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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ロシアの飛び地カリーニングラードで(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/07/09  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 昔の名前は「王様の山」 ≫

 あの“領土大国”ロシアは、国土の最西端のバルト海沿いに、小さな州を持っている。世界地図を開く。

 バルト海東岸のポーランドとバルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)との隙間に、クサビでも打ち込んだように、本国とは陸続きではない飛び地がある。日本の四国の面積にも満たないごくわずかな地がそれであり、ロシア共和国カリーニングラード州という。

 カリーニングラードの昔の名前は、ケーニッヒスベルグであった。

「ホウ。ケーニッヒスベルクに行くんですか。羨ましい限りです。あそこはプロイセン公国の発祥の地です。第2次大戦で、ソ連に占領されるまでは、ドイツ領でした。ケーニッヒとは、ドイツ語で王様という意味、ベルグは山のことです。あそこは平地なのに、どうして地名に山がついていたのか不思議です」

 出発前、プロイセンの歴史地図を貸してくれた日本財団特別顧問、村田良平さんにそう言われた。村田さんは駐米大使と駐独大使を歴任した元外交官で、ドイッチェ・シューレ(ドイツ学派)の大御所である。

 2002年3月の末、モスクワのシェレメチェボ第1空港(国内線専用)から、ツボレフの双発機、TU134に乗り込んだ。同伴者は、元ソ連科学アカデミー付属マルクス・レーニン研究所員、ゲオルギュー・ユーリさんだ。「ロシア語以外ではドイツ語がわかる人間はいるが、英語がわかる人間はまずいない」。そう聞かされてお願いした通訳である。

 この人は74歳。ソ連時代3年、日本に滞在した日本学者で、ゾルゲ研究家でもある。「サキサカ(向坂)の社会主義協会と親しかった。社会主義への平和的移行についてよく討論した」という。「資本主義への平和的移行の間違いじゃないの」。そう茶々を入れようと思ったが、老マルキストに敬意を表して思いとどまった。

 機内サービスで出してくれたとびきりウマイ、ウオッカ、「ルスキー・スタンダード」(ユーリさんの話ではこの銘柄は大衆品の3倍するという)をチビチビやってるうちに、飛行機は、リトアニア共和国のヴィルニュス、そしてカルナスの上空を通過、カリーニングラード空港へ。

 モスクワから2時間半、海が近いせいかまだ3月だというのに暖かい。コートは不用だ。ロシア共和国の保有するバルト海でたったひとつの不凍港である港湾都市だけのことはある。ここは、ロシア海軍、バルチック艦隊の根拠地でもある。

「私は1985年に1度来たことがある。軍事都市だったので、特別の許可証が必要だった。ここに西側の外国人が入れるようになったのは、ソ連邦が崩壊した1992年以降のことだ」

 ユーリさんが訪れた頃は、ここは飛び地ではなかった。いまはそれぞれ独立したバルト三国は当時いずれもソ連邦の一員であり、この都市は、ソ連という超大国の中の、モスクワとは地続きの対西側防衛の拠点都市だったのだ。


≪ 古きを訪ねるドイツ人 ≫

 空港から舗装の悪い並木道をタクシーで市内へ。「これはドイツ風の並木道だ」とユーリさんは言う。私には、ポプラと樫の木が交互にあるただの並木道なのだが、「ドイツ人は並木道が好きだ。ドイツ人が作ったんだから、ドイツ風なんだ」と彼は言い張る。並木の外側は、春播きの小麦畑だった。

「いいかね。ここは13世紀から1945年4月までは、ドイツの国土だった。ここに赤軍が侵攻し、ドイツの守備隊との間に大激戦が展開された。ヒットラーのひきいるナチスドイツ壊滅の2カ月前のことだ。双方で十数万の死傷者を出した。生き残りのドイツ人はシベリア送りになった。2年後には、ドイツに全員送還されたけどね。そして住民はすべてソ連人に入れ替えられ、ロシアの領土になったのさ」。ユーリさんの講義である。そして、カリーニングラードと命名された。

「カリーニンの都市か? その男偉かったのかい」

「いや、レーニンの子分の1人だった。ただね、レーニンの死後、彼は後継者にスターリンを推挙した。生前のレーニンはスターリンの資質に若干の危倶を抱いていたんだがね…」

 ケーニッヒスベルグを新しい領土に組み込んだスターリンが、その御礼の意味を込めて「カリーニングラード」と名づけたのだという。「レニングラード」、「スターリングラード」は、ソ連社会主義崩壊以降、それぞれ「聖ペテルスブルグ」「ボルゴグラード」と昔の名前に復帰したが、ここだけは昔のドイツ名に戻すわけにもいかないのだろう。

 年間5万から7万人のドイツ人がツアーを組んで、この地にやってくる。古き良きプロイセンの昔を訪ねる郷愁の旅だ。

「今では市内に、ドイツ名の道路や建物はない。キリール文字(ロシア語のアルファベット)がわからなかったら、地図も読めんよ。それでもドイツ人たちは、ガイドを雇って市内見物に熱心だ。ドイツ人は、町のあちこちにお金を沢山注ぎ込んで戦争で破壊された歴史的名所の復旧に励んでる。なに? ロシア人はどうしているかって…。金は出さんよ。この州の住民は中世のプロシャなんて興味ないからね」と、ユーリさん。

 中世のプロシャにも多少の興味のある私にとっては、念の為に持参した英語の旅行案内書「スカンディナビアとバルト欧州」が役に立った。

 1255年、ドイツ騎士団修道会が、この地にやってきて、スラブ系先住民「プロイセン」を武力で制圧、この町に城を築くかたわら、キリスト教の布教に務めた。その後、この地は、「プロイセン公」と称するドイツ貴族の公国となったと書かれている。州の人口93万人、すべてが旧ソ連で、ドイツ系は人口の0.3%しかいないという。ユーリさんと町を散策する。日本の初期の公団アパート風の味も素っ気もない建築が、ロシアに代替わりしてからのもので、ところどころに赤レンガのしっとりとした感じの建物が混在している。こちらは、ドイツ時代のものだ。何ともチグハグな風景だ。ドイツ時代の軌道の上に、ロシア製の市街電車が走っている。

 南北にレーニンスキーという大通りが走っている。一番の目抜き通りだ。この通りをバルトの海に注ぐプレゴルバ川が直角に横切っている。500メートル四方はある川の巨大な中洲に赤レンガのゴシック建築の大聖堂がそびえていた。通称、ゴシック・ドーム、1333年、ドイツ、カトリック騎士団が建立したものだ。このあたりも独ソ戦の市街戦の現場で、高さ40メートルの建物には、いまだに砲弾の跡が生々しく残っていた。荒れるがままになっていたが、ドイツのカネで修復が始まっていたドームの最上階には、カント博物館がこれまたドイツのカネで開館、教会の裏にはカントの墓があった。


≪ カントの墓前での会話 ≫

 ドイツの哲学者イマニエル・カント(1724〜1804年)は、「ケーニッヒスベルグで生れ、育ち、そして死んだ」と墓銘碑に刻まれていた。カントはここの大学で「純粋理性批判」を書いた。「カリーニングラードヘの移住者であるロシア人は、カントには関心を持たないよ」。ユーリさんがそう言った。「やっぱり同じドイツの哲学者でも弁証法のへーゲルの方が人気があるのかね」。「いや、そういう意味じゃない。この州は新開地で、戦後、ロシア各地から一旗あげようとやってきた人たちだ。もともと哲学とか形而上学には縁が薄いんだから、ここの人は国籍はロシア人であっても、文化的にはロシア人でないとも言える」。

 カントの墓前で、元マルクス主義学者とかわした会話である。ゴシック・ドームと川を隔てた南側に、酒落た建物が目についた。「ソ連製ではないよね」。「そう。1870年、ドイツが建てた証券取引所だ。今ではバルチック艦隊の将校用海軍クラブになっている。この州はロシアの経済特区になっており、モスクワから輸出入の関税を大幅に免除されている。しかしこれといった産業もなく、エネルギーや食糧の供給を本国から受けている。免税のおかげで外国との商売が本国より、多少有利になってはいるが、こんな立派な証券取引所を持てるほど、この州の経済は豊かでない」。ユーリさんの説だ。

 英語の案内書にあるプロイセン公国発祥の地であるドイツ騎士団の城跡を2人で探し歩いた。「ドイツ騎士団」といってもわかるロシア人はまずいない。カントの墓から川を隔てて、目と鼻の先にあった「Dom Sovietov」(ソビエトの家)がそれであることが、やっとわかったのだ。1967年、この由緒ある城跡のレンガの構築物は、ソ連当局の手でダイナマイトで爆破され、代わりに巨大なH型の醜いソビエトの家を着工した。ところが、財政難で建設途中で放棄、そのうち地盤が少しずつ沈下し、無惨な姿をさらしていた。「王様の山」(ケーニッヒスベルグ)のなれの果てである。この話ドイッチェ・シューレが聞いたら、嘆くことだろう。
 



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