共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 「ハンセン病にみる人権問題」  
コラム名: 特集  
出版物名: 多磨  
出版社名: 多磨全生園自治会企画編集委員会  
発行日: 2002/04  
※この記事は、著者と多磨全生園自治会の許諾を得て転載したものです。
多磨全生園自治会に無断で複製、翻案、送信、頒布する等多磨全生園自治会の著作権を侵害する一切の行為を禁止します。  
   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 昨年10月、私は、チェコのプラハで行われた国際会議で、ハンセン病と人権をテーマに論じて参りました。以下にご紹介させていただくのは、その日本語訳であります。

 本来なら、私とハンセン病のかかわりから説明しなければならないのですが、これにつきましては、菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』2002年2月号掲載記事(9〜14頁)をご参照いただき、ここでは割愛させていただきます。

 チェコの会議は人権問題をテーマとする国際的な賢人会議でありました。ハンセン病の専門家会議でなく、このような大きな国際会議でハンセン病と人権の問題が論じられたのはこれが初めてのことであろうと存じます。読者の皆様は、本稿を読まれて「なんだ、この程度か」と思われるかも知れません。しかし、世界各国から集まった同会議の参加者と聴衆はハンセン病についてほとんど知識のない人々でありましたし、また報告時間の制約もあって意を十分つくせなかった点はご留意の上、ご一読、ご批判を賜れば幸いです。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ハンセン病と人権」

 私は30年以上にわたってハンセン病制圧の仕事にかかわってきた。
 なぜ、今ハンセン病が問題なのか、不思議に思われる方も多いと思う。
 ハンセン病の問題は2つに分けられる。感染症としての医学的問題と、もう1つは社会的問題、すなわち病気が治っても残る身体的障害などからくる偏見による差別の問題である。

 医学的にはハンセン病は細菌によっておこる慢性的な感染症で、皮膚や末梢神経が冒される。四肢や顔面などに時として著しい変形をきたすこともある病気である。偶然にえらばれたかのように、ある人々に病状が容赦なく進行するが死に至らしめるものではない。しかし、このような特徴からこの病気は人々に恐れられ、すさまじいスティグマ(汚名)の対象となった。これは、患者たちに死よりも深い苦痛をあたえるものであった。

 われわれ関係者は、WHO(世界保健機関)とともに長いハンセン病の歴史に幕が降りる日を2005年と定め、最後の努力をしているところである。今日この病気はMDT(Multi-drug Therapy)とよばれる複合療法により、1年以内に完治する病気となった。この5年間、私の勤める日本財団は全世界で必要とされるMDT治療薬のすべてを無料配布してきた。WHOでは人口10,000人に1人以下をもって公衆衛生の見地からの制圧といっている。1985年以来116カ国で制圧され、制圧未達成国は、インド、ブラジル、ミャンマー、ネパール、モザンビーク、マダガスカルの6ヶ国へ激減した。WHOのハンセン病制圧特別大使として私に課せられた仕事は、残るこれらの国々において、いかに迅速に効果的に制圧の活動を進めるか、当該政府やNGOの努力を後押しすることである。

 このように公衆衛生上の問題としてのハンセン病はようやく制圧の見とおしがついてきた。今、私達の前に立ちはだかるのは、もう1つのハンセン病に伴なう困難な社会的問題、すなわち偏見による差別の問題である。社会はハンセン病患者にどのように対応してきただろうか?ハンセン病と人権とはどのような関係があるのか?

 その答えはすでに歴史が明らかにしている。ハンセン病については、古来から世界各地の数々の文書に記載がみられ、新・旧約聖書・中国の古文書、紀元前6世紀のインドの古書などにも記述がある。また、ハンセン病を病む人にかかわる数多くの絵画も残されている。

 このような古い時代から、ハンセン病は、人々の心深くにある異なるものに対する恐怖感を一点に集める標的となってきた。この病気に対する社会の反応のなかに、時代を問わず、国を問わず、宗教を問わず、文化を問わず、極めて共通した「排除」の思想をみることに、驚かされる。ハンセン病は人類の歴史上、もっとも忌み嫌われた病気であり、患者は社会の究極のアウトカーストとして、人間としての存在を否定されて生きざるを得なかった。

 家族は勿論のこと古くからどの社会でもハンセン病患者は前世に罪を犯した者、穢れた者として扱われ、追放され隔離されてきた。19世紀なかば、ダミエン神父が奉仕したハワイ・モロカイ島のカラウパパ療養所は、蔓延するハンセン病への危機感から、患者達を、隔絶された絶海の地に「放逐した」例であった。南アフリカ共和国のロッベン島は、ネルソン・マンデラ前大統領が長く幽閉された島として知られているが、その前身はハンセン病患者の隔離島であった。エーゲ海に浮かぶ島々、アジア諸国の島々、数知れない隔離の島々が世界に存在した。そしてその中では、多くの患者たちが、人としての権利を奪われて生きた。

 ハンセン病を一度発病すると、家族からも排除され、親族の名誉のために自らの名前さえ消し去り、社会に存在しない者となった。したがって彼ら自身が社会的に発言することなどまったくできなかったし、家族たちさえ、彼らを見放した例が多い。患者たちは強制的に与えられた識別のための番号以外、自らのアイデンティティを完全に失なったのである。アメリカでもルイジアナ州カービルにあった国立ハンセン病センターの患者たちには、参政権さえも許されない時代が1940年代まで続いていたことは驚くべきことである。

 インドネシアの療養所を訪ねたときに85歳になるという元患者に出会った。彼女は家族と別れ12歳の時から療養所に暮らしてきたという。病気が完治したのだから家族のもとに帰らないのかという私の問いに彼女は、「帰れば家族に迷惑がかかるし、家族も喜ばない。私はここで1人で淋しく死んでゆく」と答えた。同様な悲しい話は世界中に数限りなく存在する。ハンセン病を病んだ人たちは一生を終わっても家族のもとへは帰れない。家族はその関係を否定し、遺骨の引き取りさえ拒んできた。

 このように、一番身近な家族からさえ見捨てられる運命にあったハンセン病の患者・回復者たちの問題は人権問題のリストに含まれて議論されることもほとんどなかった。

 ハンセン病にまつわる数々の悲劇は、決して遠い過去に葬り去ってよいものではない。ハンセン病の問題は、次に述べる2つの意味で21世紀の今も、極めて今日的な課題をわれわれに投げかけている。

 第1に、アジア、アフリカの開発途上国を中心に、ハンセン病は依然として公衆衛生上の問題であり、年間60万人あまりが新たにハンセン病と診断されている。有効な治療法がある現在、変形や障害の発生を未然に防ぎ、過酷な差別と排除の歴史から訣別するために、患者の早期発見と速やかな治療は、未来の世代に対する、世界の共通の課題である。

 第2は、ハンセン病回復者たちの人格の尊厳と社会的認知の問題に我々がいかに真剣に取り組むかだ。日本ではつい5年前までハンセン病患者の隔離を正当化する法律が存在していた。社会から排除された元患者たちが法によって奪われた人権の補償を求める国家賠償訴訟を起こし、2001年5月、勝訴した。元患者の原告たちが勝利し、政府が率直に誤りを認め控訴を断念したことは、世界的なニュースになった。「人権とは空気のようなものだ。私は今日初めて、自由に息が出来る気がする。」これは、原告団の1人である元患者が、勝利の判決直後に自分の気持ちを表現した言葉だ。

 ハンセン病が不治の病として恐れられていた1920年代の暗黒の中で、ハンセン病を病みながらも自らの人間性を高くかかげて生きた日本の歌人、明石海人は次の言葉を残している。「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ、どこにも光はない。」
 今まで社会的存在を否定され、声をあげることも出来なかったハンセン病を生きた人々が、自ら光をはなち、声をあげる場所が今こそ必要であることはいうまでもない。

 これに答える動きとして、国際的には、世界ではじめて、ハンセン病回復者による回復者のための支援ネットワークが形成された。これは、アイデア「平等・尊厳・経済的前進のための国際協会」(IDEA?International Association for Integration’ Dignity and Economic Advancement)と呼ばれ、回復者自らの能力や業績、知恵をもとにハンセン病のイメージをより積極的に良い方向へ向けるためにお互いが力を出し合い、声をあげ、社会に向けて活動する組織である。われわれは、このまだ小さな組織の発信するはかりしれない大きなメッセージを極めて重要なものと受けとめ、支援を継続している。

 先ほどインドネシアの老婦人の話をしたが、「われわれは死んで火葬場の煙になって始めて故郷に帰るのだ」という日本の元患者たちの言葉もある。ハンセン病の歴史は、ひとつの病気が、1人の人間の、そして家族の、全人生を決定してしまうということを如実に物語る歴史であった。

 20世紀、医学は多くの進歩を記録した。科学はある場合には神の領域に達しようともしている。21世紀、その目覚しい進歩の陰にともすれば見落としがちな人間の尊厳と人としての権利を、しっかりと見据えていく必要のあることを訴えたい。人類共通の負の遺産ともいえるハンセン病問題を、反面教師として、今日、改めて見なおすことを私は提唱したい。そして、その結果を学校教育やメディアなどを通した啓発活動に反映して行くことが重要である。それが、21世紀に、人間の尊厳・権利が尊重され、かつ多様な文化、多様な民族、多様な個性が認められ、ともに生きる社会を構築する重要な鍵であることを私は強く訴えるものである。

 了

(2001年10月15日)

≪ 追記 ≫

 フォーラム2000会議は、私(笹川陽平日本財団理事長)とチェコのハベル大統領、ノーベル平和賞米国受賞者エリー・ウィーゼルボストン大学教授が発起人となり1997年に始まった国際会議です。

 この会議は、冷戦終結後新たに表面化してきた民族問題、宗教間抗争、地域紛争、人口問題、環境問題等人類共通の課題について、世界の様々な分野の指導者が対話を通じて解決方法の模索をし、また、新たな世界秩序の構築を図ることを目的として、過去、5回にわって、毎年チェコ共和国のプラハ城で開催されてきました。

 これらの会議には、ビル・クリントン、ヒラリー・クリントン前米国大統領夫妻、リヒアルト・ワイツゼッカー前ドイツ大統領、ソアレス元ポルトガル大統領、ヨルダンのハッサン皇太子、また、ノーベル平和賞受賞者はネルソン・マンデラ南アフリカ共和国大統領(当時)、ウィリアム・デ・クラーク元南アフリカ大統領、ダライ・ラマ師、アリアス・サンチェス元コスタリカ大統領、エリー・ウィーゼル、ラモス・ホルタ師等など、毎年約40名、延べ200人を超える世界的指導者が参加し発言してきました。

 第5回の最終会議は、「人権?グローバルな責任の探求」というテーマのもとで2001年10月14日から17日まで行われましたが、特に、本会議第1日目(10月15日)の午後のセッションは、「病気と人権」と題して、私が、ハンセン病にかかわる人権問題を基調報告しました。同報告のあと、アイデア(IDEA)の事務局担当アンウェイ・ロウさんの発言と、笹川記念保健協力財団の紀伊國献三理事長の総括がありました。

 会議後、東チモールの外務大臣でノーベル平和賞受賞者ラモス・ホルタ師から、「自分の身近にこのような重要問題があったとは知らなかった、帰国後早速調査をする」との発言があったように、このセッションは、多くの参加者に大きな衝撃を与えるものとなりました。

 読者に誤解を与えないために付言すると、私は、2005年までに各国人口1万人に1人以下に患者数を減らすことをハンセン病制圧の大きな一歩と位置付けています。しかし、1万人に1人以下になっても新しく患者は出るわけですし、障害をもった回復者も存在します。私は偏見に基づく差別の解消と新生患者ゼロを実現することが最終の目標であると考えています。昨年10月12日、世界保健機関(WHO)のブルントランド事務局長(元ノルウェー首相)との会談の折、私が同氏にハンセン病の医学的側面だけでなく、人権問題についても大いに関心を持ってもらいたいと提案したところ、同氏が熱心な賛意を表明してくださったこともここに報告しておきたいと存じます。

2002年2月25日
 

『菊池野』2002年2月号掲載記事  
ハンセン病とは?〜ハンセン病は治る病気です  
世界保健機関(WHO)が日本財団理事長笹川陽平をハンセン病制圧特別大使に任命  
日本財団理事長笹川陽平がミレニアム・ガンジー賞受賞  
フォーラム2000関連  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation