいるが、経営権は譲った。モスクワ政府の要求する漁業権料があまりにも高値になったので、もうからなくなったからだ」

 イワノフは、カムチャッカで鮭漁船5隻を持つ水産会社社長だった。彼はカリーニングラード州の水産大学を卒業した。そしてあえて僻地への赴任を希望、カムチャッカの漁業コルホーズで働いた。共産党員でなかったので副議長どまりだった。ソ連崩壊と市場化で、社長となり、日本と大口の取引を開始した。ロシアのニューリッチの1人だ。だがただの成金とは違っていた。

 私が、1999年の夏、カムチャッカで会ったとき、彼はこう言った。「人間金もうけだけでは、この世に生を受けた意味がない。人間はどこから来てどこへ行くのか。それを考える人間にならなければいかん。そのためには自分の知らない世界を知っておく必要がある。そう思って、利益のなかから、従業員の子弟7人に欧米留学の費用を出している」と。彼の長女、ナターシャさんも、その1人。オックスフォードで経済学士を取り、モスクワで英系企業に勤めている。

 そういう奇特な男が、出生地の、カリーニングラードに里帰りしたと聞いて訪ねたのだ。昔はドイツ領、冷戦時代は外国人立入り禁止のソ連西端の軍事都市、そして今は、バルト三国のロシア離れで、飛び地となったロシア領の経済特区、カリーニングラード州とは何ぞやを講義してもらうために。


≪ イワノフ家の起源 ≫

「俺が子どもの頃、カリーニングラードの伝統的産業は漁業だった。ドイツ時代からそうだった。高校を出て1年間、水夫として働き、マグロ缶の加工船に乗った。当時は南氷洋の捕鯨船の母港だった。クジラ肉のソーセージ。今でも覚えている」。

 ところが、バルト海の汚染が進行し、魚がだんだんとれなくなってきた、遠洋漁業も採算が悪くなっていた。1975年イワノフさんは、25歳で思い切って、漁業資源が豊富だと聞いていたカムチャッカの漁業コルホーズに転属を申し出た。計画経済のソ連だから、採算悪化で、出身地の漁業に見切りをつけたわけではない。極寒の僻地に行けば給料が2倍なると聞いたからだ。

「今では、カリーニングラードに漁業はない。市場経済になってから漁業コルホーズは解散した。昔は漁業のほかに車両製造とか造船などが活発だったが、今はたいした産業はない」。イワノフさんは、そう言い切る。では、カリーニングラードとは、ロシアにとっていかなる地位を占めている州なのか?

「まず第一に、ロシア共和国のバルチック艦隊の本拠地だ。バルト海のフィンランド湾にあるサンクト・ペテルブルグは、冬は凍るからね。ここはロシアにとって大事なんだよ。ロシアの西にあるたったひとつの不凍港だから…」

 だから飛び地となった今でも、モスクワはこの小さな州から、ロシア人がいなくならないように経済的な優遇策をとっている。エネルギーと食糧はおおむね本国の補助金つきで、輸出入は経済特区扱いで、免税の特典がある。本国より有利に外国と交易が出来る。イワノフさんも特典を利用して、室内装飾用の建材の製造販売業をやっている。

 イワノフさんと町を歩く。ドイツ時代の市役所が、今でも市役所として使われている。州の歴史博物館で、この街をめぐる独ソ攻防戦のジオラマを見物した。1945年4月の5日間にわたる激戦の記録である。当時、ドイツの最東端の防衛線だった「ケーニッヒスベルグ」(現カリーニングラード)に赤軍が進攻した。このあとポーランドから、ドイツに入った赤軍は、2ヵ月後にはベルリンを占領、第2次大戦に終止符を打った。

 1947年、連合国のプロイセン国家廃止宣言によりケーニッヒスベルグは、ロシアに帰属することになった。そこでスターリンは住民の民族総入れ替えをやった。生き残ったドイツ兵はシベリア抑留、市民はドイツに送還、新住民はロシア人で編成された。初代の住民は、攻防戦で闘った旧赤軍兵士が多い。それはカリーニングラード州におけるイワノフ家の起源でもある。

「兵士としてこの地で闘った私の父は、ここに残留した。市の中心部は戦闘でほとんど瓦礫と化したが、ドイツ人の住宅地は、大部分無傷のまま残った。ここで闘った赤軍兵はヨーロッパ?ロシアの農民出身が多かった。ドイツ軍のモスクワ、キエフ攻略作戦で故郷が破壊された人々で、帰るべき家がなかったからだ」。イワノフさんによれば空家になったドイツ人の家は赤軍兵の実家よりもはるかに広くしかも高級だった。気に入った家を選んで住みついた。その後、政府の命令で、ソ連のいろいろな地方から移住者が集まった。市の復興作業で仕事はいくらでもあり、給料も高く設定された。「戦争で、おびただしい数の若いロシア兵が死んだ。戦後のロシア人女性は結婚難になり、この地に残留した元兵士を目当てに、大挙してやってきた」。その1人が、イワノフさんの母だという。


≪ ロシア広しといえども… ≫

 ポーランドの中のドイツの飛び地を領有したことにより、ここにあったドイツの軍港、ピラウは、バルチンスクと改名され、ロシア海軍の西ヨーロッパヘの重要な出口となった。今では閉鎖された軍港町である。イワノフさんに立入許可証を頼んだ。「州訪問の理由が“俺に会いに来た”ではまずいよ。ウマイ口実を考えてやるが、発給まで3日待てるか」と言われて断念した。埋め合わせだといって、彼は仕事を1日休んで、通訳のユーリさ
んともどもバルト海沿岸の景勝の地に車で連れて行ってくれた。

 カリーニングラード市の北西35キロの緑の豊かな町、スベトゥロゴルスク。人口1万3000人の保養地である。ソ連時代は党の幹部や役人、そして模範労働者のためのサナトリウムが建設され、これまた立入禁止区域だったという。木造の立派な家が森の木立の中に何百軒もある。今では、金持ちの別荘になっている。ヨーロッパで一番大きいというふれこみの日時計の花畠があった。急峻な崖を下りると砂浜だ。浜辺で少年が、砂に混じったいくつかの茶色の破片をくれた。ビール瓶と思ったら琥珀の小さなカケラだった。

 すぐ近くに世界一の琥珀の鉱山、ヤンタルニーがある。年産750トン、世界の90%の琥珀を産出している。重さ2.86キロの世界最大の琥珀が展示されていた。琥珀は、数千年前の松ヤニが酸化して凝固した化石だ。でも石ではないので、さわっても冷たくない。熱すれば融けてしまう。付近の浜辺は、しゃがみこめば、琥珀の採集は可能だ。沖合にカリーニングラードの砂州が見える。その先端と半島との間が、100メートルほどバルトの外海に開けている。そこが軍港とのことだった。

 夜、イワノフ家に招待され、ウオッカでカラオケをやった。酔うほどに、「カリーニングラード独立論があるが、どうか」、と水を向けた。

「経済で自立できないのだから独立は無理だ。俺たちは昔のドイツ領に住む根なし草のロシア人なんだと思うこともある。でも、そんなこと忘れることにしてるんだ。俺は、ロシアの東の果てと、西の端の両方に住んだ男だ。皇帝だって党書記長だって、大統領だってそんなことができた男はロシア広しといえども俺しかない。なあ友よ。お前もまたロシアの両端を訪ねたたった1人の日本人だ」。2人で、今は流行らぬソ連時代の流行歌、カチューシャ、黒き瞳を合唱、意気投合した。
 



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