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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 人生の雑事、すべて取り揃え  
コラム名: 私日記 第28回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年12月18日

 日本財団理事会、新規採用者の面接試験、賞与支給、インタビュー、案件説明。その上、夕方からは記者懇談会。夜は財団の1階ホールで上原正敏さんの透明で甘いテノールのクリスマス・ソングに酔う。その後、外務省の麻布台別館で外務省改革・現状報告。渦中の野上事務次官他。人生の雑事、すべて取り揃えた、という感じ。

 太郎(息子)の妻・暁子の父上、田中晋氏、死去の報。


12月19日〜24日

 20日はうちで海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。21日は田中氏の密葬。最後までユーモアと明るさを失わない稀有な個性だった。こんなことになるとは知らずに、昨日、海外邦人宣教者活動援助後援会の食事のために多量に煮てあったおでんを持参する。お葬式が寒い冬の日になると、心も凍えるものだから。同日夕方は知人と夕食会。22日は国立劇場で『三人吉三廓初買』を見る。少し年末らしい忙しい日々。

 24日は夜7時のミサ。立錐の余地もないほどの人。高校時代は、学校に泊まって深夜のミサに出たものだった。


12月25日

 10時、日本財団で執行理事会。その後ボランティア支援部の予算説明。

 昼、堤義明氏にお会いする。

 2時過ぎ、最高検察庁、広渡総務部長。

 3時、伊藤忠商事、長谷川顧問。

 3時半、明窓出版、増本氏。

 インドの後遺症、食欲不振はまだ続いている。


12月26日

 太一(孫)と私たち夫婦とで、朱門の姉がいるフランシスコ・ヴィラを訪問。昼食をヴィラの方たちと頂く。太一、ご飯をお代わりしに行ってびっくりされる。お代わりする人など、ここにはいないのだ。


12月27日

 マッサージの治療を受ける。肝臓も胃もアタマも顔も全部悪い、と笑われる。午後、笹川陽平理事長、ゴルフの帰りに短時間来訪。来年の打ち合わせ。


12月28日

 日本財団で年末のお祓い。やっとどうやら間違えずに柏手がうてるようになった。

 納会のパーティーでココナツ入りのカレーを食べてから、国土交通省に扇大臣を表敬訪問。その後順天堂病院にお見舞いに立ち寄る。入院中の人、大変予後がいい。お正月は自宅に帰れるとのこと。めでたし。


12月29日〜31日

 ひたすらゴミを捨てる。人生を捨てる。そのうちに人間関係を捨てることになる。

「またしても生きて師走の土挨」


2002年1月1日〜5日

 1日午後、太郎一家やって来る。

 私が視力を失うのを覚悟した20年前、盲人になっても誰かとおつきあいできるように買った麻雀を、暮れに戸棚から発見。一度も使っていない。太郎、暁子、太一と私とでやる。朱門は見ているだけで、決して勝負事に加わらない。傍で余計なおしゃべり。浦和は麻雀と同じなんだ。東浦和、南浦和、西浦和、北浦和と中浦和がある。ただの浦和はパイパン。誰もあまり聞いていない。私は下手くそ勝ち。夜はお節料理。

 2日は、お墓参り。三浦半島の家に寄る。偏西風が強くて庭も歩けない。夕飯は三崎の魚音でお鮨。太一は40個以上食べる。遠慮して安い種を食べている。暁子さん「こんなに食べるんだったら、前にラーメンか何か少し食べさせておくんでした」と言う。

 5日、太郎夫婦も関西に帰り、私は帝国ホテルの天一で、武永賢さん(医師)とてんぷらの夕食をお相伴。


1月7日

 日本財団で年頭の挨拶。世界貿易センターの3000人の犠牲者より、日本で3万人の自殺者があることを考えて欲しいと願う。どうしたら精神的な衰弱を救えるか。

 昼、ハンセン病関係の会議で来日中のWHOのドクターたちとホテルオークラの桃花林で会食。

 午後、『Grazia』誌のインタビューの後、ホテル海洋で新春の集い。司会の若い男女の職員は、羽織袴とお振り袖。どちらもよく似合う。2人とも完全な二重言語人。

1月8日

 9時半、電光掲示板に出す日本の世論を新聞記事の中から選ぶ編集会議。英訳して掲示している。

 10時、執行理事会。

 11時「モルゲン」インタビュー。

 午後、いよいよ予算説明の時期。これからずっと予算を聞き続ける。

 夜、フジモリ氏(前ペルー大統領)より電話。明後日、拓殖大学でなさる講演についての幾つかの質問。日本の講演会のやり方と、私ならあまり政治的な話でない方が好ましく思うだろう、と申し上げておいた。何となく聞いてほしいという感じでもあったので、朱門と伺いに行きます、とお約束した。


1月9日

 今日も予算説明。夕方、1階ホールで第4回ミニコンサート。今日は日本太鼓連盟のお世話で、大江戸助六流ろう者太鼓「鼓心会」と、「大江戸助六太鼓」の2つのグループの出演。前者はつまり難聴者たちの太鼓である。「耳が闘こえなくて太鼓が叩けるの?」とびっくりする人もいるが、視覚的合図と、肌に響く振動とで立派に可能になるようだ。自分たちが太鼓を叩くだけでなく、こうした後進の指導もするというのは、なかなかできないことだろう。優しい気持ちだ。それにしてもミニコンサートは毎回入場者が増える。バイクのアルバイトをしているような青年が、ジャンパーを脱ぎ捨てて、急いで入って来てくれる。音楽はこうして生活の一部、今風に言うと生活の中の癒しになってくれる。ありがたいことだ。


1月10日

 朝9時から子算説明。

 10時半に財団を出て、長年うちで私の「奥さん」を務めてくれた吉田みさをさんの葬儀に代々幡斎場へ行く。田園調布で有名な美人だった。人前に出るのが嫌いだったが、誰もが、「あのきれいな方はどなたですか?」と聞いた。お料理が上手で、私が今日料理好きでいるのは、みさをさんに習った部分も多い。でもしゃきっとした歯ごたえの白い蓮根の煮物だけは、とうとうこつを習わずじまいだった。

 火葬場でお見送りしてそのまま拓殖大学へ。門前に20人くらいの学生ではないグループ(学生なら学生証があるから学内に入れるはず。しかし彼らは門の中に入っていなかった)がいて、私の顔も知っているらしく、ビラを渡す。席についてゆっくり読んで、思わず笑ってしまった。まず私の名前が曽根綾子となっている。ワルクチを言う時は相手の名前くらいは正確に書いた方がいい。

 曽根綾子はフジモリをかくまったとも書いてある。あの頃うちの中は警察だらけだった。機動隊、SP、所轄の警察署。フジモリ氏も私も、そうした人々から3メートルと離れないところで普通に暮らしていた。「かくまった」などという日本語は、そういう時には使わないものだ。

 今日の講演で感心したこと。第一はフジモリ氏のやわらかな口調。第二は、スペイン語でされたその講演の端正な日本語訳。どの教授がなさったのか知らないが、心がこもり芸術的である。


1月11日

 再び予算説明。今週は毎日財団へ出たことになる。夕方やっと三戸浜へ。


1月12日〜14日

 朱門は13日朝に三戸浜に来た。昨日の誕生日には、1人で東京の留守番をしていた。とは言っても、今日も別に何をするわけでもないけれど……三戸浜に来れば、大好きな柑橘類がたくさんなっているので喜んでいる。まあそれをお誕生日のお祝いにしよう。

 橙でママレードを作った。苦すぎるかと思ったが、うまくできた。

 パンジー、桜草、ガーデン・シクラメンを植えた。野生種に近いガーデン・シクラメンは露地に下ろしてもけなげに咲き続け、冬の庭にほっとするような彩りを見せてくれる。

 それからジャガイモを掘り、蕗の薹を採った。エンドウ豆は花盛り。嘘ではない私の歳時記である。知らない人が見たら私がでたらめを書いていると思うかもしれないが、本当だから書き留めておく。


1月15日

 再び予算説明。辞令交付。

 警視庁の雑誌『地域活動』の取材を受ける。昼食を兼ねて執行理事会。電光掲示板編集会議。何となく、マイナス・イオン不足気味の暮らし方だ。

1月16日

 子算説明の続き。

 3時半NECの相談役関本忠弘氏。

 4時半、小学館に『週刊ポスト』編集部の3人のツワモノを訪問。


1月17日

 午前中NHKのテレビ番組の打ち合わせ。今年で19回目になる障害者とのイスラエルなどへの旅行について語ることになっている。確かにこの旅行は20年近く前には、車椅子の人や盲人を外国へ同行するというので、画期的なものだったし、冒険的な要素も含まれていた。しかし今では皆がベテランの介護者になっている。今年も4月17日に70人の子定でギリシャヘ出るが、申し込みが多くて締め切りが早くなりそうだという。

 去年から遅れていた『原点を見つめて』の単行本のゲラ校正を、祥伝社にやっと渡した。


1月18日

 目黒の海上自衛隊幹部学校で単発の授業。

 その後すぐに埼玉県学校健康教育推進大会で講演のため浦和に廻る。

 午後4時過ぎ、海竜社の仲田てい子さん、来訪。連載中の『私日記』の出版のための原稿を渡した。


1月19日〜21日

 19日、うちで働いてくれている藤野千利子さん、休暇でブラジルに帰る。

 三戸浜へ行く。先週植えた花がどうなっているか心配。31日から出かけるシンガポールで食べるためにお魚の安い店に行って、今からブリを味噌に漬ける。2週間以上漬け込まないと、しっかりした味にならない。


1月22日

 9時半、マラソンの有森裕子さん、来訪。カンボジアの子供たちのために、アンコール・ワットの周辺を走るマラソンをしておられる由。私はもう長いことアンコール・ワットに行っていない。遺跡のそばの古いプールの階段のところで土地の人が食用蛙を調理していた。そのももの筋肉が日差しの中で徴かな桃色を帯びた銀色に光っていた光景を、なぜか今でも思い出す。食用蛙はももの肉だけ食べるのだ、とその時知ったのだ。

 10時、執行理事会。

 11時、石川県土地改良事業団体連合会のインタビュー。金沢について。

 12時、新潮文庫の富澤祥郎さん。

 1時、光文社社長並河良氏他6人。

 1時半、事業評価会社からの報告を聞く。2時半から、聖パウロ女子修道会の聖堂をお惜りして、NHKの「聖地巡礼」の旅の話の2日分を収録。つまり障害者と海外旅行に行く体験を語るのである。聖堂を俗事に使うのはほんとうはどうも落ち着きが悪い。ここは本来祈りの場所だから、他の目的に使うのは違反みたいな気がする。しかしNHKの演出だから、口は出さないことにしよう。


1月23日

 息子の誕生日。朝、ファックスを打つ。

 午前中に三戸浜へ移動。清冽な富士。適当な切り花がないので、橙の枝を切って来て、花瓶に差す。この家でも、植えるもの以外、切り花は買わないことにしている。鮮やかな夕映え。


1月24日

 スリッパが古くなり数も足りないのがわかったので、スーパーに買いに行った。一足290円である。セール中とは言え、どうしてこんなに安いのか分からない。

 また大根を薄揚げで煮る。苺を4箱、560円で売っていたので、ジャムを作ることにする。


1月25日

 朝、昨夜からお砂糖をかけて少し発酵させて下持えをしておいた苺を煮た。酸味の少ない苺のようで心配していたが、最近にない、いい味になった。

 お客さまから、すばらしい梅の花を頂く。薄いオレンジと白のぼかしの梅である。部屋の中に香りが立ち込めた。

 夕方東京へ戻る。頂いた梅は再び玄関に飾った。

1月26日

 11時半発の新幹線で名古屋へ。快速に乗り換えて岐阜で国際ボランティア貯金シンポジウムの講演。私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会はこの国際ボランティア貯金も受けたことがない。もちろん政府のお金も受けない正真正銘のNGO(非政府組織)である。だから自由を手にしている。

 帰りの岐阜駅で、切符の指示通り「特急しらさぎ」を待っていたら、アナウンスもなしで全然来る気配もない。仕方なく次の快速に飛び乗って名古屋駅で走ったが、30秒くらいの差で、乗るべき「のぞみ」に遅れてしまった。

 運よく4分ほど後で入って来た「ひかり」に乗れたから何の不都合もなかったのだが、検札の車掌さんに「どうして『しらさぎ』は来ないとアナウンスがなかったのでしょう」とできるだけ非難にならないように聞いてみた。車掌さんは、「ちょっとそちらの方までは、情報を得ておりませんで」と言う。当然である。ところが20分ほどするとわざわざ私の席まで、富山でポイントの故障があったようで、と説明に来てくれた。何という誠実だろう。日本はまだ落ちぶれてはいないぞ、と思う。

 19時少し前、新横浜着。車で迎えに来てくれた藤野さんのために、小さなシュウマイの箱を買って改札口を出た。


1月28日

 海外邦人宣教者活動援助後援会の年次報告を発送する日。昨日ぎりぎりに私が書き終えたご挨拶の文章を朝からうちのプリンターで刷ろうとしたら故障。世の中はこういうものだ。実は青くなったのだが、それでもすぐ直しに来てくれて、昼までには3000枚近くを刷り終えた。機械はほんとうによく働く。

 午後1時から、大学の後輩6人も来てくれて、総勢10人で、紙を畳んで、封筒に入れて、封をする流れ作業。それでも馴れているので3時間ちょっとで終る。今朝から私がお汁粉を煮たので、3時には白玉を作って皆で食べる。ご苦労さま、ありがとうございました。


1月29日

 日本財団で5月19日に行われる東京シティ・ロードレースについて打ち合わせ。全額費用を負担するのは日本財団だが、今年からコースも大きくなり、主催者の顔は東京都になった。とにかく車椅子の人や、盲人や、知能障害のある人が、いっしょにのびのびと走る姿を、マスコミが報道してほしいと思う。

 10時、執行理事会。

 11時、電光掲示板編集会議。

 午後1時半から、NHK文化センター青山教室で講演。

 5時、毎日新聞社に斎藤社長、中島常務を訪問。


1月30日

 私1人で食料と本をたくさん持って、シンガポールヘ向かう。今日から2月11日まで休みと仕事。

 空港まで陳勢子さん迎えに来てくれる。ナシム・ヒルにある自宅のマンションの台所で、勢子さんと持参のお握りを食べて夕食にしてしまった。(ところが夜中に猛烈にお腹が空いて、おせんべいを食べた。おかしな満腹感)


1月31日、2月1日

 電球の切れたのを2個換えた。私は修理が割と好きだ。しかしワープロの調子が悪いのにはうんざりする。もっとも予備機が2台もあるから仕事には差し支えない。メーカーに修理を依頼する。

 原稿を書く合間に、ベッドにひっくり返って、部屋の前のタンブスの巨木が風に揺れるのを時々見ながら、E・M・フォスターの『インドヘの道』とフィロンの『フラックスへの反論』『ガイウスへの使節』を交互に読む。『インドヘの道』は前回読んだ時にはここまで細部の意味が読めていなかった。インドが少しわかりかけて来たかと思うと嬉しい。しかしそれにしても、何という明晰にして強烈な筋の構成と細部の構築力だろう。

 フィロンはヨセフスと並ぶ当時の著述家だが、ガイウス・カリグラ帝の紀元38年の夏に、アレクサンドリアで起きたユダヤ人の大虐殺の記録を残したのである。私は『アレクサンドリア』と『狂王ヘロデ』という小説を書いて以来、この時代とこの世界に触れる道楽を覚えた。読みながらしきりに亡くなった恩師・堀田雄康神父のことを思い出してしまう。私が少しにせよ、ギリシャ文字が読めるようにしてくださったのは師のおかげである。もっともエルサレム(ヘブライ語ではエルシャライムだが)のギリシャ語読みが「ヒエロソリュマ」だということは、今日まで知らなかった!


2月2日

 朱門、シンガポール着。

 荷物の中から、大根とすばらしいウドが現れる。私が頼んだからだが、これで明日から皆にウドも食べさせられる。勢子さん、夕食にタングリン・クラブに連れて行ってくれる。朱門は酢豚、私はロースト・ビーフ。


2月6日

 フランクフルトからクライン孝子さん、日本から海竜社社長・下村のぶ子さん到着。
 

ハンセン病とは・・・  
「東京シティロードレース2002」について  


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