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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 セルビア&モンテネグロ(2)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/05/14  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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戦禍のベオグラード
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≪ ドナウ川の畔で ≫

 チューリッヒ発ユーゴスラビア航空(JAT)で、ベオグラードに着く。2001年5月の話である。チューリッヒは雨、気温15度で肌寒かったが、アルプス越えをして、到達したバルカンの5月はもはや夏であった。気温25度。午後7時半だというのにまだ明るい。

 セルビアの首都、ベオグラードは2度目だ。1995年6月、ボスニア紛争で、西側の経済制裁を受けていたこの街を訪ねたことがある。その当時、通訳をしてもらったベオグラード在住の、山崎ひろし、佳代子夫妻と再会した。ひろし氏は、ユーゴ人と日本人の混血で、慶応大卒業後、父の母国に帰った。ベオグラード在住20年、2人ともベオグラード大学の東洋学科で日本学の教鞭をとっている。

 ベオグラードは、バルカン地方を流れるヨーロッパの2つの大河の交差点にある。ドナウ川とサバ川、いずれもアルプスの山々が水源だ。ドナウ川は有名だ。ウイーンはヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の舞台であり、その下流にハンガリーの首都ブダペストがある。そのまた下流がベオグラードなのだ。ところが日本でのサバ川の知名度は低い。オーストリア、それもイタリアに近いところで、アルプスの雪どけ水を集めて川を形成し、スロベニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国を経て、セルビア共和国のベオグラードに入り、ここでドナウ川と合流、ルーマニア、ブルガリア国境経由で黒海に注いでいる。

 ドナウ川を見下す中世風の建物の中にあるSKOLKA(貝)という名のレストランで山崎夫妻と食事をとる。ベオグラード大学芸術学部の所有する不動産だが、市場経済への移行で、レストランに貸しているとのことだ。味はなかなかのものだった。タコ、キノコ、ネギそして大根のスライスの前菜。小牛のスープ、小さなイカのソテー(1人前で10匹)、そしてマケドニア産の白ワイン「ALEXANDRA」、4人前で3500ディナール=120マルク(約1万円)だった。

「NATOの空爆の影響で、食糧難が続いていると思っていました。でもこのレストランの食卓、結構豊かですね」

「ええ、セルビアは人口に比して農地面積も大きく、農業生産性も高いですからね。食糧はありますよ。山の中で、タコやイカがどうして食べられるのかですって? モンテネグロから運びます。あそこはアドリア海に面してますから……」。

 ひろしさんがそういった。私にとっては安くてウマイ。でもこの国の庶民が払える値段ではない。

 佳代子さんは言う。「チトーの時代、人々の平均月収は、日本円で7万円あったけど、今は1万5000円くらいです。ベオグラード大学の先生の給料が200マルクだけど遅配続き。2000ディナール(70マルク)持って、1週間分の食糧の買い出しに、マーケットに行くとほとんど残らない」。


≪ 空爆で炭火焼が大流行 ≫

 ソ連崩壊以降、この国の経済は疲弊する一方だった。9年間にわたる大ユーゴスラビア解体にともなう戦争、その結果、残るはセルビア、モンテネグロ両共和国のみ。小さくなったユーゴスラビア連邦はその後7年間にわたる西側諸国による経済封鎖、そして1999年3月〜6月のNATOの空爆と、ご難つづきだった。私が訪れたベオグラードは平和を取り戻してまだ日が浅かった。

「バルカン半島は、人種や民族のモザイクですから、セルビア人は、外国に大勢の親戚がいる。NATOの空爆の中で、その人達からの郵便は、ハンガリー経由で送られてきた、封書の中には、10マルクや20マルクの札が入っていた。親戚からの送金でした。ところがユーゴ行きの郵便は、しばしば開封され、現金が抜きとられていたそうです」。

 NATOの空爆のもとで、ベオグラードはしばしばエネルギーの供給がストップした。冬の期間でなかったので寒さにやられた人はいなかった。だが市民たちは、料理には困ったらしい。「焼き肉が流行しました。空爆で電気とガスの供給が中断される。そうなると手の混んだ料理はダメ。調理はもっぱら木炭に頼っていた。セルビア人の好物は肉の煮込みだが、時間がかかる。だから炭焼きステーキをよく食べた」。

 現地で、「ユーゴスラビアにおけるNATOの犯罪に関する白書」と題する部厚い印刷物を見つけた。3カ月間で延べ2万2500回のピンポイント攻撃があり、ミサイル、もしくは爆弾約2万5000トンが投下された、民間人の死傷者は、2000人にのぼると書かれていた。私の泊ったインターコンチネンタル・ホテルは、ドナウ川の北側のいわゆる新市街にある。ホテルの部屋から大通りを隔てて、20階建ての元共産党本部のビルが、目の前に見えた。20ほどの会社と、TVとラジオ局が入っていたが、ミロシェヴィッチ政権の宣伝工作の拠点との理由で、ミサイル攻撃の標的となった。TV局のアンテナはアメのようにひん曲り、上層階は黒こげ、下層階はガラスが割れて、無人のビルと化していた。

 新都市には、例のNATO軍の「誤爆騒ぎ」で、有名になった五星紅旗を掲揚した中国大使館跡があった。あえて「跡」と表現したのは、今は無人だからである。この建物の周囲には、他に建物はなく、位置からみて誤爆はあり得ない。裏側の窓からひとつの部屋をめざして何発かのミサイルを発射したらしく、そこだけが黒こげになっていた。NATO軍にとって“その部屋”にどんな戦略的意味があったのか? 謎に包まれたままだ。

 翌朝、山崎夫妻の提案で、戦禍の旧市街を見学する。「ホテルから南に向かい、ドナウ川の橋を渡ると、地理的にはバルカン半島に入る。そこが旧市街です。ベオグラードというのは、白い町という意味。スラブ人がそう名付けてから1200年を経た古都です。その間、ここを舞台に異民族同士の攻防戦が展開され、ベオグラードは、40回破壊され、40回復興したという話です」と、ひろしさん。

「すると、NATOの空爆が41回目の破壊?」

「ええ、でも41回目の復興はまだです」。

 1876年建設のベオグラード中央駅前から、サラエボ通りを行くと、連邦国防省の建物がある。夜間に、どこからともなく飛んできた何発かのミサイルがここに命中した。私は、以前(1995年)、この建物の隣にある小児科専門の病院を訪れたことがあり、入院中の子どもたちの事が気にかかっていた。

「こどもたちは大丈夫。死んだのは、深夜国防省前でたまたま信号待ちしていた車の2人だけ。国防省内は、ほとんど無人だった。でも15分後に再び攻撃があり、出動した消防隊員に重軽傷者が出た」。近くに、大使館通りがある。アメリカ、クロアチア、カナダの順で建物が並んでいた。空爆中、怒った民衆が、アメリカ大使館に侵入、建物を破壊したが、中は空だった。街の公園には樹齢500年のカシの木がある。マロニエの並木が美しい。戦禍にあっても、この街は古都の風情をしっかりと残していた。


≪ 「ミロシェヴィッチよ。ハラキリせよ!」 ≫

 郊外の難民キャンプの見学に出かける。セルビア共和国は70万人(ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアから脱出したセルビア人45万、コソボから25万人)の難民がいる。コソボ自治区から、アルバニア系回教徒の迫害で、脱出した45歳の警察官一家を訪問する。6畳ほどの部屋をカーテンで仕切り2世帯が住んでいる。4人家族だ。最初は1人で、警察の車を運転、1日かけてセルビアに脱出、このあと家族たちが別々にバスに乗って逃げてきた。息子は大学生、娘は高校生、このキャンプから通っている。「幸い、ベオグラードで警察官に採用され、なんとか食べていけるようになった。だが、キャンプを出たら住むところがないので、置いてもらっている」という。

 キャンプの給食を御馳走になる。献立てはキャベツの塩づけ、白マメのトマト味スープ、べーコンのぶつ切りとキャベツの煮込み、そして大きなパン2切れと、バターだった。

「NATOの爆撃中は肉はほとんど手に入らなかった。セルビアは豚肉の名産地で、輸出するほどある。だが、農村からベオグラードまでの鉄道も道路も、破壊されたので、このキャンプまで運ぶ余裕がなかった。時々、ボランティアの人が危険を冒して田舎から肉を持ってきてくれた」キャンプのコック長のおじさんがそう言った。5棟ほどある難民キャンプの周囲のコンクリート塀に落書きがいくつかあるのに気づいた。山崎さんに読んでもらった。そのひとつに、「ミロシェヴイツチよ。何故ハラキリしないのか。汝はサムライなりや?」とあった。ユーゴスラビアを10年間統治したミロシェヴィッチ前大統領、良きにつけ、悪しにつけ、セルビアの象徴であった。国の名誉にかけて、生きてNATOの虜囚の恥をさらすなかれの意だ。セルビア人は尚武の気風をもつ民族なのである。
 



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