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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 全元大統領との再会?日韓の未来見守る「仏顔」  
コラム名: 新地球巷談 11  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2002/06/24  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ(W杯)が開幕した直後の6月初め、韓国の全斗煥元大統領が故・斎藤英四郎元経団連会長の葬儀参列のため来日されました。その折、元大統領と旧交を温めることができました。元大統領は、私との関係を親しみを込めて「刎頸の友」といわれますが、実は22年間の交友で、お会いしたのは今回を含めて4度でしかありません。

 初めてお目にかかったのは1980年(昭和55年)、朴正煕大統領が暗殺され、政治的にも社会的にも混乱状態に陥った韓国で、49歳の清新な全斗煥少将が軍の実権を掌握し、大統領に就任する直前でした。父の故・笹川良一が体調を崩したため、急遽、名代として訪韓し、日本の民間人では初めて会談することになりました。

 2時間近い会談は、日韓関係の将来など夢多い内容のものでした。なかでも最も印象に残ったのは「韓国に民主主義を定着させるために、必ず一期7年で職を辞す」と『精悍な顔』できっぱり言われたことでした。

 朴大統領の「日韓関係正常化」を引き継ぎ安定させ、84年に韓国の元首として初めて来日、昭和天皇と会談されています。また、88年ソウル五輪誘致に成功するなど韓国の国際化に尽力した熱血の大統領でした。

 しかし、88年2月の退任後、一族の中から不正利得関与者が出たことから、国民への謝罪の意を表すために、休戦ライン近くの雪岳山にある百潭寺に夫人とともに2年間、「落郷蟄居」されます。私は、逆境にある人を励ましたいとの思いから、88年暮れ、肌着を携えて人里離れた山間の古寺を訪ねました。

 「電気もなければラジオもなく、昭和天皇の崩御も知りませんでした。日本の国民に衷心より弔意を申し上げたい」

 開口一番、元大統領はしんみりとおっしゃいました。厳寒の地の住まいは、すき間風を防ぐためビニールシートが張られ、とても大統領職を務めた人が住むような所ではありません。しかし、「ここに来た当初は夜中に目が覚め、怒りが込み上げてきましたが、読経三昧の日々を送るうちに、恨み、憎しみが消え去りました」と話す元大統領の顔は、熱心な仏教徒として『風雪に耐える苦行僧』のようでした。これが2回目でした。

 3回目は99年、韓国滞在中の私は元大統領の自宅に招待されました。その夜饗された食事は、家族総出で買い出しから調理までを分担したという文字通りの手料理。ゴルフ談義から始まった会話は、83年、公式訪問中のビルマ・ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のアウンサン廟で起きた北朝鮮工作員による全大統領爆殺未遂事件に及びました。元大統領は、近くヤンゴンに行くという私に、名代として多くの部下が死傷したアウンサン廟への献花を要請され、後日、私は「第12代韓国大統領」の代理献花を行いました。

 夜宴も終わりに近づいたころ、元大統領は突然、ほころんだ顔を引き締めて話されました。「われわれ2人は刎頸の友、心の友です」と。1度は国権を握りながら落郷蟄居し、さらに獄中で死を宣告されるという波瀾万丈の経験がもたらしたのでしょうか、この夜の元大統領は、私もいつかはそうなりたいと願っている心和む『慈顔』でした。

 古来、洋の東西を問わず、隣国と屈託のない関係を保ち続けた事例はありません。しかし、幸いなことに、このW杯を機に日韓両国の若い世代は蟠りなく交流をもち始めました。高校時代名ゴールキーパーとして鳴らした元大統領のW杯への思い入れはひとしおで、杯を重ねながら、若い世代の相互信頼の芽を育てるべく「翁の知恵を出し尽くすのが、ご奉公」と自問自答されていました。4度目の邂逅、71歳の『仏顔』が印象的でした。
 



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