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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 子供の脅迫犯  
コラム名: 昼寝するお化け 第250回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2002/04/26  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「子供は純真だ」とか「無垢な子供心」などという言葉を聞く度に、私はずっと以前から「そうかなあ」と違和感を感じて来た。私は純真だった子供の頃の記憶がほとんどないのである。父母が仲の悪い夫婦だったから、私は小学生の時から分裂した裏表のある言動で生きていた。自殺、殺人、家出、その他の感情を今にも実行しそうなほど追い詰められて、毎日を暗く暮らしていたから、多分人格も悪く変形しただろうと思う。

 ただ私は幸運でどうやら現実に恐ろしいことを実行しなかっただけである。だから今でも、実行するのと思い留まることとは、紙一重だったと知っているし、他人が犯した犯罪にはいつも深い同情を覚えている。もう30年近く前、インドのカルカッタで、朝4時にホテルから空港に向かうことになった。外はまだ星空が拡がっていた。建物の蔭で、布を被った死体のように寝ている街路生活者もまだ起きては来ない時刻である。

 そんな朝早くなのに、私たちの乗ったバスの入り口に数人の子供の乞食がやって来た。「バクシーシ(お心づけを)」と言って手を出すのはいつもの通りだが、その子供がハンセン病であることを私は見て取った。手が独特の曲がり方をしているのである。私はアグラにあるハンセン病の施設に暫く滞在して小説のための取材をし終わったところであり、3000人ものハンセン病の患者を見た後だったから、病気特有のちょっとした不自由な手付きも、敏感に感じ取ったのである。

 もうその頃から、ハンセン病は簡単に治る病気になっていたのだが、貧しい田舎住まいの人々の中には医療機関に到達することもできないまま、特効薬も貰えないで治癒の遅れている場合がけっこうあったのである。

 もともとインドヘ来てから、私は散々迷ったあげく、こうした乞食には何もやらないことにしていたから(やり出したらきりがなくて、時には囲まれて困る場合もあった)、この子供たちにも黙って首を横に振っていると、彼らはさんざんねばった末に諦めてどこかへ消えてしまった。

 それから数分後に、私たちのバスは出発した。その時物乞いをしていた子供たちは少し離れたところで、自転車の古い輪で輪廻しをして遊んでいた。私は彼らの手元を見つめた。彼らの手には麻痩があるどころか、遊びの手付きは全くしなやかだった。つまり彼らは全く健康な子供で、ハンセン病の患者を装っていただけだったのである。病人のふりをすれば、金をもらうのに有利だという知恵を、誰かが授けたのであろう。

 賢い、親思いの、勤勉な子供たちだ、と言う以外、私は彼らへの賛辞を思いつかない。通っていればの話だが、まだ小学生という小さな子供が、親を助けるためか自分が生きるためか、とにかく朝の4時から起きて乞食商売に行くのだ。子供は純粋でも純真でもない。彼らは嘘もつけるほどに成熟した苦労人なのである。かつての私と少し似たところのある……。

 最近の英字新聞がまた、胸を打つような話を報道している。(日本の新聞はどうしてこうも世界の話、アジアのニュースを無視しているのだろう。スポーツ欄をもう20平方センチでも削って、その欄を外信か外報の記事に当てれば、日本人はもっと国際的な常識が身につくだろうに)

 中国南部の都市では最近、子供の脅迫事件が相次いでいる。10歳くらいの子供の乞食が駅で待ち伏せしていて、若い女性の旅行者を見ると近付いて行って金をねだる。旅行者が断ると、「エイズの血液の入った注射器を刺して感染させるぞ」と言って脅すのである。もちろん注射器の中の赤い液は偽の血液である。しかし若い女性客はすぐ脅せるから、彼らとしてはかっこうの脅迫の標的になる。

 こういう詐欺と脅迫が可能になったのは、今年初め、実際にエイズ患者と農民の何人かが、エイズ・ウイルスに汚染された注射針で通り掛かりの通交人を刺した事件があって、市民が震え上がったからである。

 これらの子供は、不法なシンジケートに操られている、という説がある。孤児でなければ、親が承知で子供を稼ぎに出しているわけだ。親の悲惨な運命(失業や貧困)を子供に影響させるのはむごい、と考える人が日本人には多い。しかしどこの国でも、子供も一家の生活を担うのが普通だ。

 駅勤務の憲兵隊員の1人の話では、彼自身がこうした犯罪を未然に防げたのはたった15件だが、ほかに無数のケースがあるという。盗み、詐欺、強奪など、駅を舞台にした犯罪は後を絶たない。しかし立件できるのはほんの僅かにすぎない。なぜなら子供の脅迫犯人は、往々にしてまだ告訴できる年齢に達していないからである。

 しかし最近では政府もこれに対して対策を立て始めた。すなわち地方自治体が、こうした人々を郷里に送り返す計画を実施しようとしている。それにはまず、地方からの流入者を一所に集めて仮住まいをさせ、それから漸次郷里に帰すというやり方である。

 世界的に子供は、日本よりはるかに大人の世界で働いている。日本でも昔は妹を背中に背負って学校に通わねばならない子供は、地方にはたくさんいた。当人はやはりそんな境遇を嫌がっていたとは思うが、だからと言って周囲の苛めが今よりひどかったとは思えない。私の記憶にある限り、子守をばかにされて、背中の妹ごと殺されたり、妹をおぶったまま自殺したりした小学生や中学生はいないような気がするのである。

 それはなぜかといえば、子守や他の親の仕事を手伝って生きるような子供は、たとえ優等生でなくても、それなりに立派だ、と解説した父や母が世間にいたからである。また彼ら自身にも親の生活を背負って立っているという自負があったからだ。まだテレビというものがこの世になかった時代には、食事の時にはどの家庭でも親子の会話があり、父や母は、子供の周囲の対人関係に権威をもってコメントをする余裕があったのだ。

 しかし今食卓には会話がない家庭が多いから、自分の子供とその周囲の子供たちが、どんな人生を送っているかほとんど知らない親たちも多い。仮に働かねばならない同級生がいると聞いても、親は「かわいそうだねえ」の一言で済ませてしまう。うちの子供がそんな境遇でなくてよかった、というただそれだけの反応しかないのだ。

 できればおっとりと、成長してもらいたい。ましてや麻薬や恐喝の手口を覚えたりさせられずに、子供時代を生きてほしい。しかし人間は強靭な精神力で、願わしくない境遇からも学ぶものだということも忘れてはならないだろう。
 

ハンセン病とは・・・  


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