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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 セルビア&モンテネグロ(1)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/04/23  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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JAT機上での会話「ユーゴ」とは何か
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≪ 「見知らぬ乗客」と。 ≫

 ユーゴスラビアのことは、もっと早く書こうと思っていたのに、延び延びになっていた。旅行の覚え書きノートが、どこかにまぎれ込んでしまったからだ。ユーゴスラビア連邦共和国は、2002年6月から「セルビア、モンテネグロ連合」と改名する。「ユーゴの名前の消滅しないうちに」とあせっていたらノートが見つかった。「ユーゴスラビアとは何ぞや」を最初のテーマに選び、この紀行文をスタートさせる。

 2001年5月17日。私のメモの第一頁は次のような走り書きで始まっている。

「コンニチワ」。スイスのチューリッヒ空港の手荷物チェックのカウンター。係員の女性にいきなり日本語で声をかけられた。「日本人でしょ」「そう。東京から来た」。「日本人がユーゴーに行く。珍しい。ビジネスでしょ。観光の人絶対に行かないから…」「スイス人は観光に行くの?」「もちろん行かない。怖いから」。午後5時50分、ユーゴスラビア航空(JAT)のベオグラード行き、エアバスに乗る。

 離陸間もなく雲が去る。先のとがった白い山々が、眼下に連なる。飛行機はアルプスを越え、首都ベオグラードに向かう。1時間40分の行程だ。

 私のユーゴスラビア訪問は、実は2回目である。前回はボスニア紛争での責任を問われ、国連の経済制裁を受けていた1995年6月。その後1998年、コソボの紛争で、ユーゴスラビアは、ミロシェヴイッチ大統領の指導で「他民族を虐殺した」廉(かど)で、在外資金の凍結、投資禁止の経済制裁を受けた。1999年3月から6月まで、NATOによる空爆が実施された。翌年、大統領選をめぐり市民の抗議運動が起こり、ミロシェヴィッチが退陣、その後、この国は国連に加盟した。2001年4月、ミロシェヴイッチ氏はユーゴ当局によって逮捕された。その1カ月後、再度、私はこの国を訪れたのである。

 隣席の客は、黒い背広の上下の一見マフィア風の男であった。客席に、キリール文字のユーゴの新聞が配られた。スチュワーデスに「私、セルビア語がわからないので読めないが、新聞を見るから1部くれ」と英語でいった。するとこのマフィア風ビジネスマン氏、「あなた日本人? 面白いこと言う人ね」と話しかけてきた。彼は英語が少し話せたのである。この新聞の題字に「ΠAC」(グラース)とある。「情報という意味だ」と教えてくれた。セルビア人は人懐っこい人間が多い。「この記事の見出しにチトーと書いてあるね。」と水を向けたら、さっそく乗ってきた。「そう第2次ユーゴスラビアを作ったチトー大統領の記事だ。共産主義はダメだけど、チトーは偉かったぜ。あの頃のユーゴは大きな国だったし、金もあったよ」。ビジネスクラスの喫煙席。男は赤ワインとタバコを交互に、たしなみつつ、片言の英語を並べてチトー時代を熱っぽく語った。

「ユーゴスラビアとは何ぞや」。実はこれがかなりの難問なのである。外国の侵略で壊滅的打撃をこうむったことのない“幸せな歴史”をもつ日本とは、別の世界なのだ。男と話しながら、私は「民族の坩堝」とか「紛争の火薬庫」とか呼ばれるバルカンの故事来歴を頭の中で反すうした。

 1つの連邦、2つの文字、3つの宗教……。

一、ユーゴスラビアとは南スラブ人の土地という意味だ。17世紀ごろスラブ人が、バルカンと呼ばれるこの地に移住しいくつかの中世国家を作った。ところが、この地は、ビザンチンとローマの2大キリスト教団の狭間にあるだけでなく、オスマントルコによるイスラム教進出の最前線で、世界の3大文明のぶつかり合う交差点だった。

一、移住したスラブ人の中で、スロベニア人とクロアチア人は、ローマカトリックを、セルビア人はビザンチンに統治され正教を受け入れ、ボスニア・ヘルツェゴビナのスラブ人の一部がトルコ支配のもとで、イスラム教に改宗した。

一、20世紀に入って、第1次大戦後セルビア・クロアチア・スロベニア王国が成立した。これを第1次、ユーゴスラビアという。第2次大戦中は、ドイツ、イタリア、オーストリーによって占領され分別統治された。

一、第2次大戦後、チトーのもとで、6つの共和国からなる連邦が成立した。これを第2次ユーゴスラビアという。「チトーのユーゴは、大国でカネもあった」と、男が云ったのは、この時代をさしている。当時のユーゴを1から7の数字で、表現した有名な定義がある。

 1つの連邦国家、2つの文字、ロシア語のアルファベットに使われているキリル文字、英語のアルファベットと同じラテン文字だ。3つの宗教、正教、カトリック、イスラム教だ。4つの言葉(セルビア語、クロアチア語、マケドニア語、アルバニア語)、5つの民族(セルビア、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア、マケドニア人)、6つの共和国(セルビア、クロアチア、モンテネグロ、マケドニア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)、そして、7つの隣国に接していたのだ。このようなモザイク国家が、1つであり続ける必然性は、ほとんどない。でもチトー時代はまがりなりにも1つの連邦が維持されていた。大国の干渉が、7つの隣国経由で押し寄せるのではないか、との危機感が、そうさせたのだろう。

 私が訪ねたユーゴは、第3次ユーゴスラビアだ。複雑な歴史的いきさつをはらむチトーのユーゴは、冷戦崩壊後小さくなってしまった。クロアチアとスロベニアがEUの支援で独立を宣言、そしてマケドニアもセルビアから去っていった。ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア系住民が多くミロシェヴイッチ軍との流血の惨事を繰り返したのち、独立した。残るは、大きかった頃のユーゴの主導権を握っていた親分格のセルビアと、第2次大戦中、パルチザンとしてナチと勇敢に闘い、チトーから共和国の地位を与えられたモンテネグロのみとなった。以上が、この国の故事来歴である。

「あの国はね、何度解説してもらっても複雑でわけがわからん。要するに“遠くて、遠い国”の話なんだな」。私の第1回目のユーゴ訪問の際、ある著名な財界人にそう言われたのを思い出す。距離のみでなく、文化的にも、宗教的にも、民族的にも、そして地政学的にも日本との共通性はない。すべての点で異質なのだ。そういう国を“遠くて遠い国”というのであろう。

「オイ。あれを見ろ、あれを。」隣席の男が、窓際に座る私の肩を何度もたたいた。「何? どこ?」といぶかる私の頭を大きな手でそちらの方向に顔を回転させた。飛行機の進行方向の左側下に大きな川がある。幹線道路が走っており、破壊された鉄橋が、半分ほど水に漬かっているではないか。男は「NATO、NATO」と連呼した。NATOの空爆にさらされた橋の残骸であった。


≪ やっぱり、マフィアだった! ≫

「あと15分でベオグラード空港……」の機内アナウンス。男は、これは「ノビサドの橋だ」と言った。後刻、旅行案内書で調べたのだが、この現場は、セルビアの北にあるヴォイヴォデナ自治州の首都ノビサド市であった。ドナウ川の戦略的要所に位置し、18世紀には川を見おろす小高い丘には城が建てられ、ハプスブルグ家がニラミを効かした。1918年まで、オーストリア・ハンガリー帝国の領土だったが、第1次大戦後、セルビア王国に帰属、ユーゴスラビア建国後は、コソボとともに自治州となった。

「橋を壊すのは簡単だ。10分もあればOK。でも直すには時間がかかる。金もかかる。だから1年もそのままになっている」。セルビア語と英語をゴチャまぜにして、大声で私に訴えた。耳をすませて聞いてみた。どうやらそう言っているようであった。

 機首が下がり着陸体勢に入る。ユーゴスラビアの人口は約1800万人、国土の半分が険しい山地と、丘陵だが、セルビアは平地が多い。視界のとどく限り、森と畠が展開している。この国の農業生産性はかなり高い。だから国連の経済制裁やNATOの空爆下でも食糧に困ったことはない。

 チューリッヒ発、「JAT」ことユーゴスラビア航空は、セルビア人の出稼ぎや買出し客で満席だった。ベオグラード空港の税関カウンターには、西欧製の衣服雑貨、文房具、電気器具、台所用品が山と積まれ、通関の列はいっこうに進まない。

「あの隣席の男は…」とあたりを見まわす。

 3人の若い男を従え、税関とは反対側の空港職員用出口から堂々と出て行く後姿が見えた。若い衆は、西欧製パソコン入りのダンボール箱をいくつもかついでいた。機中で力ーテンの後方のエコノミークラスに座り、時折、ご機嫌伺いにやってきた連中だ。

「コンピュータのビジネス」と言っていたこの見知らぬ男。輸入の荷物を子分にもたせ空港の裏口から顔パスで帰国したところをみると、やはりマフィアだったのだろう。
 



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