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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 細道の意味  
コラム名: 私日記 第29回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2002年2月7日〜10日

 シンガポールのナシムヒルの家で、海竜社の企画のために、クライン孝子さんと「日本人の幼児性」ないしは「未成熟」について集中的に対談をする。未成熟とは何か、というと、自己中心的とも言えるし、狡くないとも言える。クラインさんは国際政治にも経済にも詳しい上、ヨーロッパの現状についても厳しい状況を話してくれるので、ほんとうにためになる。私はこういう場合ひたすら、自分の未成熟は棚に上げてものを言うことにしているのだ。

 午前9時、対談開始。それから正午までみっちりやる。私が最近勧められて飲んでいるゲンノショウコとドクダミのお茶が思ったほどまずくないということになって、お茶を入れてくれる人はいないことでもみるし、海竜社社長の下村のぶ子さんにもクライン孝子さんにもそれを飲ませる。体にいいんだぞ。おつまみは、ココ椰子とウォーター・チェストナットのドライ・フルーツだけ。

 10時半頃中休みがあって、その間に私はお米を研ぎ、キャベツのスープを鍋にかけ、大根と揚げの煮ものの味を調整する。かくして昼食の用意も片手間にできるのである。

 初め2人は、対談しながらご飯の用意ができるなんてことを信じなかったが、対談が終ると塩鮭や鰤の味噌漬け(私が東京から漬けて持ってきたもの)を焼いて、ゴマあえを作ることくらいは何でもない、とわかってくれたようである。粒の立ったようなササニシキのご飯とタラコと海苔とお漬け物があれば、クラインさんのような外国在住者はごまかせると知っているから、手抜きも平気なのだ。

 昼になると、陳勢子さんも「シンガポール一の日本料理店・曽野」の昼定食を食べに来る。それから下村さんとクラインさんは、観光に。私は勢子さんとまず中国のデパート「裕華」へ、田七人参を買いに行く。これは血をさらさらにするのと出血傾向を止めるのと、2つの働きを同時にするものだという。日本で買うと1月分7000円、シンガポールで買うと200円。

 町は中国正月の直前でどこも赤い色の氾濫。下村さんと、今度「正論大賞」を受けられた屋山太郎さんへのお祝いにインドネシアの細工の箸を買う。花を贈るより、団子の方がいい方に違いない、と2人で勝手に決めた。

 日本のニュースは、鈴木宗男氏と田中眞紀子外相のことばかり。鈴木氏から、アフガニスタン復興に関する国際会議への出席を断られたNGOの大西氏という人が、予算の半分以上の2億8000万円の金を政府から受けながら仕事をしているデータも送られて来る。

 こういう時、英語が少しできると、NGO(非政府組織)の概念について混乱してしまう。政府から金をもらいながら、非政府組織というのについていけないのだ。むしろこういうグループははっきりとGCO(ガバメント・コオペラティヴ・オーガニゼーション、政府協力組織)とうたって、私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会のように文字通り政府からは1円も受けない群小のNGOと、はっきり一線を画してはどうか。

 10日夜、クラインさん、フランクフルトへ向けて帰国。下村さんと私たち夫婦は11日朝、まだ暗いうちに家を出て帰国の途に。


2月12日

 朝8時半、日本財団へ出勤。

 10時、理事会。

 11時半、シネルゴス・インスティテュートのペギー・デュラニーさん来訪。ロックフェラー家の娘である。

 午後1時、河出書房新社の太田美穂さん。

 2時、PHP松本道明さん。

 3時、国際部の説明。

 4時、電光掲示板原稿選定ミーティング。

 大急ぎで帰って、夜は家で海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。ボリビアのヴィセンテ神父が経営する学校の校舎建設のために450万円。ペルーの日系老人ホームに入居予定の2人のお年寄りのために、年間の生活費50万円。フィリピン、ミンダナオ島の苦学生を助けるカトリック・センターに対して、50人分の寄宿代として250万円。図書館に整備するコンピューター関係の図書購入費として32万5000円を認可。


2月13日、14日

 このごろリンパのマッサージを受けている。非常によく効く。6年前の骨折は完全に治った、と思っていたが、その間足を動かさずにいた後遺症で、あちこちのリンパ節が小さなこぶのように腫れたままになっていた。それを少しずつ崩して行くのが、何ともいい気持ちである。

 考えてみれば体だけでない。精神も強張り、巡りが悪くなると大変だ。顔に皺取りクリームを塗るより、骨の位置を正し、リンパの流れを良くする方がずっと若さを保てるはずだろう。

 14日は午後自由が丘の上坂冬子邸で、『正論』誌のための座談会。

2月15日

 朝、NHKでラジオの録音。広いスタジオで1人でマイクの前で喋ることになると、会話というものには、息の温かささえ感じる位置に相手がいることが必要なのだとしみじみ思
う。言いっぱなしは虚しい。相手に反論される時にこれからは感謝しよう、とふと感じる。

 考えてみると私は40代の約10年間、文化放送で、カトリックの番組のパーソナリティーをしていた。だからストップ・ウオッチを見ながら、残り時間を計算しつつ喋る技術をまだ体が覚えていた。

 12時半。いっしょに聖地巡礼をした石田滋子さんと母上が来てくださっていっしょに財団で食事。

 1時半、笹川スポーツ財団の藤本常務と、5月の東京シティ・マラソンの打ち合わせ。

 2時、執行理事会。


2月16日

 10時半頃、新横浜発の新幹線で福山へ。

 1988年以来日本財団は、福山市にある「一れつ会」の通所授産施設、入所更生施設、福祉工場「ウィズ」、などの建設費を出して来た。今はデイサービス・センター「ほほえみ」を建設中である。それを見せてもらうことになって、講演会の前に1人で立ち寄る。今までの援助総額は4億9940万円に達しているが、すべて競艇ファンのお金だ。

 日本財団では財団職員が、資金の援助をしたところの近くに行く時は、必ず訪問することにしている。私の場合、今日福山で講演があるので、旅費はそちらに出して頂くから、財団は出張費さえ出さずに、私という職員を1人差し向けて、事業の状況を見せて頂ける。行ってお会いして、お話を聞かなければ心も通じない。

 ここでは知的障害を持つ人も安来節を踊って見せてくれた。踊りはほんとうに好きらしくステージに駆け上がって、いっしょに踊る人もいる。私も今度は仲間に入って踊ろうと思う。私は日本舞踊の水木流のいんちき名取なのだから、「一れつ会」の安来節くらい、全く練習なんかしなくったって半秒遅れですぐ踊れるんですよ、と後で財団でも言ったのだが、どうしてか誰も信じてくれず、えへへと笑うだけである。

 ここではもう1つ感心したことがあった。パウンド・ケーキを焼いているのだが(それが大変おいしい。卵が新しいからだ、と言う。その場で350円一包のを10本買って届けてもらうことにした。支援の気持ちは、作ったものを買ってあげることが一番自然でいいように思う。

 「ふくやま芸術文化ホール」で講演して、その晩は福山に泊まる。


2月17日

 朝、福山から小郡へ出て車で益田市へ。県の講演会を終ってから、今度は益田市の「希望の里」を訪問。ここも日本財団が資金援助をしているところだが、知恵遅れのお嬢さんた
ちと楽しくて楽しくてたまらないという感じの会話をした。広々とした施設で、今日は日曜日ですべての催しはお休み。

 帰りは石見空港から飛行機で帰った。羽田は、ブッシュ大統領到着のため厳しい警戒。


2月18日

 昼間、大阪新聞・産経新聞の編集関係者と会食。長い間、大阪新聞、産経新聞、北国新聞、富山新聞、という系列で、エッセイ『自分の顔・相手の顔』を連載したが、今度は大阪と産経が再編成されて朝刊になる。約5年間も書き続けたのだ。面倒を見て頂いたことを心からお礼を申しあげる。

 あんなに出席するつもりだったのに、夜の屋山太郎さんの受賞祝賀会を欠席することにした。少し風邪気味。明日から台湾へ出張するのだが、まだ原稿終らず服も詰めていない。


2月19日

 正午までに羽田へ。台湾へ向かうためである。1999年の中部大地震の時、日本財団は3億円のお見舞金を贈った。私が台北に行って李登輝総統(当時)にお手渡しした。日本政府が出した金額は5000万円だったと記憶する。政府は援助をするにも、中国の顔色をうかがった。今風に言えば、中国から密かにお金をもらっている代議士がいて、自由にならなかったのだと、今の週刊誌なら書くだろう。

 政府ができにくいことを、純粋に国益や人道の立場に立って1歩さがったところからするのが、私の働いている日本財団の姿勢であるべきなのだから、台湾支援は賛成であった。

 ただし政府に出すお金はともすれば、どこに使われたのか、先が見えなくなる。その時私は李登輝氏と前から何度かお会いしていたのをいいことに、「もし地震で老人ホームなどがつぶれてしまっていましたら、そういう施設を再建して頂いて、後日、日本からおじいちゃん、おばあちゃんたちがお訪ねして、ごいっしょに力ラオケでもできるようになるとよろしいですね」などと、雑談で申しあげておいたのである。

 規模にもよるけれど3億円はそんなものかな、と私はあたりをつけていたのである。

 その後、政府の交代があって、この3億円の使い途はなかなかはっきりしなかった。催促して礼儀を失したくはないが、私としては、財団のお金の使途がはっきりしないのも初めの希望とずれる。困っていたところに、今度その3億円で整備した一部政府、一部民間の消防隊の整備ができたので、その出初式に招待されたのである。

 羽田空港でブッシュ大統領の乗って来た「エアー・フォース・ワン」が駐機場にいた。真っ白な機体かと思っていたら、一部はブルーに塗ってあった。周囲は警察関係者でいっぱい。犬まで飛行場の草むらを嗅ぎ廻っている。

 台北飛行場に着くと、真っ赤な民間消防隊の制服を着た100人近くの団員が整列して待っていてくださったので、日本財団の歌川令三理事と私は、何やら閲兵みたいにその前を歩かなくてはならなくなり、まことに板につかない。歌川さんも新聞記者出身だから「閲兵」は下手に決まっている。こういう時、背中が猫背になるので、少し気をつける。夜は交流協会台北事務所長内田勝久氏ご夫妻のご招待を受ける。シンガポール大使でいらした時以来、久しぶりでお目にかかり、歯切れのいいお話を伺って楽しかった。


2月20日

 今回の台湾訪問の目的は、2つの部分に分かれている。台湾でブックフェアーが行われているので、それに合わせて会場で講演をすることが、1つであった。その前に、台湾で有名な雑誌『天下』から、1時間のインタビューを受けた。その編集長のダイアン・殷さんは、これもやはり昔からの友達なのである。私の『中年以後』という本が、今日に合わせて台湾でも台湾語で出版された。

 午前中、インタビュー。その後、騒音に満ちたブックフェアー会場に行った。日本の出版社もたくさん出ている。逐語訳の通訳つきで講演。その後、突然サイン会に出るようにと言われる。日本語の全くできない青年で、台湾語に訳されている私の全著作を持って来た人がいたのにはびっくりした。

 夜はブックフェアー関係者が全部集まった大パーティー。中国料理というものは、こういう時、日本料理と違って豪華で華やかな空気を作れるのは羨ましい。乾杯の仕方だって私はまだ馴れないけれど、その場を盛り上げるにはいいやり方なのだろう。


2月21日

 台湾テレビ前の広場で、日本財団の援助で買った救難機器が勢ぞろいして、記念式典が行われた。李登輝夫妻と、例の真っ赤な制服の隊員たちに迎えられた。

 水上オートバイは電気も切れた災害地区での連絡に必要だろうし、水中カメラや瓦礫の中から人を発見する装置など、今回、大きく新しい設備が整ったという。私はご挨拶の中で、日本に災害があった時には、必ずこれらの機器を携えて、救援に来てください、と頼んでおいた。

 その後のお食事の時には李登輝前総統とはまず「奥の細道」の話。ご夫妻で「奥の細道」を歩いていただきたい。政治は大道であって、細道は政治とは関係ないのだ。その点をはっきり認識して、李夫妻を日本にご招待しようという人が、政治家にも1人としていないというのはおかしなことだ。

 李登輝夫人・曽文恵さんは、政治の表に立つのが嫌いな方だという。1つには、中国語が、大陸育ちの人のようにできないからだと言われる。つまり日本語が一番お得意なのであ
る。台湾人は、自分を「台湾人」と認めることについて時々はっきりしない。どうしたら民族の誇り、アイデンティティを持たせられるか、ということについて前総統は腐心されていたが、夫人はたった一言穏やかに、「スウェーデンに行った時、スメタナの『わが祖国』を聴いて、ほんとうに羨ましかったです」と言われた。日本人には、「わが祖国」という概念を恥のように思っている奇妙な人たちもいる。いつも思うのだが、それならば、まず日本人であることをやめることから始めて、自分の志を貫くことだ。

 16時半発の飛行機で、福岡へ。明日は「正論」の講演会がある。夕食に、河豚をごちそうになった。今年、初めてで恐らく最後。


2月22日

 午前中、ホテルで執筆。2時から講演会を済ませて羽田着。

2月23日

 太一(孫)と四季劇場の『アンドロマック』を見に行く。太一は、神戸とは言っても、六甲の山肌にくっついたような家で育った。だからこういう芝居を見られることは、嬉しくて嬉しくてたまらない。憧れの東京へ出て来たかいがあったというものだろう。

 お芝居の途中で時々おかしな批評をする。

 「お祖母ちゃん。2階に道化をおいて、時々したり顔で独白を言わせたらどうだろう。『あんなけばいサンダルとケープで、女が惚れると思ってるのかね』とか」「王妃と彼女が似たタイプだね。どちらかがデブでブスの方が写実的じゃないか」

 私は登場人物に気品がないのが困る、と思う。もっとも今は、気品などというものが、存在もしなければ意味も持たない時代だ。気品に欠けると思うのは、王妃が早口で喋るからだ。

 太一は「ゆりかもめ」というモノレールに乗ったことがないというので、帰りには一駅乗って新橋に出た。彼の読んだたくさんの小説に出て来る資生堂パーラーに行ってみたいという。改築されて、昔の面影はないのだろうが、その場所を教えたが、中は人がいっぱいでお茶は飲めず。そのすぐ先の東京羊養なる店もいっぱい。

 「どこが不景気なのよ」と私は眩いた。

 「やっぱり不景気なんじゃないの? 景気のいい時は、お茶なんか飲んでなくて、宝石売り場とか着物売り場にいるんじゃないかな」

 仕方なくデバートの4階の喫茶室に行く。

 ここもいっぱい。上の食堂街へあがるエスカレーターの中で私は言った。

 「デパートヘ入る時、お宅はつぶれかけてますか、どこの喫茶室が一番まずいですか、って聞いて行けば、多分空いてるわね」

 「それだけじゃ足りないよ。どこが一番まずくて高いですか、って聞かなきゃだめだよ」

 つぶれかかってはいそうになかったが、とにかく坐れる店を見つけて、アンミツとお茶にありついた。

 そこで一息入れて、インド料理を食べに、赤坂の「タジ」に行った。太一は、「雑巾くらいの大きさのナン(インド式バン)」を4枚食べた。


2月24日

 午前10時の新幹線で三河安城に行き、車で一色町まで移動。教育に関する講演会。7時近く、新横浜へ帰って来て、シューマイを買って帰った。


2月25日

 日本財団へ出勤。執行理事会、国際部案件の説明を受け、笹川スポーツ財団と、5月の東京シティ・マラソンの打ち合わせその他。


2月26日

 日本財団へ出勤。電光掲示板原稿選定ミーティング。執行理事会。北京大学の関係の方。ボランティア支援部事業説明。国際部案件説明。

 4時半、海外邦人宣教者活動援助後援会が1998年以来奨学資金をお出しした韓国人のシスター朴智淑さん(シャルトル聖パウロ修道院)が仙台白百合女子大学の人間学部を今年ご卒業だというので、ソウル管区長とお礼に見えた。日本語もすっかりうまくなられて、今後アメリカのニューオーリンズで英語の勉強をされてから、もともとの老人介護の職場に復帰される由。こういう良い方がどこの国であれ、1人育つことに手を貸す機会を与えて頂いて、私たちの方がお礼を言いたい。

 夜、財団の1階ホールで、阪田寛夫氏の構成で「シリーズ音楽会、童謡の天体」の第1回が始まった。歌い手は川口京子さん。今日は平井裕子(龍笛【りゅうてき】、箏【そう】)、中村仁美(篳篥【ひちりき】)、早川順子(笙【しょう】、和琴【わごん】)、八木千暁(琵琶【びわ】、龍笛)という方々にも出演して頂いて、童謡の始まりの部分。

 篳篥でスコットランド民謡「アニー・ローリー」を、横笛で「瀬戸の花嫁さん」が演奏された後、信時潔の作曲による荘重な「海行かば」とは全く違う「うみゆかば」が演奏された。日本の伝統的音階で作った部分と、西洋音階の軍艦マーチとが合体したものだが、普通私たちがパチンコ屋で聞いている軍艦マーチの原点だという。音楽会が終ったあと、パリで会ったフランス人が「驚いた、驚いた」と日本語で言いながら帰って行った。
 

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