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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ヘルマフロディトスの像  
コラム名: 昼寝するお化け 254  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2002/06/28  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   ローマのボルゲーゼ美術館は、こぢんまりした規模だが、建物自体も繊細であでやかだし、ナポレオンの妹だというパウリーナの像など端正な作品も並んでいて私の大好きな美術館の1つである。昔ここを訪れた時、1つの彫像が私の心に深く残った。

 それは横たわった大理石の彫像で、「ヘルマフロディトスの像」だと説明には書いてあった。ヘルマフロディトスという意味がわからなくて、私は英語の教師だった夫に質問すると、それは両性具有のことだと教えてくれた。

 大理石の彫像は私たちに背中しか見られないような位置に置かれていた。興味津々で、私は無理に隙間から像の前面を覗いてみた。

 ヘルマフロディトスは、ギリシャ神話の神の名前ではあるが、純粋に名前だけとも言えない。それはヘルメスとアフロディテの合わさった人格を有する、という意味でヘルマフロディトスなのである。

 紀元前4世紀の彫刻では、ヘルマフロディトスは乳房を有する美青年として登場し、その後の時代になると、男性の性器を持った女として表されるようになった。

 今の人たちはヘルメス(HERMES)といえば、ハンドバッグやスカーフの銘柄だとしか思っていないが、ギリシャ神話では、ヘルメスは、富と幸運の保護者である。商売、窃盗、賭博、競技において成功するにはどうしてもヘルメスの助けが必要だった。彼は竪琴、アルファベット、数、天文、音楽、度量衡の発明者だということになっている。

 一方アフロディテは愛と美と豊穣の女神であった。

 この両者がいっしょになれば、どれほど完壁な快楽を自足できるか、と考えたのかもしれないが、現実には両性具有という人がいたら、それは決して幸せではないのである。そして無粋なイタリアの美術館は、このヘルマフロディトスの特徴をみせる乳房も性器も見えないように、像を壁に押しつけておいていたのがおかしい。

 こうした問題に関連して思い出すのは、性同一性障害と呼ばれるもので、自分の現実の性を、認識の上での性と一致させることがさまざまな形でできない心理的な不都合に悩むことである。

 私はこの障害について語るだけの充分な知識をまだ得ていないのだが、先日、女性として登録されていた1人の競艇選手が、長い間悩んだ末、男性選手として再出発することを決断した。密かに悩むことなく、こうして新しい人生を選んだことを、私は祝福したい思いだったが、先頃、財団法人日本女性学習財団が発行した『新子育て支援 未来を育てる基本のき』という冊子では「子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか」と問いかけているという。

 こういう思想を「ジェンダーフリー」といい、子供に男らしさや女らしさを取り入れる親は、「ジェンダー・バイアス(性に対する偏見)」に捕らわれた人と見なしているのだそうだ。

 中性とか、両性具有とかいうものは、つまりその不安定さにおいてその人にとっては、深い苦しみになっている。いかなる人間といえども、私たちはまず自分の立っている地点を安定させなければならない。男か女か、若者か中年か老人か。何国人か。それらがはっきりしなければ、普通の人間は心の安定を得られないのである。

 ジェンダーフリーがいいのなら、何かの事故の結果、突発的に自分の過去を忘れてしまう人は最高に幸せということになる。その人は、自分がどんな家庭に育ち、どんな教育を受け、どんな犯罪を犯したか、自分がどんな人に恋愛したか失恋したか、すべて忘れていていいのだ。

 しかしほとんどの人が、そのような「自由」を評価しない。当人がまず苦しむから、周囲もその人を病人とみなし、彼がどこで生れ、どのような生活をしていたかという歴史を取り戻させるように努力する。

 男性なら男性、女性なら女性に生れたことは大きな意味があり、それを認識してこそ私たちは初めて自然に人間になり得るのである。

 私は実はかなりフェミニストで「女性のための講演会」には決して行かない。なぜ、女性だけの講演会にしなければならないのか。結果的に講演会を聞きに来た人の9割が女性だということはあるだろう。しかし最初から女性だけ、とするのは「完全な差別だ」と私は感じるのである。なぜなら現実問題として、女性だけでなければならない会合というものは非常に少ない。

 あらゆるものは、自然な必然で決まる男女比は別として、どちらもいた方がいい。その方がつまり自然なのである。

 この冊子では女の子の雛祭りや赤いランドセルも、性差別の1つとなっているという。確かに私のランドセルは、小学校時代一貫して黒だった。しかしそれは性差別がなかったからではなく、白いブラウスと紺サージの制服には、黒のランドセルの方が上品に見えるという美的な選択の結果であった。

 男の子に強くあれ、というのは、いわば人間の自然であろう。それは押しつけるものではなく、男の子の多くが自然に格闘技を好んだり、女の子よりたくさん食べたりするものだからである。

 私は「地球人」という言葉も発想も好きではない。なぜかというと、そのような人は、あり得ないからだ。現在地球上には、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイド、の3つの大きな人種的な区別があり、私たち日本人はモンゴロイドとして生れたから赤ん坊の時にもお尻に青いアザがあった。確かに混血の人はいくらでもいて、一見何人かわからないこともあるのだが、それはただ混合の具合が判然としないだけであって、完全に別の人種ができたわけではない。

 いかなる人も、どこかの主権国家の庇護と統制のもとにある。地球はただ人間に原料や場を提供するだけで、人工的な制度を提供するものではない。制度は国家か特定の集団が与えるのである。そして制度なしには、私たちはターザンの生活をするより他はない。

 私たちはどこにも住まない、ということができない以上、必然的に住んでいる土地に帰属する。

 同じように私たちは人として、常に何かに帰属する。国籍も性も、どこかに帰属しなければ非常な不便を忍ぶことになる。国籍がなければ旅行の自由がない。かつて私は小説の中で「超女性」と呼ばれる染色体異常のケースを取り上げたことがあるが、このような人は、外見上は普通の女性よりはるかに女性的に見えるというが、子供を生むことはできない。

 もちろん惰弱な男もいるし、勇猛果敢な女性もいる。それらはすべて人として平凡に存在した後での自由な選択なのである。
 



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