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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 寛容と愛?穏やかに生きられる社会を  
コラム名: 自分の顔相手の顔 516  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2002/03/27  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昨年9月11日の同時多発テロ事件以来、再び人間をグループでくくるという暴挙が、一種の世界情勢の分析として採用されるようになって来た。私はキリスト教徒でイスラム教徒ではないから、と思っていたのだが、思いがけずイスラムと同じ一神教非難の波が時々しぶき程度には顔にかかるのを実感している。

 「キリスト教は、自分たちの神だけが正しいと信じていて、他の宗教を排除する」としたり顔に言う論拠は、聖書のどこにもない。聖書は私たちに、できそうもないほど許しと寛容を求めているのである。

 或いはキリスト教は人に向かって「あなたは罪人です」と言うからいけないと書いている人もいたが、これは主語を間違えたもので、大きな教義上の誤解である。「裁いてはいけない」という教えがある以上、「あなたは罪人です」などと断言する非難の姿勢はあり得ないのである。裁判関係者でも言えるのは「あなたはこの点について間違えました」ということだけであり、どうしてもこの手の言葉を使いたいのなら、「私たちは罪人です」ということになる。しかしこういうキザな表現は、内心の実感であっても、あまり言葉にしない風潮がある。わざわざ言わなくても、人間が間違いを冒すのは自明の理だから、できの悪い芝居の科白のように感じられる。

 一神教は排他的だから他宗教はいけないものとして闘いを挑むのだ、キリスト教しかり、ユダヤ教しかり、イスラム教しかり。だから多神教の仏教が立派なのだと言うが、そんな簡単な図式でもない。寛容な人と狭量な人は、どの信仰にもいるという程度だろう。

 たまたま私の手元にある3月18日付けの新聞によると、インド東部の町で、200人近いヒンドゥ教徒がイスラム教徒たちを襲い、2人を殺し15人に怪我をさせた事件が報じられている。これは最近起きている一連の暴力事件の一部なのだが、元はアヨドゥヤという所で、破壊されていた一神教であるイスラム教のモスク跡に、多神教であるヒンドゥ教徒たちが(挑発的に?)寺院を建てようとしたのがきっかけである。ヒンドゥ側は、イスラム教徒たちが、牛を殺そうとしたとも言って怒っている。ヒンドゥは牛を聖獣とみなしているからだ。

 一神教だから狭量で、多神教だから寛大なのではなく、すべての人は、穏やかに生きるだけの経済的社会を与えられ、自分で深く信仰についても学び、判断できるように充分に教育されれば、自然に寛容と愛を知るようになる。と私は信じている。
 



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