共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 答えは石  
コラム名: 私日記 第25回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2001年10月4日

 昼前に日本財団着。雑用を少し済ませてから、海外邦人宣教者活動援助後援会の30周年記念の会を財団の食堂を借りて行うことについて、運営委員と日本財団ビルのメインテナンス会社との間で打ち合わせをしてもらう。1時半から『サピオ』誌取材。その後NHKホールでオペラ『トリスタンとイゾルデ』を観る。この序曲を聴きながらどれだけ連載小説を書いて来たことか。


10月5日

 9時から生命倫理専門調査会の会合。

 その後、国立劇場に廻り、『殿下茶屋衆』を観る。戸部銀作氏の補綴だというが、吉右衛門さん、富十郎さん、松江さん、梅玉さんなどの豪華配役で、最後まで文句なくおもしろかった。この文句なく、というところが実は大事なのである。演劇に理屈をつけるくらい、興ざめなものはない。小説も同じ。


10月6日〜8日

 ひたすら家で原稿書き。合間に魚を味噌漬けにし、エビ薯を煮、残り野菜でスープを作る。庭の黄胡蝶の花、見事に咲き続けている。柿も蜜柑もキイウィも今年は豊作。


10月9日

 10時から日本財団で、永年功労者表彰。

 表彰しながら、実は、なぁに大した年月じゃない、などと思っていた。私など47年間、ひたすら小説を書き続けて来た。もう1人、広報部の犬飼カメラマンは往年の通信社の報道部出身だから、氏と私が財団内唯二の永年肉体労働者である。ただ私は犬飼さんとほぼ同じくらいの年齢だが、とても体力では適わない。あの重いカメラの機材を持って後ろ向きに走るなどという技術は、今の私には真似できない。しかしとにかく若い世代が元気で長い年月よく勉強して働いてくれて、そして財団の中で、冗談が充分に通じる空気をかもし出してくれているのはほんとうに嬉しいことだ。

 執行理事会その他、社内の雑用ひとしきり。午後東京のボリビア大使館に行き、私が代表者になっている海外邦人宣教者活動援助後援会が、ボリビアに寄贈するために輸出する車輌についての申請書にサインする。

 夜は去年南米に行ったマスコミと中央官庁のメンバーとの「同窓会」。会費を2千円ずつ申し受け、食堂でお弁当を作ってもらっておいた。


10月10日

 午前中から午後、ずっとワープロに向かう。夕方特殊法人の民営化についての財団の立場をご説明に、総理官邸で小泉総理にお目にかかる。総理になられるずっと前、NHKのオペラでご挨拶をしたことがあるので初対面ではない。

 総理官邸の警備は、信じられないほどルーズ。車輔番号は届けてあったが、玄関では儀礼的に迎える人がいるだけで、私がうろうろしていると、同行の笹川陽平理事長は総理とお親しいらしく、誰の案内も乞わずさっさと2階への階段を上がって行く。どこに総理の執務室があるのか私も知ってはいるのだが、同級生でも総理になったら案内があるまでは玄関に立っている性格なので、おろおろしたあげくやっとおくれてはならじと階段を上がって秘書課に辿りついた。つまり警備はないに等しい落第点である。どんな知人といえどもボディー・チェックをするべきだろう。

 日本財団は、国庫からの交付金は全く受けていないし、完全な情報公開、天下りの理事は2人だけ、すでに完全に民営化しているという事情をご報告する。

「いいね、民営化賛成というところはないからね」

 と嬉しそうな顔をされた。

 帰りそのまま三戸浜の家に向かう。海の匂いを嗅いでほっとする。


10月11日、12日

 ひたすら原稿書き。もっとも朝、ほんの15分草取りをするつもりで庭に出たら、1時間半も働いてしまった。極楽鳥花が今年は何十本採れるだろう。まだ蕾は固いが、つんつんと何本も半ば空に向かって延びている。

 畑をしていてくれる藤野さんによると、同じジャガイモでも、日本種とペルー種とは、生育の速度が全く違うという。「同じ日に植えたものが、ペルーのはこんなに大きいです」と見せつけられて愕然。ジャガイモには三度薯という名前もあるのは当然だ。


10月13日

 日本テレビの「素顔が一番」という番組の録画撮りに午後十数人のスタッフ到着。

 畑をしているところと、家の中と、2カットで会話をしたいという。

「今、忙しくて、いつも畑をしているというとウソになるんですけどね」

 とは言ったが、日本財団に勤める前は、小松菜、水菜、サニーレタス、ほうれん草、チンゲンサイ、のらぼう、玉葱、パセリなどは作っていたのである。

 この土地に家を建てて、もう30数年。昔は庭箒を立てたくらいの大きさしかなかったカナリー椰子が、今はもう10メートルを超す見事な大木になった。今は花が一番ない時だけれど、幸いにも蜜柑がどうやら食べられるほどに色づいている。柑橘類は2、30本あるから、今年は500キロくらいはおいしい蜜柑が採れる。キイウィも3、400個は大きいのがなっていて、多分絵になるだろう。うちではお客さまを庭に案内して、「どうぞ木から採って召し上がってください」と言う。手がかからなくて、こんなに手抜きのできるおもてなしはない。しかし山本文郎さんと山王丸和恵さんのお2人はベテランだから、どんな話の切り口でも見せられる。


10月14日、15日

 朱門と姉の小杉璃理と、朝早くやって来て義兄の墓参り。お墓をきれいにして花を植えた。我が家の墓には花立てはなく、小さな花壇にしてあるのでお参りの度に花を植えるのである。朱門と姉は、15日早朝帰京。


10月16日

 朱門、早朝再び三戸浜に戻って来た。

 午後、能の寶生英照氏と私たち夫婦の鼎談を録る。その後でスタッフの方も含めて10人ほどが、私の手料理で食事。食卓が狭いので若い方たちには小さなサンルームのお茶用のテーブルで食べてもらう。


10月17日

 昨日、猫のボタが死んだ。享年24歳か5歳。

 秘書に頭を撫でられながら、大きな息を一つしてそのままだった、という。考えてみると、普通の猫の倍、いやもしかすると3倍も生きた。最期もほとんど病まなかった。前日獣医さんに行って、注射をしてもらった時には、「この猫は丈夫だから、まだ生きますよ」と言われたばかりだった。入院もせず、うちで息を引き取ったことが私は嬉しかった。私の母、夫の両親も皆うちで最期を迎えた。それはなぜか明るい記憶だ。

 毎朝、私たち夫婦が食事をしていると、このボタは「私の分の御飯はいつ?」といわんばかりに私の足に体をすりつけた。私が料理係だということをちゃんと知っていた。私は鶏肉は湯引きをしてやるし、なまりは魚焼きの網で表面を少し焼いてやる。そうすると香ばしくなるのである。それでも私は8時近くまではボタに御飯を待たせた。待つということ、心から餌を求める、ということが心と体の健康の秘訣だと信じていたからである。

 午後、蜜柑を積んで三戸浜から東京に帰った。午後から『女性自身』『月刊現代』『産経新聞』の取材を受ける約束がある。


10月18日

 終日執筆。今日が締め切りという原稿があって、外へ行く暇がない、と言ったら、財団から連絡のために2人家まで来てくれた。申しわけない。


10月19日

 新橋の美術倶楽部に、陶器の展覧会を見に行く。寸暇を惜しんでも陶器は見たい。病膏盲というべきか。土の器になぜこうも惹かれるのか恥ずかしい限り、と思いながら。


10月20日

 従兄の大和正道夫婦と私とで、東京タワーの近くの普茶料理「醍醐」で昼食。その後、ちょっと財団に寄って時間をつぶし、4時少し前、乾門の前で待っていた朱門を拾い、皇后陛下のお誕生日のお祝いに伺う。

 宮内庁の待ち合わせの部屋で、日野原重明先生にお会いしたので、知人の癌の患者さんを、10月30日に日本財団の1階ホールで行われる第1回のヴァイオリンとチェロの、ミニ・コンサートに連れ出してよろしいでしょうか、と伺った。これは財団が関連している日本音楽財団所有のストラディヴァリウスのチェロとヴァイオリンを貸し出している内外の音楽家が弾いてくれるものである。つまり私としては、ストラディヴァリウスを無料で皆に聴いてほしいのである。

 日野原先生は病人の状態をよくご存じなのだが、少しも拒否なさらず、「ぜひ、そうなさい。音楽療養士をつけて出しましょう」と言ってくださる。私の心の中には、明日をも知れない重症の病人でも、ベッドに寝たままでも皆といっしょに音楽会に加わるという社会的状況を作りたいのである。

 皇后さまはこのごろ大変お元気で、笑顔が前よりさらに優しくなられた。5、60人の親しいお客さまは、お住まいの御所の広間で、まず小さな音楽会を聴かせて頂く。今年は川口京子さんが「荒城の月」や「我は海の子」など8つの童謡を歌ってくださった。黒のパンツ・スーツに白いタートルという服装がまた感じよくて、これも多分華美な服装などしないように、とお望みになる皇后さまのお気持ちを表しているのではないか、と私は勝手に憶測している。最後の「故郷」は皆で合唱して少々の音痴もいっしょに楽しんだ。こういうところが、皇后さまらしいご発想なのである。

 三浦朱門は或る年、お招かれしておいて、天皇さまにも皇后さまにも、全くお祝いもお礼も申し上げないで帰って来た。「どうして?」と聞いたら、お話ししたい人たちが順番を作って待っていたから、ボクは悪いからご遠慮した、と言う。ご馳走だけ頂いて知人と喋って帰って来たことになる。今年はどうしているだろうと思いながら、私も知人がたくさんいて、夫の行動など見ていられない。

 この会はほんとうに笑い声に満ちた家庭的なもので、帰りには、車椅子の元気なご婦人のお客さまが「天皇さま、あまり塩からいものはお体にいけませんから、お控えになりまして……」と親戚の小母さんのようにご注意などして、陛下も嬉しそうに聞いておられた。

 私はちゃっかりと川口京子さんと、財団で行うシリーズの音楽会の企画について「相談に乗ってくださいますか?」などと「少しもお金とは関係のない商談」までしてしまった。


10月22日

 夕方、海外邦人宣教者活動援助後援会の30周年を記念して、私が支援者をお招きする会をした。ほんとうはすべての方をお呼びしたいのだが、そうなると約3千人。芸能人の結婚式でもそんなに大勢のお客が入る会場もない。

 それで運営委員会の若い人たちに、ご寄付の金額など無関係に、回数の多い方、遺言で遺産を寄付された方のご遺族、を自動的に選んでもらって、400人で打ち切ってご招待をお出しした。出席者は約200人。ほっとした。そうでないと、何しろ社員食堂を使うのだから、歩く場所もなくなる。

 嬉しく申しわけなかったのは、ボリビアから倉橋神父、ブラジルから永山神父、南アフリカ共和国から根本神父のお3人がわざわざ出席してくださったことだった。もっともこの3国へは長い間にかなりの金額をお出ししているから、却って出席者の皆さんが、個人的に実状を直接質問してくださればいいのである。

 会は初め、私が短い挨拶をするはずだったが、すべて予定が狂って、毎年聖地巡礼の指導司祭をしてくださる坂谷神父と他の3人の神父たちのミサから始まった。シスターたちも世界各地から10人近く出席してくださっている。すべてお金を受け取ってくださった方たちだが、こういう機会はそうそうあるものではない。出席してくださったクリスチャンでない方の中には、ミサに興味があるから来た、とおっしゃる方もあってほんとうにほっとした。

 いつもの私の口癖は「アフリカの飢餓を救う仕事をしているのに、ご馳走を食べる必要はない」というもので、今回も結構安い費用でパーティーを計画していたのに、食堂の方が張り切ってとにかくおいしいものを作ってくれたので、評判がいい。食堂のよく目立つところには神棚が祀ってあるのをおもしろがってくださった方もある。

 今まで長い年月、お名前を心に刻みつけ、寄付し続けてくださっていることに感謝しながら、少し照れてお会いする機会も作らなかった方たちに、今日はたくさんお会いできた。「長年の恋人」との初対面である。作家の海老沢泰久氏もそのお1人。海老沢氏と私、というのは、不思議な取り合わせ、と誰もが思うだろう。しかし神さまはいつも小説以上におもしろい計画をなさる。


10月23日

 朝から財団へ出勤。お客さまの連続。執行理事会は午後に延期。

 アメリカがアフガニスタンの攻撃を始めた日から、日本財団の隣と言ってもいいアメリカ大使館の周辺は機動隊で溢れた。私はすぐに警視庁に連絡して、「よろしければ、勤務中の警官が、気楽に手洗いを使われるように整備いたします」と申し入れた。その結果、財団のトイレ8個を、機動隊専用にした。休息所用として、アスレチッククラブの部屋を使っていた若者たちも追い出した。

「ごめんなさいね。でもお互いに何かあった時には、自分の部屋を差し出すのが当たり前でしょう」

 と私は言った。お構いは何もしない。ただ熱い番茶が飲めるだけ。でも気楽な部屋である。

 経緯を知らない財団の若者の1人が、突然エレベーターからおまわりさんが吹き出るようにたくさん出て来たのでびっくりした、と言ったから、「じゃきっとあなたは何か後暗いことをしてるんだ」と言っておいた。機動隊にアスレチッククラブの部屋を明けわたした若者たちが、「今後、おまわりさんに、もし非番の時があったら、格闘技を習っていいでしょうか」と言って来たので、「ぜひ、お願いしてごらんなさい。誰とでもそういうおつきあいがいいのよ」と答えた。すべての社会は、共通の運命を、少しずつ担い合うべきだ。

 夜、インド行きグループの顔合わせ。

 去年から、不可触民と、ヒンズー社会の外にいて、社会的にはそれ以下と思われている人たちの現状を見てもらっている。日本で人権をうんぬんする前に、アフガニスタンでもインドでも、世界の現実を知ることだ。今年は東京都教育委員の米長邦雄永世棋聖を団長に、目下のところマスコミ、教育界など、総勢17人が12月に南インドに入る。1日に10時間ずつバスに乗り、修道院に泊まる旅である。もっとも町のホテルに泊まったら、恐らく体中家ダニにたかられて痒くて眠れなくなるのは目に見えているから、修道院に泊まらせてもらえるということは最高の賛沢だということを、しかと皆さんに恩に着せることにしている。


10月24日

 夕方から、杉本苑子、津村節子、岩橋邦枝の3人の女流作家とキャピトル東急で食事。4人共全く性格も趣味も生き方も違うのだが、妙に気楽に喋ることができる。

 私の家のある田園調布の駅から地下鉄に乗って、溜池山王の駅で地上に出ると、ひょっこりと眼の前にホテルが見えている。この便利な感覚は最近覚えたもので、子供のように楽しい。


10月25日

 夕方NHKで「週刊ブックレビュー」の録画撮り。その後赤坂プリンス・ホテルで行われた浜田幸一氏の『日本を救う九人の政治家』の出版記念会に出席した。NHK出演の事もあって時間に遅れるのと、パーティーが苦手なので、失礼するつもりだったが、ぜひ出て来るように、とおっしゃって頂いたというので、遅刻してこっそり滑り込んだ。

 政治家のお話というものは、私たち文筆業者共のぼそぼそ喋りと全く違うので圧倒される。浜幸先生と私の「仲」は、昔正論大賞を頂いた時、浜幸先生が分厚いお祝儀袋をおいて行かれ、私がそれを海外邦人宣教者活動援助後援会への寄付として頂いて以来である。

 この話をすると、みな、政治家には献金するのが普通なのに、政治家から寄付を貰う人というのは「ソノさんくらいのものですなあ」と言われる。最後に浜幸先生のお歌も拝聴した。いつも同じ歌だそうだが、なかなかの美声であった。

 帰宅後、夜遅くまで執筆。


10月26日

 午前10時少し過ぎの「やまびこ号」で仙台へ。

 東北建設協会創立35周年華北文化フォーラムの講演会。

 終わってすぐ1台早い列車に飛び乗って帰京。


10月27日

 午後の便で、熊本へ。熊本キリスト教市民セミナーで講演をする前に、益城町の「こどもリフレッシュセンター」に立ち寄る。日本財団の助成金によって建てられた施設である。きれいな建物ができていた。私自身が幼い時から今に至るまで、社会とうまくやって行けない性格が残っているので、ここにやって来る子供たちへの理解は深いような気がする。しかし中学にもなれば、台所の手伝いくらいさせた方が自然だ。今の政治の仕組みは、こういう施設でも、教育的配慮より、事故が起きないことだけを考えている。

 その後、大学時代の同級生のシスター・高木基美子のお姉さまと弟さんとにご馳走になり、それから講演会へ。

 熊本泊まり。


10月28日

 列車というより、美容院か喫茶店みたいなしゃれた車体の「つばめ号」で博多へ。列車の旅はつくづく楽しい。アクロス福岡・シンフォニーホールで「第5期・九州文化塾」の講演会。ここのところずっとアフガニスタンの問題を喋っている。まだ読売新聞以外のマスコミはオサマビンラディン氏と氏をつけることを止めないという世界的非常識を続けている。しかし署名原稿を書く人たちはほとんどオサマ・ビンラディンである。もっとも「タリバンの方々」と言ったテレビのコメンテーターもいたから仕方がないか。それでいてタリバンの兵士たちがどんな所に住み、何を食べ、どこでトイレをしているか誰も本気で考えていない。トイレの始末は何でするのか。答えは石、乃至はそのまま。

 夕方6時近く、羽田帰着。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation