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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 人生は聖なるもの  
コラム名: 私日記 第31回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年4月1日

 夕方笹川陽平理事長のお宅で、フジモリ前ペルー大統領とご子息のヒロさん、お妹さんのローサさんと、ご主人のアリトミ氏と私たち夫婦と2人の秘書が夕食にお招かれする。

 笹川さんは、大統領辞任後のさまざまな複雑な問題が錯綜していた時、よく政治問題を全く離れて「いっしょに飲んで」あげてくださっていた。私が全くできないいい友情だった。ペルーの日本大使公邸にゲリラがたてこもった事件の解決の時、22人もの日本人が1人も命を失うことなく帰国したことに対してフジモリ氏に感謝を示す、ということにおいて迷うことはないと思っている。そして私の働く海外邦人宣教者活動援助後援会はペルーが現政権になっても、支援を止めたことはない。

 笹川家でおいしいお鮨をごちそうになって、政治の話なんか世間話の程度。


4月2日

 9時半、日本財団で電光掲示板原稿選定ミーティング。

 10時20分、赤坂警察から感謝状の伝達を受けた。昨年アフガニスタン侵攻以来、一軒おいてお隣のアメリカ大使館に対する機動隊の防備が増えた。寒い時にトイレが自由に使えないことほど辛いことはないだろう、と思い、私はすぐ警視庁に電話して、財団のトイレを8個、よろしかったら機動隊専用としてお使いください、と申し入れた。

 休息室には暖房はあるが、ご接待をするとまた官民接待などとマスコミに書かれてお互いに迷惑だ。だから設備したのは、熱い渋茶がいつでも飲めるようにすることだけだった。それでも、重い雨具を脱げてほっとした、と感謝して頂けた。相手が警察であろうとなかろうと、これは人間の問題だ。政治問題にせよ、外務省の問題にせよ、人間としての反応を失って制度で糊塗しようとすると、本質がわからなくなる、と思う。

 午前中、新年度の年頭挨拶。その中で、財団会長をやめさせてもらうよう伝えてあることを公表した。ただし、私のような者が、1人の「都合」と「筋」だけを通そうとして、幼稚な反応になるのも困りますから、とつけ加えた。間もなく在任6年半になる。その間、連載を一度も休載していない。くだらない意地の結果である。

 午後、雑用ぎっしり。

 夜は、私の家で海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。カメルーンのスティンジ校、ネパールのバンディプール村幼稚園の両校に対する経済支援。ブラジルの母子家庭の村に対する先生の給料など。フィリピン・ネグロス島の貧困層の子供たちへの学費などで、530万円を決定。しかしインド、バンガロールの不可触民の子供たちの寄宿舎建設の予算に関しては、設計ミスとかでさらに550万円の追加要求があったので、これは否決。「何でも言えば、日本人はお金持ちだから尻ぬぐいくらいするだろう」という空気ができると困る、という判断。


4月3日

 日本カトリック会館で、カトリック教会提供番組「心のともしび」の録画撮り。今年30年目の活動に入っている海外邦人宣教者活動援助後援会について。

 夫は私に、結婚してすぐ「いいことなんかするな」と言った。説明するのがむずかしいのだが、人助け、人道主義的運動、すべて信念なんぞもってやると羞恥心が稀薄になり、趣味が悪いことになるからやるな、ということである。それにもかかわらず、海外で実際に働くカトリックのシスターや神父たちの運動を助けるお金は年々集まって来る。お金がある以上、私は財布の紐をしっかりと締めて、ほんとうに必要な所にだけ確実に届けねばならない。それが現状。しかし年間1億5000万円近く寄せられるお金は、すべて個人からの寄付。会社の寄付は全くない。もちろん国民の税金を使う政府のお金や、郵政省の「ボランティア貯金」を受けたこともないし、働く私たちの電車賃も、事務所費もすべて委員の「持ち出し」である。必要経費から差し引いていないから、寄付は全額援助に廻せる。

 海外邦人宣教者活動援助後援会が続く理由の95パーセントまでは、危険を承知で海外の奥地で働く神父や修道女がおられるからだ。私たちから送ったお金は自ら管理し、その国の政治家に渡したりせず自分で支払い、壊れた機械は執念で直し、1、2年でその土地を引き揚げたり、今世間で注目を集めているたとえばアフガニスタンのような土地に援助の目標をおくこともない。飢餓や貧困は、地球上どこにでもあるのだ。私たちの組織は確実なお金の使い手があるから続いている。

 夜、赤坂プリンスホテルで、中部労災病院院長・堀田饒(にぎし)先生と対談。


4月4日

 午前中、マッサージを受ける。数年前に足を骨折してから、足の裏にできるようになったマメはこりの一種で、もみほぐせばなおる、というおもしろい発見をした。

 午後4時半、ホテル海洋で日本財団が今年も受け入れた100人の中国医学生の歓迎式典。ホテル海洋は、バリアフリーの部屋を4部屋作ってあるから、障害者参加のグループ旅行にはぜひ使ってほしいと思う。会の途中でアメリカから来た友人とお鮨を食べて帰宅。


4月5日

 名古屋の南山大学へ、公開講座の講演をしに行く。時あたかも新学期。キャンパス中が新入生を部活に誘う勧誘活動の最中。平和な時代に若さを使い切ることのできる世代を羨ましいと思うべきなのだが、私は今のほうがおもしろいように思う。若さは未熟、と思うせいかもしれない。


4月6日

 チャドの首都・ヌジャメナで活躍中だった「ショファイユの幼きイエズス修道会」のシスター・永瀬小夜子さん急死の報を受ける。その覚悟で生きてこられたのではあろうが、遺体は現地に埋葬する由。みごとな生涯だった。NGOの活動というものは、本当はこうした覚悟の生き方を言うのだ。


4月7日

 グランドパレス社長・河村澄夫氏と治子夫人の間の1人息子・英晶さんの結婚式。かねがね親孝行息子だと思って感心していたが、いいお嫁さんが来て下さってほんとうによかった。それにしてもこのごろの結婚式の手際のよさにはほんとうにびっくりする。昔は友達など素人が寄ってたかって成り行き次第、という感じだったが、お客の目の前でロースト・ビーフを切りわけ、お代わりもどうぞなさってください、という配慮まであっても進行状態は狂わない。日本人の特技か。


4月9日

 1日、日本財団で執務。執行理事会、お客さま、の他、河出書房の太田美穂さん。雑誌『Forbes』の新しい連載のための写真撮影も。ボランティア支援部からの報告も受ける。


4月10日

 ホテル海洋で新年度の大きな催しを行う日。ほんとうの目的は、新しく補助金を受ける団体のうち、関東地区など近隣の方だけをご招待して懇親会をすることである。

 その前に新聞・雑誌記者の方たちに対する報告がある。出席は83人。どこの何という団体にいくらお金を出したか、ということをすべて書いたパンフレットを配る。さらにそのことに関してもっと突っ込んだ質問があれば詳しく答えられる人員を揃えている。

 それが終わってから、来賓の方たちに私がご報告代わりに短い講演をすることになっている。自称「去年一年のグチ話」。裏側で何があったか、できるだけ女々しく愚痴っぽく、何もかも話してしまおうという、体裁よく言えば情報公開のつもりなのだが、グチ話があまり長くなってもお聞き苦しかろう、と20分きっかりで切り上げたら、「さぼって短い」と文句を言われた。年寄りの場合、話が長くなったらボケた証拠なんですけど。


4月11日

 歌舞伎座の夕の部。

 勘九郎と玉三郎の『ぢいさんばあさん』。いい芝居である。何十年も離れ離れに生きることになった夫婦が、再会する話である。原作は森鷗外、作・演出が宇野信夫。

 私も昔愛し合っていた2人が、老年になって会う話を書きたいと思ってはいる。私は今までに失恋の話を3作書いた。老年で再会するかつての2人を書けばそれが4作目、それで終わり、にするつもりだけれど、としきりに自分の作品のことを考えながら見ていた。


4月12日〜15日

 三戸浜。

 ソラマメを採って食べる。こんなことをソラゾラしく日記に書くのもはずかしいけれど、採りたてのソラマメほどおいしいものはない。茄で過ぎるのを警戒するだけ。普通なら6月に収穫するはずのソラマメが今年は、早く種を蒔いたので、早場野菜みたいに採れる。

 しかしソラマメを食べて遊んでいるわけにもいかない。17日に出発予定の身障者・高齢者もいっしょのギリシャ旅行に行くためには、原稿の書きだめもいる。必死で書いて、校正刷りまで見てから発ちたい。いつもこうだから、出発前にかなり疲れている。

 今回ギリシャヘ行くようになったのは、もちろんイスラエルが戦乱で入れなくなったためだが、初代教会を築いたパウロの宣教の地の半分はギリシャだったからだ。

 パウロの苦難を思えば大したことはないのだが、この出発の前日になって、飛行機の時間が2度変更になった。計画の段階からすると、何度変わったことか。飛行機でギリシャのテサロニケにまで行けるところが、乗れなくてバスになった。グループそのものも、二手に分かれて、パリ経由組と、ローマ経由組と別々。すべて去年9月11日の同時多発テロ以来の変化。

 我が家の近くの三井住友銀行で、ユーロを買おうとしたら、「うちではユーロは扱っていません。空港でお買いください」とのこと。銀行というものは一体何のサービスをしているつもりなのだろう。この金利の安さで……。


4月17日

 夕方4時頃の出発のはずで、午後1時頃、成田空港で、ローマ組が集まる。半分がリピーターの感じ。だから新しく参加して下さった方が遠慮されないようにしなければならない。今年は車椅子4台。視覚障害者は5、6人。60代で健康な方たちは、ほとんど何かのボランティアの仕事に加わってくださるだろう。

 遅れた予定が更に遅れる。強風のために使用飛行機が羽田に降りてしまって、成田に来ない、という。連載のエッセイ1回分をロビーで書いて出版社に送った。これでローマやテサロニケの宿から、ファックス1回分を送るのに、いらいらしなくて済む。私はEメールを使っていない。Eメールの「窓口」を開くといろいろ辛いことが起きる。

 飛行機の中でジョン・コーンウェル著『バチカン・ミステリー』を読む。たった33日間だけローマ教皇の座にあった後急死したヨハネ・パウロ1世に関する疑惑を解いていくものだという。私の読み方は極めて不純。登場人物の、ナヴァロ・ヴァルス通信局長官、カサローリ国務長官、ベネリ枢機卿、マルチンクス大司教などという人々と「ご挨拶」をしたことがあるからだ。そうした人々が登場するドラマは信ぜずに楽しむことができる。どの世界も現実を深く見れば、辛いむずかしいことだらけ。

 午前2時すぎ、ローマ着。気温14度。明朝のアテネ行きが早いので、宿と空港を行って帰るだけではないか、という案もあったが、たとえ2時間ほどにしても、横になったり、お風呂に入ったりできる、というのでホテルに行くことにした。確かにお風呂に入り、歯を磨いただけで、ずいぶんすっきりした気分になった。


4月18日

 まだ暗いうちにホテルを出て、バスが走り出すと、男が道の中心の白線を引く作業をしていた。こういう作業とゴミ出しは夜間行うとのこと。イタリア人もよく働くものだ。

 アテネヘ着いてからすぐバスで、テサロニケヘ。長い5時間の旅。よく聞いてみると、オリンピック航空がストをしているから航空機で目的地に入れなくなったのだという。

 それにしてもこの長い旅程は、高齢者が多いグループには少し無理がある。テサロニケのマケドニア・パレス・ホテルは、海辺の遊歩道に面していた。

 今度の旅には、一番小さくて軽い聖書を持って来た。『テサロニケの信徒への手紙2』の2章には、素朴でひたむきなパウロの訴えかけが記録されていて、奇妙に心に残る。

「わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。(中略)自分で得たパンを食べるように、おちついて仕事をしなさい」

 この言葉は今の日本でも全く古びることなく、ぎくっとするような命を持っている。


4月19日

 テサロニケという町は、テッサリアの勝利、という意味。紀元前、4世紀からあった。ここでは、今でもアレクサンドロス大王がつい昨日まで生きていた人のように感じられる。

 今度、教えられたのは、パウロが初代教会を建てたのは、すべて交通と商業の要点に存在していた町であったということだ。そしてまたアレクサンドロスの父であったフィリポス2世が年間60トンもの金を生産するパイガイア金山を手に入れて、富力によって兵力も整備し、版図を拡げた地域でもあった。だからパウロは、パックス・ロマーナ(ローマ法が施行されている地域)を布教地として選んだのである。ローマの市民権を持つパウロの、現実的な賢い計算の表れであろう。

 パウロの道は、ほとんどアレクサンドロス大王の道と重なっているのだという。ローマも征服しながら軍用道路を作り続けた。その当時のエグナティア街道の敷石がまだ谷底に一部残っていて見られたことに私は感動した。今ふうに言えば、ほとんど1車線しかない道幅だが、町に入ると2車線になる、という近代的設計である。舗装は不規則な敷石で、ローマ軍が通る時には、一般人は遠のけられた。エグナティアとは、総督の名である。

 同行の鷲田小彌太教授は自著の中で「アレクサンドロス」と書いたら、編集者に「アレキサンダー」と直されたという。日本の辞典類はアレクサンダーだそうだが、言うまでもなくこれは英語読みで、明らかにアレクサンドロスの方が正しい。


4月21日

 今日はメテオラの山頂の修道会群を訪ねる。

 山は奇怪な岩山である。恰好は何に似ているかと言われれば、カリントウだと夫は言う。さまざなまひん曲り方をした巨大カリントウをおっ立てたような岩山の土に、岩山の頭の面積いっぱいに建てた修道院があって、そのうち2つの男子修道院と、1つの女子修道院が、一般に開放されている。紀元2世紀に上エジプトにできた隠修士の暮らしとそっくりで、あえて現世の便利を拒む生き方である。

 もちろん今でも電灯はない。電気があるのは、観光客に開放している修道院だけ、トイレや売店のために必要な電力を恐らく発電機でまかなっているのだ。昔から荷物を運び上げるための網を上げ下ろしした滑車が、今も断崖の上に突きだしているのが見える。

「かなり階段がありますから、車椅子の方はバスにお残りください」と言われて、初めての私はそのきつさが想像できないので、言われるままにしたが、車椅子だけ残すというの
は、私たちの旅行の伝統ではない。上がりながら数えたら、階段は100段前後。自分が担ぎ上げるわけではないので、ほんとうに申し訳ないとは思うが、せっかくそのために来てくれているボランテイアの人たちに計ると、「やりましょう」と張り切ってくれた。

 14、5分で、髪からシャツからずぶ濡れになりながら、4台を担ぎ上げてくれた。外は寒いのだが……。一番若い室井康希君は高校1年生。康ちゃんは、今度の旅の中で、この体験がやはり一番すばらしかったそうだ。

 私は入り口で再度入場することになる車椅子隊のための入場料の心配をしてガイドさんに立っていてもらったが、後で聞くと、入り口にいた無愛想な青年は感激して、こんなすばらしい人たちから入場料なんか取れるか、と言った由。


4月22日

 メテオラから、5時間近くかけてアテネヘ。テッサリア平原を見るのは楽しいが、この行程も、体にむくみの出る人たちにとっては、かなりきつい。アテネ空港から、飛行機でクレタのイラクリオンに飛ぶ。

 途中でおもしろい知識を得た。

 オリーヴは通常8キロの実から1キロの油がとれる。上等なものは、6キロで1キロの油が搾れる。

今でもギリシャ人たちは、イスタンブールとは言わず、コンスタンチノポリスと呼ぶ。イスタンブールから来た人は自分のことを「私はポリスの出身です」と言うのだそうな。


4月23日、24日

 天気ずっと寒い。泳ぐつもりで水着を持って来た人たちは、裏切られてかわいそう。けれど、旅には裏切りがつきもの。その代わり、旅は思いがけない贈り物も個人的に密かに用意するものだ。

 ホテルで執筆。この旅が終わってから、南アに廻るので、ヨーロッパにいる間に原稿をかなり書かねばならない。食事は玄米がゆにお湯を注いで、袋入りのおかずと食べた。胃が休まっていい。


4月25日

 早朝の飛行機でアテネに戻り、そのままカトリックのハギオス・ディオニシオス教会に行く。フランス語で言うとサン・ドニ教会。

 そこで康希君のお母さんの室井みよ子さんの洗礼式。堂守の青年が、巨大な重い銀の洗礼盤の蓋を開けて洗礼式を手伝ってくれた。

 誰一人として着飾っている人もいないけれど、すばらしい洗礼式。だれもがその人だけに与えられた長い年月を、神に見守られて生きて行く。その意味で、人生は「聖なるもの」だと思うようになった。
 

中国医学生の歓迎式典について  


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