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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 豪華客船の旅?「1914年」を語る老人の声が  
コラム名: 自分の顔相手の顔 510  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2002/03/06  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昔、世界一の豪華客船で、横浜からロスアンゼルスまで旅をしたことがある。遊びではなくて、中で日本人のグループに講義をするのが任務であった。

 豪華客船の旅ほど楽しいものはない、という人もいるが、私はそうは思わなかった。何しろ、乗っているのが高齢者ばかりなのである。当時私は40歳くらいだったから若い方だった。だからエレベーターのドアが普通に開いている間に、乗り込めないほど行動の遅い老人がたくさんいるのには驚いてしまった。

 私は朝から、誰もほとんど利用しない図書室に行ってひたすら仕事をしていた。カジノにもダンスにもバックギャモンにもほとんど興味がない。英語は少しはできたから、船内で行われるカルチャーセンター的な日程表にはいつも眼を通していて、ユダヤ教入門などという講義にも出た。クレイ射撃もやってみたかったが、その当時私は今ほど視力がなかったから無理なような気がした。

 食事の時、私は同じテーブルに割り当てられた夫婦と身の上話をするようになった。50代の夫婦の奥さんの方は細く弱々しそうな人で、始終食事に出て来なかった。私は初め一方的に、彼女はもう末期に近い癌で、夫婦はそれを覚悟で旅をしているのだと推測していた。

 日曜日になって私は船内のミサに行った。そこで同じテーブルの夫婦と会ったことから我々はもっと親しくなった。驚いたことに、癌の末期で旅をしていると思われた夫婦は、実は新婚旅行であった。2人ずつの子供持ち寄りの結婚で、2人はスペイン語のクラスで知り合ったのだという。ただし夫人の方はパーキンソンを病んでいて、夫はそれを承知で結婚したのである。私は感動した。

 或る夕方、デッキでお茶を飲んでいると、1人の老人のしっかりした声が「あれは1914年のことだったな」と純粋のイギリス風の発音で言うのが背後で聞こえた。それとなく後を見ると、声の主は全く1人でテーブルに坐っていた。同じテーブルにも近くにも、私以外に坐っている人はなかった。彼は1人で昔を語っていたのである。

 果たしてこの航海中に1人の船客が死んだ。老人ばかりなのだから当然である。私は船内新聞でそのことを知った。私の部屋は左舷にあったので、ハワイに着いた時、警察が来る気配でも見えるかと思って私はずっと窓から首をのばして見ていたが、岸壁は静まり返っていた。船には何体の遺体を保存できる冷蔵庫があるのか、と私は考えていたのである。
 



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