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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 死んで行く人々  
コラム名: 私日記 第32回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/08  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年5月1日

 ギリシャヘ巡礼に行った本隊とミラノで別れた。昨夜は飯倉誠子さん、福留洋美さん、陳勢子さんの3人、いずれも海外邦人宣教者活動援助後援会の援助をしてくださっている方たちと、日本財団からボランティア組として参加していた外海陽子さんとミラノで1泊。今日は午後の便でフランクフルトヘ。空港ラウンジで、東京から直接来られた日本財団の歌川令三常務理事、寺内昇さん、源川かおりさんの3人と落ち合う。これからサウス・アフリカン航空の夜行便で南アのヨハネスブルグヘ向かう。旅行の第2部の始まりである。

 空港でシャワーを浴びたら疲れが大分取れた。眠り薬を飲み、計画的に朝までぐっすり眠るつもりだったのに、数時間で眼が覚めてしまった。不思議な気がして、テレビで現在位置をみると、チャドの首都・ヌジャメナの真東のそんなに遠くない地点にいる。

 不思議な思い。4月初め、「ショファイユの幼きイエズスの修道会」のシスター、永瀬小夜子さんが、ヌジャメナで急死された。貧しいチャドの人たちのために、奥地で幼稚園や診療所を経営する同じ会のシスターたちの支援の任務にあったのだ。誰よりも死にそうになかったがっちりしたシスターだった。

 ふとシスターの魂が私を呼び起こしてくださったのかと奇妙な懐かしさを覚えた。シスターの遺骸は今でもこのヌジャメナの岡に眠っている。窓に顔を押しつけて外を見ると、飛行機の翼の下の方にまで星が散らばって、シスターの奥津城を覆っているように見えた。こういうみごとな人生が今でもあることを、多くの人は知らない。


5月3日

 昨日早朝、ヨハネスブルグ着。フランシスコ会の根本昭雄神父と、元三井物産支店長の大北修二氏がわざわざ空港まで来てくださって、宿舎のサンタンサン・インターコンティネンタル・ホテルヘ入った。

 ヨハネスブルグまで来た目的は、今日10時から、ボックスバーグにある聖フランシス・ケヤー・センターというエイズ・ホスピスで行われる新病棟の完成式に出席するためである。私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOが、この建設のために2300万円を支出した。私は代表者として、新しい仕事が完成した時には、毎回自費で確認に行くことにしている。

 以前からあったのは、30床の病棟だったが、それではとうてい足りないので、ここで働いておられる根本昭雄神父が、私たちの組織に資金の供与を求められたのが昨年である。私たちは既に、216万円でここに霊安室を建てている。毎日1人は病人が亡くなるので、霊安室の建設は緊急に必要なものであった。今度の新病棟は20床。焼け石に水としても少しはいいのだと心を慰めることにしている。

 9時にホテルを出て、10時にボックスバーグ着。式典が行われるのは戸外だが、椅子の数は200人分くらいはある。土地の子供たちのバンドも来ている。修道院の応接間で、スタン・ブレナン院長、日本人を代表して榎泰邦特命全権大使、ダーバンの司教・ウィルフレッド・ナピア枢機卿、などにお会いしてご挨拶。しかし南アらしく時間通りに始まる様子はない。呑気に30分はたっぷり遅れて始まった。皆日向が暑いので、コカ・コーラがくれた白いサンバイザーをかぶっている。

 ここへ来る前、今日のオープニングに持参するお祝いを何にするかで、少し考えこんだことを、私は思い出した。老人ホーム、幼稚園、クリニックなどならすべて我が国製の掛け時計と決めてある。皆で使える。安い割りに嵩が大きい、という浅ましい理由まで含まれている。しかしエイズ・ホスピスで患者たちに時の過ぎ行くことをなんで認識させる必要があるだろう。一刻一刻が、ただ比較的楽しいことだけが大切なのだ。

 私は考えた上で、簡単な電子オルガンを買って持って来てもらうように後発組に頼んだ。たった3万円しか渡さなかったのに、楽器は大きな包で、ヨハネスブルグ空港の税関で果して捕まったが、神父が目的を説明してすぐに納得してもらった。他に日本財団の秘書の星野妙子さんが子供たちのためのお人形、うちの秘書たちが自動車のおもちゃと音楽のCDをくれた。しかし何が慰めになるのか私にはわからない。体力もどれだけあるのか私は直接尋ねたこともない。

 式の初めに10人近くの子供たちが歌った。全員が母親を失って孤児になり、しかもHIVプラスになって、このケヤー・センターで暮らしている子供たちばかりである。アフリカでは、母は身近にいても、父という人は「どこかにいる」だけの子供たちが実に多い。だから母の死だけで彼らは孤児になる。

 根本神父によると、この子たちは恐らく学齢までは生きない、という。それでもというべきか、それだからというべきか、神父は幼稚園の運営に一生懸命だ。この日一日が人間らしくあること。それ以外に人間の任務も幸福もないだろう。

 ナピア枢機卿のスピーチは大したもの。

「大統領に申し上げる」という呼びかけで、南アの政治的政策が命の尊厳に対してルーズであることを、こういう席で堂々と抗議している。エイズ対策の弱いこと、避妊の合法化などである。枢機卿はコンドームの使用も生命への軽視として訴えたが、これほど実行のむずかしいことはないだろう。アフリカの部族社会には子供がたくさん生れることが繁栄の証拠と思っている人たちが多いから、本当はコンドームなど使わない。しかしもし使うと、一度で捨てないで使い廻しをするから、エイズは一挙に複数の妻の間に広まることになる。

 私も短い英語のスピーチを用意して来た。

 式の後で、新病棟の祝福と見学。日本で寄付をしてくださった後援会の皆さんに見てもらいたいような温かい病室ができている。薄い卵の殻色の壁。窓の外の木漏れ日。余計な飾りは一切ないけれど、私の趣味にぴったりの必要なものはすべて手を抜かずに作ってあるという病室である。2人1部屋、トイレとシャワーがどの部屋にもついている。こんなきれいな部屋に住んだことは一度もなかった人たちがほとんどだろう。

 しかし現実は厳しい。私は根本神父にかねがね疑問に思っていた点を、ほんの数点質問する。ここから一応は治った状態になって「帰った人」はいるのか。

「1人もいません」と神父は言う。

「ここには平均して何日いるのですか?」

「2、3日でしょう」

「一番高齢だった人は幾つでした?」

 神父は一瞬考えて答えた。

「50歳以上の人は、1人もいませんでした」

 私たちが数力月前に建てた霊安室は安泰で、フル活動している、という。


5月4日

 朝、1時間ほど走って、大北夫妻が現在住んでおられる郊外の住宅地に行く。ゴルフ場の中にある絵のように美しいお住まいで、屋根つきのテラス・ルームからは、すぐそこでプレイをしているゴルファーの姿も見える。

 エイズの人たちの生活が頭を掠める。こういうことはいえるのではないか。人はこうして、国家・社会・個人の努力次第では、衛生的で、平和で、計画的な人生も送れる。それがどうして南アの貧しい人々には可能ではないのか。それが白人の植民政策と人種的隔離政策のせいだ、という答えだけでは、少なくとも私は納得できない。いつまで同じ答えをするつもりか。人種差別法を撤廃してからはまだ10年ちょっとだが、共和国になったのは1961年なのだ。日本は国中が焼け野が原になり、南アと違って資源もなかったが、敗戦を迎えてから、20年も経たずにオリンピックをやった。

 大北家で私たち一行8人は、みごとな伊万里のお皿に盛られたおいしい日本料理をごちそうになって、それからさらに1時間ほど走ってサファリ・パークヘ。夕方からの動物見物では、早々に耳たぶの破れた離れ象が襲いかかるように近づいて来て、ちょっとスリルだった。

 夜はいろいろと南アの話。日本財団が将来、南アを手がけるかどうか。するとすればどういう点なのか、誰もが心の射程に入れながら考えているだろう。


5月5日

 朝早く荷物をまとめてそのまま空港へ。途中道端のマーケットでお土産の買い物。私は瓢箪の花入れを1つ。瓢箪という植物の偉大さを知ったのは、アフリカと接するようになってから。ボウル代わりの容器、杓、帽子、水筒、すべて瓢箪。

 道端にまだ土の濡れている墓が10基近くできているところがあった。鉱山の近くである。運転手さんに「昨日か一昨日、この近くでバスの大事故でもあったんですか?」と聞くと、「ここは炭鉱の町だから、娼婦がいっぱい入ってきているんですよ。だからエイズでたくさん死ぬんです」。

 空港に根本神父が送りに来てくださった。当日の記事が出ている新聞を届けたかったからだ、と言われる。

「オープニングの日の夕方、2人死にました。昨日は無事でしたが、今朝からまた3人に臨終が近づいていますので、早く帰ってやりたいと思います」

 臨終の予告は激しい嘔吐だという。それから大体数時間で死がやって来る。

「どうぞ早く帰ってあげてください」

 言葉は何と無力で哀しいものか。

 午後2時過ぎ、シンガポール航空で出発。「日本はもう夜ですよ。早く寝て時差調整をした方がいい」と老婆心。それで昨夜はいささか意識的にサファリ・パークで寝不足をしたのだ。

5月7日

 日本財団へ出勤した。長い旅の後、1日も休まずに「会社」に行けるのは、まあいいことだ。


5月8日

 昼、きんぴら牛蒡を出したら、朱門が食べない。好物なのに「どうしたの?」と聞くと「昨日国立劇場の人に注意されたの」と笑っている。今日は「2002年日韓国民交流記念事業」で「日韓宮中音楽交流演奏会」が国立劇場で行われる。朱門はおいでになる天皇・皇后両陛下をご先導申しあげる役で、昨日その予行演習をしていたら、いつもの癖で、プーをやった。幸い臭いはしなかったらしいが、「明日はお控えください」と念を押された。それで今日はガスの発生源になるものは一切食べないのだという。

 陛下は昨夜から風邪気味でご発熱とのこと。それでもおいでになる。いつでもお休み頂く前例を作るべきだろう、などと余計なことを考えている。

 私も陪聴させて頂くことにした。出演は宮内庁式部職楽部と韓国国立国楽員の方たちである。初めて見聞きする楽器をたくさん拝見した。笛では神楽笛(かぐらぶえ)、高麗笛(こまぶえ)、龍笛(りゅうてき)。篳篥(ひちりき)、笙(しょう)、琵琶、和琴(わごん)、笏拍子(しゃくびょうし)、大●【竹冠に今】(テグム)、杖鼓(チャンゴ)、三ノ鼓(さんのつづみ)、などである。

 宮中音楽があっても、現代の韓国ではもはや過去のものである。しかし日本には天皇家が今もその文化を支えている。大きな違いである。


5月10日

 日本の暮らしの中で、穏やかなもの、健やかなもの、清潔なもの、豊かなもの、美的なもの、道理の通っているもの、優しい配慮に包まれているもの、すべてをこの世にありうべからざるほどのうたかたの夢と思う癖は、別にアフリカに行かなくても、ここ数年ずっと私の中で続いている現実稀薄症という病気だが、帰国してしばらくはやはり症状が強く出る。

 木々や花などの自然が精巧で美しい。外を歩いても襲われる心配があまりない。食材が複雑。食器が楽しい。皆まともな一夫一婦の暮らし。日本人が笑い出しそうなことが私にはありがたい状況だ。

 今日はおまけに新国立劇場で『トスカ』を見る。私は遅くなってからオペラの道に踏み込んだので、『トスカ』は初めて。悪人を描くということは、大人の世界においては何と絢爛として楽しいものだろう。善人の存在だけしか認めないような薄ぺらな社会状況だけをもてはやすから、日本の文化が幼児化するのだ。重厚な、しかも精神的な悪人を描くことは、悪人を容認することではない。己を映す鏡を何枚も用意することなのだ。

 終ってから、朱門の運転する車で三戸浜へ向かった。


5月14日

 3日間、海の傍で、庭で採れた野菜などを食べていたら元気が出た。ジャガイモ、タマネギ、三つ葉、ズッキーニ、菜っ葉類、食べるには困らない。町へお鮨も食べに行ったから更に元気になった。

 今日からまた日本財団に出勤。執行理事会。昔エチオピアで知り合った筋金入りの立派な看護婦さんの徳永瑞子さんと、秋のアフリカ旅行の際、中央アフリカを訪問することについての打ち合わせ。小学館。電光掲示板原稿選定ミーティング。社会貢献支援財団。PHP出版部。防衛大学校西原正学校長。それぞれおいでくださる。


5月15日

 ゼッカ・延子さんと歌舞伎。今は外国暮らしをしている昔からの友人たちは、誰もが揃いも揃って今風に言うと「超日本好き」になっている。歌舞伎座では、お昼には鰻を取り、売店では昔の駄菓子を買って食べる。ソラマメをつぶして焼いた薄甘いおせんべい。食べながら2人で笑っている。


5月17日

 講演のために燕三条へ。

 ここは新幹線の駅に、土地で作られる洋食器などの展示即売場があるので、そこに寄るのが楽しみである。迎えに来てくださった方に無理を言って講演前にもかかわらず、ちょっと買い物。スプーンと薬罐も買ったが、私が一番ほしいのは庭仕事の道具。鍬も魅力たっぷりだけれど、取り敢えず草刈り鎌と煎定鋏など。灰掻きもちゃんと老い松や鶴など古風な模様のを売っているのでほとほと感心した。

 講演を終ってから、日本料理屋さんで、私はちゃんとお刺身などでご飯を頂いた。他の方たちは土地の肴でおいしそうにお酒。


5月18日

 朝の列車で高崎へ出た。ロータリークラブの講演は、海外邦人宣教者活動援助後援会への寄付にして頂くのがいつものしきたりになっている。ありがたいことだ。

5月19日

 第1回の「東京シティロードレース」。主催は東京都なのだが、費用はすべて日本財団が出している。縁の下の力持ちは、うちの財団のあるべき姿だ。

 朝、スタート地点の日比谷公園に近づくと、不思議な熱気が伝わってきた。今日走るのは6000人ちょっとというが、周辺一帯が既に出場者たちの熱気でむんむんしているのである。こんなことは去年まではなかったことだ。やはり今年からコースが変わって、日比谷公園から日比谷通りを美土代町、神田神保町、水道橋と通り、市ヶ谷、四谷、外苑通りを抜けて神宮の国立競技場をゴールとする華のあるコースを走れるようになったからである。

 その陰でどれほどの多くの方たちが日曜返上で苦労してくださったかしれない。警察も消防もボランティアもである。とても全部にお礼を言うことはできないから、眼につく範囲におられる方たちに「皆さんによろしくお伝えください」と言う。日医ジョガーズというボランティア・グループは、ドクターやナースの団体だが、走っている最中に「何かあれば」とたんにレースを止めて医療に廻る。ありがたいことだらけ。

 毎年同じだが、一般のランナーに混じって、車椅子の人たち、視覚障害者、知的障害者がいるが、今年はあらたに臓器の移植を受けた方たちも10キロを走るのだ。どんなドラマを1人1人抱えて、今日ここまで命を見つめて来たのだろう。

 私は車椅子の部のスターターをさせてもらう。ドンとピストルを鳴らしてから、近くに止めてあった車ですぐにゴールの神宮競技場に向かったのだが、着いてちょっと手を洗っていたら、「もう先頭は入りましたよ」とあっさり言われて、あまりの早さにがっくり。向こうは車椅子とはいえ、競技用のスポーツカーの運転者なのだから当たり前なのだけれど……。

 視覚障害者の伴走は、今年も増田明美さんと有森裕子さんがしてくださる。よほど速くないと、盲人の伴走はお荷物になってしまう。

 任務を果たしてから、午後秘書課の星野さんと、イタリア・バドヴァ管弦楽団の演奏を聴きに上野に行った。アシュケナージさんは、自分でピアノを弾いて指揮をする。音楽と一体となった人の自由と歓びを感じる。今、日本財団にあるシュタインウェイのピアノを買う時、アシュケナージさんが自分で選びに行ってくださったというので、ほんとうはいつかお礼を言わなければならないのだが、帰りに楽屋にお寄りするのはやはり遠慮した。私はこう見えても、意外と人見知りをするのである。


5月21日

 日本財団へ出勤。執行理事会。

 お昼から日本文芸著作権保護同盟の総会。間をおいて2時から日本文芸家協会の総会にそれぞれ出席。どちらも東京会館で。私がさぼっているうちに、皆さんが意外なほど、論理的にことを運んでくださっている。申しわけなく、感謝の他なし、という感じ。


5月22日〜27日

 三戸浜。少し草取りなど。ブラシの木“真っ赤な花をつける。


5月28日

 正午に家を出て財団へ。雑用を果たしつつ、1時から読売新聞福島支局のインタビューを受ける。私の最初の土木小説『無名碑』の舞台が福島県の田子倉という雪の多い土地なのである。その後で、日本財団のホームページ用のインタビュー。国際部の報告を受けた後、4時半から毎日新聞学芸部の冠木雅夫氏と重里徹也氏が見えた。


5月29日

 11時、日本財団で評議員会。後ボランティア案件説明。午後1時半から3時半まで、面接試験。みんな優秀な人なのに、どうしてこうリクルート・スーツなるばからしいものを着るのだろう。来年からリクルート・スーツは着ないようにという条件を面接前に出したらどうだろう、などと考える。毎年のことなのだ。無難が第一、というのは、最もよくない心情。

 終って集英社の片柳治氏。書きかけの短篇連作小説『観月観世』を書き続けるようにおっしゃってくださる。私は短篇が書けると思うと今でも、愚かにも、心が躍る。


5月30日

 日本財団で、昨日に引き続き今日は理事会。

 いろいろな事情があって、会長の任期をもう1期3年務めることになる。心ならずも、という言葉が胸に来るが、いずれにせよ世間の大事でもないことだ。
 

「東京シティロードレース2002」都心のコースを6千人が快走  


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