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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 2度独立した国バングラデシュ人民共和国(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/03/12  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ キーワードは「洪水」と「貧困」 ≫

 あの同時多発テロ以来、パキスタンはつとに人口に膾炙(かいしゃ)している。だが、インド亜大陸を挟んで、東端にあるバングラデシュは、元は同じ国だったのに、西端のパキスタンに比し、国際ニュースの舞台から遠ざかったまま影が薄い。パキスタンの報道を読むほどに、バングラデシュの旅行記を書きたくなったのである。

 私がこの国に出かけたのは、2000年の暮れ、それも年の瀬の12月21日から24日であった。日本財団は、この国の大学生にささやかな奨学金を提供しており、その授与式に出かけたのだ。

 バングラデシュとは、「ベンガルの国」という意味であることは知っていた。この国は2度独立した。もともとはインドの一部だった。その頃の「ベンガル」とは、今のインドの西ベンガル州(カルカッタのある州)と合わせた広大なデルタ地帯、インド領ベンガル州を構成していた。バングラデシュの地域が、インドから分離されたのが、1947年8月のことだ。インドからのパキスタンの離脱(独立)の際、旧ベンガル州は、ヒンドゥー教徒の人口分布にほぼ沿った形で2つに分かれた。

 その西の部分がバングラデシュで、「パキスタン・イスラム共和国」の東パキスタン州と名乗っていた。これが、この国の第1回目の独立だったが、ベンガルのイスラム教徒の希望は、裏切られた。

 当時の西パキスタン(今のパキスタン)は、ベンガルを差別扱いし、経済開発は後回し、おまけに西パキスタンの言葉であるウルドゥー語を国語として押しつけられた。これがもとで暴動が起こり、西パキスタン軍が出兵、ベンガル解放連盟との間に内戦が勃発した。1971年12月、インドの軍事支援を受けて、パキスタンの支配から脱し、新しい国を創った。それが、バングラデシュの生い立ちだ。

 バンコクから、首都ダッカヘの飛行機の中で、バングラデシュをイメージする。その時、持参した旅行案内書、『Lonely Planet』には「バングラのキーワードは、サイクロン(台風)、貧困、人口過密、洪水。そしてインドに近いこともあって観光客に人気なし。ただしこの国は、世界一大きく、素晴らしいデルタ(河口の三角州)に位置している」とあった。

 ダッカのジア空港に着く。

「この国の税関は外国人に評判が悪いから……」現地の仏教徒のNGO、「バングラデシュ奨学金協会」のバルア夫妻が、税関のゲートの中まで入って出迎えてくれた。ダッカは人口、900万人、2度目の独立後、10倍に急膨張した。因みにバングラデシュの国土面積は日本の40%、そこに1億3000万人もの人間がひしめきあっている。世界一の人口過密国だ。ダッカはちょうどこの国の中央に位置している。

 ダッカもデルタ地帯の町だ。わずかに起伏はあるが、どこを見回してもおよそ高台というものがない。ポドマ川(ガンジス川)とジャムナ川(同プラマプタ川)の合流点のやや南に位置している。

「1988年のモンスーン期には、この2つの川が同時にあふれ、2000人がおぼれ死にました。ダッカの空港も浸水し閉鎖されました」

 バルアさんの解説だ。にわかには信じ難い話であった。この季節のダッカは乾燥している。空気はドライで、ほこりっぽい。太陽は、砂塵と車の排気ガスでぼんやりと赤く見える。道路脇の小さな川は、ほとんど水が涸れている。


≪ リキ車の演ずる 動く「展覧会の絵」 ≫

「まるで砂漠の都市みたいですね。洪水があったなんて想像できない」と私。

「バングラデシュには3つの季節がある。雨期、乾期、暑期です。今は乾期で10月下旬から2月初めまで、ほとんど雨が降らない」とバルアさん。「でもそれだけではない。ガンジス川にインドが、巨大なダムを下流のこの国に相談なく建設してから、ダッカはほこりっぽくなった」とつけ加えた。

 インドのダムはFarakka Damと言い、1974年、バングラデシュとの国境からわずか15キロの上流に建設された。乾期にダムの水を流し、農業の灌概に使っている。おかげで乾期にはこれまでの15%しか、ガンジス川の水が来なくなってしまったという。

 窓の外を見ていてバルアさんが突然叫んだ。「アッ、忘れていた。大事なこと教えてあげます。バングラデシュのカラフルなリキシャです。ダッカには35万台、世界一のリキシャの都市です」。まさしくその通り、ダウンタウンに入ると、われわれ一行の車は、リキシャにはばまれて動けなくなった。リキシャ(2人乗りの幌付き二輪車を自転車で引く人力タクシー)が前後左右にひしめいている。

 バングラデシュでは、このミニ・タクシーをRickshawと呼ぶそうだ。

「バルアさん。このリキシャ、原産地はどこの国か知ってますか」。車中の“力車談義”である。「中国じゃないんですね?それなら日本でしょ」

「そう、当たり。あれは日本では輪タクと言ってね、第二次大戦直後、大都会で流行ったけど5年ぐらいで姿を消した」

「政府は交通渋滞と事故の原因なので、免許の発行を制限し、段階的に廃止すると言ってるけど、この調子だとなくならないでしょう」。因みに1キロで10タカ(20円)、でベビー・タクシー(小型三輪車)の4分の1、低所得者(月給5000タカ以下)も重宝しているとのことだ。

 この街には緑がない。とくに乾期は、町中が乾いたほこりの茶色一色で、殺伐とした光景が展開している。モノカラーのダッカに色を添えているのが、実はリキシャの群だった。この国のリキシャは、なぜかカラフルだ。花・鳥・草・月のほかに魚や獣、幾何学模様もあり、動く「展覧会の絵」を鑑賞するような気分になる。錫紙か、ビニールに印刷したリキシャ装飾用のさまざまな図柄の大判の張り絵を売る自転車屋街がダッカの旧市内にあるとのことだ。1枚、土産にと思ったが、あまりの交通ラッシュと人混みに恐れをなして断念した。


≪ 混乱と混沌の巷 首都大脱出 ≫

 私がダッカを訪れたのは、1カ月におよぶイスラム教の断食の儀式、ラマダン明けにあたり、雑踏が1年中で最もひどい日だったのである。この国のイスラム教徒は、人口の85%を占めている。12%がヒンドゥー教徒、仏教とキリスト教はそれぞれ1%以下だ。ラマダンに入ると、朝5時に起床し、日の出前に朝食をとる。日中は食事抜きだ。夕方には道端に軽いスナックや揚げ物の屋台が出る。家に戻っていきなり空腹を満たすと体に悪いので、少しだけ胃袋に入れて帰る人のためだという。

 ラマダン明けの日、私の泊まったホテル(普通は外国人用)のレストランは、1人前20ドルの“断食明けディナー”のビュフェしかなかった。それでも庶民には手が届く値段ではないがそれでもムスリムの大家族やグループで、ごった返していた。ビリヤニという名の肉と米をまぜた炊き込みご飯が一番人気のようで固まりのまま入っている肉を手づかみで食べていた。ほんの少し試してみたが、山羊や牛肉は、シナモンの実で香りがつけてあった。断食明けのイード(お祭り)が終わると、ダッカに出稼ぎに来ていた人は、マーケットで買い物をしたあと一斉に田舎に帰る。普段でも混雑しているダッカは、この日は、混乱と混沌の巷(ちまた)となる。

「今日だけは、街に出るのはやめてください。安全が保証できません。私たちも家で静かに過ごします」

 仏教徒のバルア夫人は、このイスラムのお祭りに食傷気味のようで、そう忠告してくれた。この日ラマダン明けのダッカの下町では何が起こっていたか。「ダッカ大脱出。帰省客、超定員オーバーの船で命をかける。救命具なし。運航許可なしの老朽客船も。サンダルガート埠頭で」「喧騒と雑踏の中、100万人帰郷。オールド・ダッカの市場は、帰省客でごった返した。リキシャとベビー・タクシーが群がり、通行不能となる。スリ、かっぱらいが横行。“警察に届けたって何もしてくれないよ”。これは金の腕輪と3000タカを強奪された被害者の声。この日は、汽車、船、バスいずれもチケットに3倍のプレミアがつく」

「今年のラマダン明けは、9日間の連休である。故郷に戻る人々の大脱出で、世界一人口密度の多いダッカもしばらくの間、静けさをとり戻すだろう。ラマダン明けの日、ダッカの市場は、買物客で身動きがとれなかった。政府、銀行、企業の従業員の大部分は、故郷に帰る。しかし、汽車、バス、船の切符が、闇マーケットでもなかなか手に入らず、帰郷をあきらめざるを得なかった人も大勢いる。とにかくバングラデシュは、人間が多すぎるのだ」

 翌朝の英字新聞3紙の報道である。盆と正月が一緒にやってきたようなこの日の喧騒。“新聞記者もびっくり”なのだろう。
 



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