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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: シアトルの夏(下) 「PROTESTANTISMと資本主義の精神」の町  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/12/04  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 世界のコーヒーの首都 ≫

 シアトルは、コーヒーの町である。街を散策するとやたらにコーヒー店が目につく。コーヒーショップだけでなく、街角にコーヒーの屋台が出ているのだ。アメリカの観光案内書を読んだら、「シアトルは世界のコーヒーの首都である。コーヒー調合の芸術は、シアトルで開発された。コーヒーハウスに入って落ち着くひまのないお急ぎの向きは、ダウンタウンをパトロールするコーヒー・カートでどうぞ。300台以上のカートが、あなたを待っている」とある。コーヒー店の数は、全米、いや世界で一番多いとのこと。

 なぜ、この町にコーヒー店が多いのか。それを考えてみた。あくまで私の仮説なのだが、多分、シアトルの気候のせいではないのか。この都市の気候は独特だ。夏は涼しく、冬は比較的温暖だ。アメリカ西海岸を流れる海流がもたらす恩恵だ。夏の気候は素晴らしい。毎日、おおむね晴天。温度は23度から28度でさわやかだ。海辺なのに軽井沢の夏より涼しく乾燥している。1年のうち55日しか晴天の日がないが、それが5月末から8月に集中している。冬は最低で3度くらいで、あまり寒くないがほとんど毎日霧雨だ。だから森林の緑がよく育つ。森と湖、そして海のあるエメラルドシティ・シアトルと言われるゆえんだ。

 こういう気候だと、人々はコーヒー店に出かけたくなるものらしい。夏は乾燥しているから、喉が渇く。コーヒーと水で一休みしたい。冬は、小雨煙る日々を毎日、家でくすぶっていると外に出て、思い切って身体を動かしたくなる。そして小ぎれいなコーヒーショップで、これまたひと息つく。だからシアトルに喫茶店が多いのではないか。「冬場は太陽光がないので、その代替物が、カフェインかもね」。私の長い友人であるシアトル在住25年のビジネスマン、日野広則さんが相槌を打ってくれた。

 シアトル人種は、薄めのアメリカンでなく、濃いエスプレッソやカプチーノを好むという。シアトルには、世界中にチェーン展開しているコーヒー店の本舗が3つもある。最も古いのが、日本でおなじみ「STARBUCKS」だ。第1号店は、下町の「パイク・プレース・マーケット(魚野菜・花のマーケット)にある。1970年代に出来たコーヒー屋だという。「SBC」(Seatlles Best Coffee)、「Tully’s」の本拠もシアトルだ。そういえば、私が最初に「Tully’s」の名前を知ったのは、シアトルマリナーズの野球試合を中継しているNHKのTV画面だ。レフトのスコアボードと、キャッチャーの後にあり、特に目につく。それがシアトル発祥のコーヒー・チェーンだと知ったのは、余程あとになってからで、昨今ではこの店を東京でもよく見かける。

「広告効果抜群だよね」。日野さんにそう言った。「あそこは3つの中では、財務内容がよくないんだ。でもNHKとSKYPERFECTが、全試合を放映するようになってから、日本での知名度が高まり、業績が好転したと聞いてます。大シアトル圏のTV視聴者はせいぜい150万人、日本なら一千万人は固いでしょ」と日野さん。“イチロー効果、日本のTully’sを救う”の巻だ。

 シアトルは坂の町でもある。「どうしてこの町に坂が多いのか知ってますか」。坂道を上がったり下がったりの散策で、喉が渇く。テラスのあるコーヒー屋での小休止。日野さんが謎をかけてきた。「うん。サンフランシスコそっくりだね。海岸に向かって全部坂道が下っている」と私。「そうヒントはそこにある」と言って地元のジャーナリストの書いた1冊のシアトルの郷土史を勧められた。


≪ 地下にもう1つの町があった! ≫

 この書によるとこの都市の歴史は新しい。ここに白人が目をつけて移住し、町づくりを始めたのは1851年だ。同じ西海岸で1000キロも南にあるサンフランシスコ(1日1便、アムトラックの特急が走っているが23時間かかる)は、カリフォルニアのゴールドラッシュの根拠地として栄え、人口1万人にふくれ上がっていた。「第2のサンフランシスコの適地はないものか」とある。ニューヨークからやってきた金儲けを夢見る男たち27人であった。潮の干満によって見え隠れする低地と、その背後に高さ七70メートルの断崖から始まる広大な台地が広がる。そして海にはいくつかの島があり、インディアンが住んでいた。

 ニューヨークの男たちは、インディアンの酋長と交渉し、格安でこの土地を譲ってもらい、サンフランシスコの例に習って断崖を崩して、低地を埋め立てた。だからこの町も坂が多い。断崖を斜面に変えたからだ。金亡者たちは、物分かりのいい酋長の名前をもらってこの町を「Seattle」と命名した。いまでも、下町のパイオニア・スクエアには、当時のレンガ建ての町並みの1階部分が、地下に埋められていると、この本にある。

 なぜ、1階部分が地下に埋もれたのか。私はそれを知りたくなり、地元の史蹟保存財団がやっている「Underground Tour」なるものに参加した。1889年シアトルは大火に見舞われた。その頃、金亡者たちの都市開発の思惑は、見事に当たった。アラスカに金鉱が発見され、一獲千金を夢見る西部開拓男たちが押し寄せてきた。カネの事しか考えない荒くれ男、群がる売春婦、札束の舞う博打場、アラスカ行きの男たちに、金採掘の装備や道具を売る商店、金を買い取る銀行etc。ブームに湧く新興都市だったという。「ところが、鍛冶屋のちょっとした失火で、シアトルは全滅した。なぜって? 土盛りをケチって、坂の傾斜がゆるかったために、満潮時に下水と上水道に海水が逆流し消化作業がストップしたから……」。ガイドがそう説明した。英語の聞き違いかも知れぬが、わかったような、わからぬような話ではある。大火のあと疫病が蔓延し、死の街寸前となった。町民たちは教会に集まり、町を捨てるかどうか、長い話し合いの末、崖の土を大量に切り崩して土盛りをやり直したという。

 そこで、1階部分がすべて、地下に潜ってしまったそうな。廃墟となった地下室(元は1階)にあった元ホテルの分厚いガラスの天窓を見上げた。天窓の真上は歩道だった。歩行者のズホンや靴の底、そして女性のスカートがぼんやりではあるが透けて見えた。

 洪水に見舞われ、古い街の上にそっくり土をかぶせ、その上に新しい街を建設したローマの話は有名だが、西部開拓にも同じストーリーがあったとは……。そういう話は、日本の歴史では聞いたことがない。古代から石やレンガの建築文化をもつ西洋人の荒っぽい発想に由来しているのだろう。地上部分に残ったレンガ建てのビルは、20世紀に入ってゴーストタウンと化した。でも、いまでは地下室への階段を完全に封鎖し、きれいな内装工事をやって、ブティックやギャラリー、コーヒーショップの集まるおしゃれな街になっていた。


≪ アメリカの“陽の当たる場所” ≫

 シアトルは“いいとこ取り”の新産業都市でもある。鉄と煙とコンクリート、そして産業廃棄物の出る重化学工業を敬遠、クリーンな製造業と商業で栄えているのだ。ボーイング747の組立工場、マイクロソフトの本社、本のインターネット販売のAMAZON.COMなどカッコいい産業が、郊外の中、高級住宅街と共存している。

 日野邸で催されたバーベキュー・パーティ。「シアトルとはどんなところ」。ITベンチャー企業を独力で興したという白人客に聞いてみた。「パソコン大好き人間が多い都市。冬の霧雨で家に閉じこもりがちだから」という。「歴史は古くはないが、プロテスタントの町だ。みんな勤勉だよ。よく働いて利潤をあげる。浪費を戒め、儲けを資本に再投下する企業家がたくさんいる都市だな」。トラック運送会社を一代で築きあげ、いまは悠々自適の身だという65歳の日野家の隣人はそう答えた。

 シアトル市。全米で21番目の人口を擁する比較的新しい都市だ。いくつかの新商売がここから生れている。工場直接仕入れのウェアハウス商法、前出のコーヒーショップ・チェーン、日本の任天堂もここに進出した。全米の有名デパート網の1つ「Nord Strom」もそうだ。アラスカの金鉱開発の根拠地であったこの町で、西部開拓男目当ての靴屋が、大きくなったのがこのデパートだ。「マックスウェーバーの“PROTESTANTISMと資本主義の精神”を地でいくような町」。日野さんにそう言った。「そんな本、読んだ人間が、この町に多いというわけじゃないけど、言われてみれば、まあそんなところかなあ。貧乏人は住まない町だ」。

 アメリカの陽の当たる場所を象徴するこざっぱりとした都市、それが郊外の緑の住宅地を含む大シアトル圏なのだろう。下町から25キロ離れたベレビュー市の丘陵にある日野家の庭先には小川がある。産卵のためはるばる遡上してきた鮭がこのあたりで一生を終わるのだという。
 



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