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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: シアトルの夏(上) SAFECO球場とイチロー  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/11/20  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「始め良ければ…」

 アメリカ西海岸の最北の都市、シアトルに出かける。この町は緯度からいえば、日本の北海道よりもはるか北に位置しているが、冬はさほど寒くはなく雪はめったに降らない。冬の霧雨が森林を育み、1年中濃い緑がある。夏はいつも晴天でしかも涼しい。だからアメリカ人にとって、ここ10年連続して「一度は住んでみたい町」のナンバーワンにあげられるほどの人気のある都市である。日本人にとっては、夏の観光地の穴場として知られてはいたが、ハワイやサンフランシスコ、あるいはニューヨークのように「初めてのアメリカ旅行」の行先ではなかった。海外旅行のリピーター好みの地味な観光地であった。

 ところが、ここ1、2年、シアトルは、日本人にとってにわかに身近な存在となった。米メジャー・リーグ、シアトル・マリナーズのイチローとササキ効果がそうさせた。シーズン中ほぼ毎日、日本で放映されるTVの中のシアトルを、現実に体験すべく夏休みの家族旅行に出かけたのである。

 2001年8月末。観光シーズンもそろそろ終わりだというのにJALの機中は、日本人客で満席だった。このうち半分近くはイチロー見物のツアーとお見受けする。

 入国管理のゲートで「入国目的はベースボールか。いつ行くの。明日の日曜か。First pitch(先発投手)は誰だと思う」。人を見たら不法入国者と思えを地でいくような疑いの目をするのがアメリカ入国管理官だ。今回はやけに愛想がいい。「何?Garcia(ガルシア)、No,No,Aaron Sele(アーロン・シーリー)だぜ……」。その土地の玄関の門番に邪険にされると旅は楽しくなくなる。旅とは「終わりよければすべて良し」なのか。むしろ「始め悪ければ、終わり悪し」が私の旅の経験則だ。入国早々、イチロー効果の恩恵に預かった。幸先よし。

 私にとってのシアトルは、実は4度目だ。以前は、「King Dome」という球場があり、シアトル・マリナーズの本拠地だった。いまは改装中で、来年には「シアトル・シーホークス」(Seattle Sea Hawks)というアメリカン・フットボールの新スタジアムとなる。その隣に「SAFECO」という名の新球場が出来たのが、1999年7月15日。以後、この球場内部の光景はTVを通じて、東京ドーム並みのおなじみの球場となった。でも、NHKはゲームの放映はやっても、周辺やシアトルの町については触れていない。そこが、春夏の高校野球中継と違うところだ。旅好きの私にとっては隔靴掻痒。はがゆく、もどかしい。だからこそシアトルくんだりまで出かけたのだ。

 8月26日、日曜のデー・ゲーム。宿泊先の郊外の住宅都市ベレビューから野球見物専用の乗合バスで出かけた。料金は1人、2ドル50セント。試合開始2時間前に球場に到着。ひまつぶしに球場入り口横にあるMLB公式マリナーズ・グッズショップをのぞく。店内は超満員。土産好きの日本人観光客用かと思ったら、アメリカ人の客でごった返していた。トップ人気は「イチローの51番」、2位は「22番のササキ」。そして「ブーン」「ガルシア」が続いている。51番のTシャツ(18ドル)、レプリカの51番と22番のユニフォーム(69ドル)、マリナーズのオフィシャル・キャップ(24ドル)が売れ筋だ。

 球場の入り口を探す。アメリカの球場は日本のように左右対称にはできていない。われわれの座席番号、一塁側の内野席「115列」はどこから入場するのかとまどった。マリナーズ・グッズショップの横に三塁側内野席の入り口あり。それなら反対側の同じ場所に一塁内野席があるのが日本の常識。ところがそこには入り口なし。やむなくライト側の外野席入り口から入場した。チケットを見せた。「そう。ここでいいの」「これ内野席のチケットだよ」「OK。このチケット、イチローの場所よ。彼がよく見えるよ。左に曲がって」と言われる「内野と称して実は外野席をつかまされたのか」と一瞬疑ったが、やはり内野席のかぶりつきに近く、目の前にライト・イチローがいた。カルチャーが違うと座席を探すだけでも疲れる。


「ベースボールは野球にあらず」

 SAFECO球場を見渡す。TVの画面と実物はやはり違う。選手が近く見える。フェンスが低い。日本のように内野スタンドにファウルボールよけの無粋のネットなんか張っていない。

スタンドの傾斜が緩やかだ。芝生の緑がことのほか美しい。「SAFECOフィールドはアメリカの最新の球場。芝生だけでではなく、土と砂の調合の仕方もほとんど芸術的。フィールドキーパーのチーフの年俸は5000万円。高過ぎると思いますか」。同行のシアトル在住のビジネスマンで、ベースボール狂の田中潤さんがそう言う。たかが野球場の整備員と思うのが日本の野球文化だが、ベースボールの世界はものの見方が違う。「1人のスーパー・スターに10年契約で270億円(テキサス・レンジャーズのアレクス・ロドリゲス遊撃手)払う国ですからね。ベースボールというものに対する価値観が日本とは違う」。田中さんの説だ。

 私の旅の連載のテーマは異文化体験である。シアトルに出かけたのは、スポーツ新聞の書かない日米比較文化、ベースボールと野球の違いをSAFECO球場の日本人観客の1人として記すことだ。「ベースボールは野球にあらず」。そういう実感はいくつもある。この球場の名称にしてからだ。SAFECOとは、アメリカ西部を商圏とする生命保険会社の社名だ。でも生保会社の球場ではなくシアトル市が建設したものだ。総工費、5億1700万ドル(610億円)。住民投票をやって増税まで行い市は資金を調達した。それに私企業の冠がどうして付けられたのか。市が20年間、4000万ドルで球場の名称をSAFECOに売って建設費の一部をまかなったという。そういう発想は日本の自治体にはない。

 ファウルボールはアメリカではスタンドの観客のものであることはTVを通じてよく知られている。この日観客が取ったファウルボールは20数個。これがいかに選手と観客に一体感をもたせていることか。「どうして日本では、観客にボールをくれないんですか」「うん、それねえ。一度、役所出身のセ・リーグ会長に聞いたことがあるの。答は危険だから……だった。ファウルボールでケガしたら自己責任でいいと思うけど」。「アメリカは訴訟社会というけど、ファウルボールのケガで球団や球場が訴えられた話は聞いたことがない。やっぱりベースボールは野球ではないんだ」。田中さんと私の会話である。


「あの汽笛の正体見たり」

 応援のやり方も大いに異なる。日本では「私設応援団」が、のべつまくなしに、金やタイコやラッパでがなりたてる。「あれではひいきにしている味方のピッチャーやバッターだってうるさくて勘が鈍るのでは……」と田中さん。こちらの応援は、もっぱらホームチーム向けで1人のミキサーが、球場内の映像や音響器具を駆使して、全観客を指揮する。これがなかなかしゃれている。スタンドの映像に「NOISE」が出ると、相手ピッチャーやバッターを野次る。しかしピッチャーが投球モーションに入ると、ぴたりと静寂に戻る。この日、相手チーム、インディアンズの投手が打たれて降板する際、ベートーベンの交響曲第五番『運命』が演奏された。

 マリナーズの7回の攻撃を前に、観客は一斉に立ち上がり、ベースボールの歌を歌った。「Take me out to the Ball Game」(野球につれてって!)という軽快なメロディだ。電光板に大きくアニメの画面が映し出され、メロディとともに画面の下には英語の歌詞が流れる。カラオケと同じ手法だ。この歌、プレーヤーと観客の一体感を盛り上げる効果は抜群。私たち家族一行、全員立ち上り唱和したら、シアトル・マリナーズが、自分のチームのように思えてきた。

 観戦中、汽笛が聞こえてくる。日本のTV放送で、あの音には気づいていたのだが、その正体が何であるのか、現地でそれを知った。球場の隣は、サンタフェ鉄道の大操車場であった。「情緒があっていいね」と私。「でもウルサイでしょ。試合中はやめてくれと球場が抗議したんです。でも歩行者の安全上の理由とのことで、球団はあきらめたんです」と田中さん。

 乗合バスでの帰路、球場前大通りから鉄道線路を渡った。信号があるだけで踏切の遮断機はない。信号は赤でもアメリカ人は自分のリスクで平気で横断する。だから試合中といえども警笛が必要なんだと納得した。ところで、この日の試合の結果は、4対3でマリナーズの負け。9回裏ワン・アウト、満塁。ヒット1本で逆転サヨナラ勝ちの場面でこの日、4打席ノーヒットのイチローが登場、見せ場を作ったが、つまったピッチャーゴロ。21試合連続ヒットの記録更新はならず。打撃3割5分のバッターが、5打数ノーヒットの確率は、わずか11%しかない。そういう珍しい日にぶち当たったのは、幸運ということにしておこうか。
 



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