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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 セルビア&モンテネグロ(3)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/05/28  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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山と海の小国“ツルナゴーラ”
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≪ 1杯のエスプレッソは1マルク ≫

 冒頭のタイトル「ツルナゴーラ」とは、モンテネグロ共和国の現地語による正式名称である。黒い山という意味、これを中世イタリアのベネチア人が、ラテン語に訳して「モンテネグロ」と呼んだのが始まりだ。「モンテ」が山、「ネグロ」が黒である。

 私がこの国を訪れた2001年5月には、隣のセルビア共和国とともに、ユーゴスラビア連邦を形成していた。だが、今年6月から連邦をやめて、「セルビア・モンテネグロ共和国連合」となる。ひとつの家に同居しているのに、それぞれ、別の苗字の表札を出すようなものだが、これは近い将来の“離婚”(モンテネグロの独立)の準備とみなされている。

 セルビアとモンテネグロは、地理学的にいうと、まったくの別世界だ。セルビアは、山と平野からなり豊かな農地がある。モンテネグロは、険しい山岳と、海からなり、平野と呼べるほどの広さをもつ平地はない。そのかわり、アメリカのグランドキャニオンに次ぐ世界第2の長さをもつモラサ・タラ峡谷や、アドリア海のダーク・ブルーの海岸がある。

 ユーゴの首都、ベオグラードから飛行機で1時間も飛んだら、モンテネグロの最大の都市ポドゴリツァに着いた。この国の首都である。最大とはいえ、この共和国の総人口が62万人で、ここは人口16万人の小ぢんまりとした首都だった。

「ポドゴリツァとは、山の下の町という意味です。山々の間の狭い高地の小さな都市です。日本でいえば水と空気のきれいな長野県の小都市を連想してもらえばいい」。通訳として同行してくれた山崎ひろしベオグラード大教授が教えてくれた。この“山下町”、ソ連が崩壊するまでは「チトーグラード」と呼ばれていたが、10年前から昔の名前に戻ったのだという。

 町を散策する。針葉樹のうっそうと茂る“黒い山”から流れる渓谷が、市中を何本か横切っている。コバルト色の水の流れは速く、岩に砕けて散るしぶきが冷たい。このあたりから、地中海性気候の圏内に入るそうで、中央ヨーロッパの内陸性気候のセルビアとは、風土を異にしている。黒松と杉の林が多い。ブドウ畑もあるとのことで、赤ワインにいいものがあるという。

 山崎さんの指摘の通り、この町はベオグラードとは雰囲気が異なるのは確かだ。だが、私にとってはそれは自然が形成する風土の違い以上に、人間の営む文化の違いに由来するように思えた。同じ連邦でも違う土地にやってきた??のを実感したのは、この国の文字と通貨だった。この国の言葉は同じセルビア語なのに、使用文字は、ロシア語のアルファベットのキリールではなくローマ字であることに、気づいたのだ。

 ハングル文字が、突如として仮名文字になったようなもので、わからないなりにも親しみがもてる。銀行で、ドルを、ディナール(ユーゴの共通通貨)に替えようとしたら、ドイツ・マルクを勧められた。ベオグラードの銀行では考えられないことだ。このお札を使って街角のテラスで、コーヒーを飲んだら、エスプレッソ1杯、1マルク(約65円)だった。

 山間の曲がりくねった舗装道路をマイクロバスで縫うように走ること3時間、人口2万人のモンテネグロの古都、ツェティーネに入った。ユーゴスラビアの日本語の旅行案内書などは皆無だから、頼りはもっぱら英語の「LONELY・PLANET」の東欧編だった。


≪ 山岳国家の古都を訪ねる ≫

「第2次大戦中、山の民モンテネグロは、チトーの率いる対ナチス軍バルチザンに参加、勇猛果敢に闘った。その結果、戦後ユーゴスラビアの一共和国と認知された。1946年、首都をツェティーネからポドゴリツァに移し、チトーグラードと改名された。ポドゴリツァはモダン都市で、旅人の興味をそそるような場所はない」。この案内書にそう書いてある。言われてみればその通りで、首都での用件を早々に済ませ、この由緒ある古都に移動したのだ。

 中世のバルカン諸国は、半島を北上してきたオスマン・トルコによって4世紀の間、占領された。しかし、このツェティーネを都とする山岳国家、モンテネグロは唯一の例外として、トルコ軍の侵入を食い止め、独立を死守した歴史を持つ。ここに到達する道中は、山また山、段々畠が時折、展開するが、あとは原生林で昼間もなお暗い。「こんなところ誰も攻めて来る奴はいない」と思っているうちに山上の古都に着いた。王宮と呼ぶには、あまりにも小さく、質素な元王宮の建物が博物館になっていた。

「自然の要塞が、古都をトルコ軍の攻略から守ったのは確かです。でもそれだけではなく、モンテネグロの山の部族は、白兵戦が強い。男たちは戦いのないときは、酒を酌み交わし、一弦琴の弾き語りで、英雄の叙事詩を互いに朗読する。私たちの国は、武を尊ぶ“サムライ”です」われわれ一行が日本人だと知って博物館の中年の学芸員女史がそう言った。

 この女性、博士号を持っているそうだが、たんなる物識りではなく、見学客を逸らさない話術の持ち主だった。

「この女博士さん、日本人の珍客が来たので張り切ってますよ。彼女、モンテネグロと日本は、日露戦争当時の講和条約がいまだ締結されてない??と言ってます」。通訳の山崎さんがそう言うのだ。「エッ、冗談言ってるんでしょ」。「いいえ。本当の話ですって」。

 彼女の説はこうであった。日露戦争当時、モンテネグロ公国はロシアと同盟を結んでいた。そこで1904年(明治37年)、この国は同盟のよしみをもって日露戦争に参戦、兵を満州に送った。今風に言うと集団的自衛権の行使だ。

 日露は、米国のポーツマスで講和条約を結んだが、ロシアも日本もモンテネグロの同盟軍を無視し、なんの呼びかけもなかった。だから、国際法上、日本とモンテネグロは、交戦状態が続いていると。


≪ モンテネグロの十戒 ≫

 この質素な王宮は、1926年から博物館に転用されている。資料のケースには、日本の勲章や、外交文書らしきものも展示されていた。「日本に帰ったら、外務省の人に平和条約結びましょうと伝えて下さい。お互いにサムライの国なんだから…」半分真顔でそう言った。

 この地は標高800メートル、山に囲まれたスリ鉢状の盆地だ。周囲の山々の組成は石灰石なので、雨が降り続くと、伏流水が地上にあふれ洪水になるという。

 この高原の町には、旧王宮の他に正教の修道院や旧大使館街がある。元イタリア大使館が一番大きな建物だった。

 20キロほど離れたところに霊峰と呼ばれるロブセン山(1749メートル)があり、頂上に16世紀のこの国の中興の祖、ペトロヴィッチ、ニェゴス公の墓がある。聖職者兼詩人だったそうで、山の民としての質実剛健、英雄と武を好む気風は、この頃から養い育てられた部族特有の文化だという。

 大使館街の広場で子供たちがサッカーをやっていた。「ホンコン人ですか?」。小学校6年生の子が、英語で質問してきた。日本人を見るのは初めてなのだろう。どうして香港人なのか、それを説明するには、この子の英語力は及ばない。この国は小学校の高学年から英語を教科にとり入れているとのことだ。

 山の古都から30キロも西に向かうとアドリア海に出る。途中、断崖絶壁が何箇所もあり、転落した車が木に引っかかっていた。斜面に岩で塀を作り、土を貯めてジャガイモを栽培していた。山の民をとり囲む自然の条件は厳しい。

「このあたりは、昔から外界から隔離された地域ですよ。だから彼らの文化は、平地の民であるセルビア人とは違うんです」山崎さんが、「モンテネグロの十戒」と題するセルビア人の作った小話をいくつか教えてくれた。

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 質実剛健が売りものの田舎者のモンテネグロ人の息子が、医学部に入学、労働医学を専攻した。そしたらオヤジが突如、怒り出した。「バカモン、労働は病気じゃない!」と。負け惜しみの強いのがモンテネグロ人の特質だ。ソ連人が「俺の国は広い」と自慢した。モンテネグロ人はすかさず言った。「俺の国も結構広いよ。アイロンかけて平にすればな」(この国の面積は1万3000平方キロ、東京、神奈川、埼玉、千葉と同じくらい)。
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 モンテネグロの南端に「スカダル」というバルカン最大の湖があり、中央にアルバニアとの国境線が通っている。アルバニア人は地中海からやってきた民族で、スラブ人ではないというところから、モンテネグロ人とは仲が悪い。

 アルバニアは、遠交近攻策をとり、毛沢東と手を結んだ。そこでこんな小話もある。

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「天敵アルバニアの同盟国の中国が攻めて来たらどうする?」「あの国、人口が多いので、攻めて来たら困るなあ。奴らをやっつけるのはたやすいけど、葬ってやる場所がない、俺の国、小さいから」。
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