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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: タイ王国紀行・2001(3) 「アユタヤ」や強者どもが夢の跡  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/10/23  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ タイ中世の天敵はビルマだった ≫

 ささいなことだと言ってしまえば、それまでだが、バンコクの昼下がりの散策で、目が痛くなり、軽い頭痛に悩まされた。

 夜になると決まって元気を回復する。何が原因なのか。濡れた電気毛布にくるまったような猛烈な蒸し暑さと、バンコクに340もある極彩色でキンキラキンの黄金の寺院の太陽光の反射に当てられたのだ。

「いや。疲れ目です」。いぶかる旅の相棒関晃典さんにそう答えた。

「そう。お寺とはくすんだ色だと思い込んでる日本の旅行者にそういう人がたまにいました」。丸紅のバンコク支店長を長く勤めた関さんは言った。

「でも明日の日曜日は大丈夫です。アユタヤに遠出しますから。あそこの寺なら、目が眩むことは絶対にありません」。

 アユタヤ。バンコクから北に80キロ。四方をチャオプラヤ川とその支流にはさまれた中州にある街である。14世紀央から18世紀まで、5つの王朝と35人の王が君臨したアユタヤ王国の古都だ。バンコクから車で2時間であった。地図を開いてみる。街は、東西8キロ、南北4キロ、周囲はすべて川に囲まれている、そら豆状の形をした平坦な島であった。この島の遺跡はユネスコの世界文化遺産に指定されている。

 関さんが面白い話をしてくれた。以前、バンコクの取引先のタイ人、ビジネスマンたちを京都の名刹に案内した。興味を示したのは金閣寺だけで、その他いくつもの名高い寺では、「日本人は本当に仏教徒なのか?」とけげんな面持ちだったというのだ。

 さもありなん。あの京都の名刹も、建立した時は、バンコクと同じように極彩色に輝いていたはずだったからだ。戦乱や風雪にさらされた寺は、手入れもおろそかになり、金箔や塗料が剥げて今日のくすんだ色に変化した。日本では、それを「ワビ」とか「サビ」とかいって閑寂な風趣の象徴としている。でも千利休の茶道なんて、全く無縁のタイ人たちは、「なんと仏を粗末にする国民なのか」と慨嘆したに違いない。

 アユタヤの寺院は野ざらしどころか、廃墟そのものであった。千利休の「ワビ」「サビ」の世界を通り越して、芭蕉の「夏草や強者どもが夢の跡」であった。この都は17世紀には、国際的な貿易港としても栄えていた。

 中国、ペルシャ、ポルトガル、英国、日本などと交易を結び、外国船がタイ湾からチャオプラヤ川をこの地まで100キロの流れを遡行してやってきた。「ロンドンのような都市」と英国人が称えたともいう。ところが、アユタヤにはビルマという天敵がいたのである。

 ビルマにとって、タイは奪い取るに値する豊饒の地であった。チャオプラヤ川の両岸の穀倉地帯とアユタヤ、そしてその上流の山間部の古都チェンマイをめぐって、両国の攻防戦が展開された。史書によるとビルマ、タイの戦いで、タイが勝ったのは1度だけだったという。

 この“唯一の勝利”が、アユタヤの奪回作戦であった。1569年、アユタヤはビルマ軍によって奪取されたが、その15年後、タイの王朝軍は、アユタヤを占拠するビルマ軍と激戦の末、これを撃破した。そして17、18世紀のアユタヤは、仏教文化と外国との通商で黄金時代を迎えることになった。

 だが、1767年、アユタヤは再びビルマ軍の手に墜ちた。この時のビルマ軍の侵攻は壮烈なものでアユタヤを徹底的に破壊、掠奪した。宮殿や寺院は焼き払われ、あらゆる仏像は、首を切られたという。「私たちは、いま、まさにそこに立っているんですよ」と関さん。なるほど日本の荒れ果てた寺院の「ワビ」「サビ」どころではなく、まさに廃墟である。

 私たちの訪れたのは、ワット・プラ・マハート(仏塔寺院)であった。1384年建立と案内書にあるが、現存するのはレンガの土台のみ残された本堂、首のちょん切られた仏像、そして切り取られた顔面が、無造作に転がっていた。


≪ 菩提樹の中の仏陀 ≫

 そのひとつをスケッチした。ユネスコ文化遺産、「菩提樹の中の仏陀」である。仏像の首を切られた顔面が、地面の上に直立して残されていた。そこに実生の菩提樹が育ち、250年後のいま、聖木の根が仏の顔を取り巻いたという。まさに天然木の祠(ほこら)の中の仏様であった。近くには33個もの仏塔が、レンガの肌をむき出しにして立っている。歴代のアユタヤ王の墓であった。

 この寺のタイ人の番人のおばさんに聞いた。「レンガの表面に粘土と砂を塗りこめ、そして金箔をかぶせてあった。ビルマ軍はこれに火を放ち、10日間燃え続けた。王宮もこのとき徹底的に破壊され、復元しようがなかった」とのことだ。

 いまでも、タイ人とミャンマー人は、いまひとつしっくりと来ないといわれる。その遠因は、どうもこの辺にあるらしい。

 王宮跡や寺院の遺跡をそら豆形に囲むチャオプラヤ川と運河の外周に、日本人町とポルトガル人町の跡がある。ポルトガル人の足跡はしっかりと残されていた。教会と思われるレンガの建物跡があった。訪れる人は誰もいない。地下らしきものがある。

 そこには、ローズ・ウッド材の寝台ようのものが、30個ほどあり、それぞれバラバラになった骸骨が横たわっていた。はるばるこの地に布教にやってきたイエズス会の神父たちの墓であった。木製の告解台が無雑作にころがっている。「1460年」というレンガ壁の刻みが、かすかに解読できた。

 運河の対岸の日本人町跡を訪れる。戦国時代から徳川幕府初期にかけて、商人や日本で志を得ない浪人が、中国沿岸や南方諸国に出かけ、交易の根拠地としての日本人町を作った。だが3代将軍家光の鎖国によって、この人々は事実上、捨て子になってしまった。

 アユタヤのソンタム王の寵愛を受けた「山田長政」もその1人で、17世紀の初め、3000人と推定される日本人町の頭目になった。しかしポルトガル人町のレンガの教会のような当時の長政を忍ぶ、住居の跡などそれらしき痕跡は残っていなかった。「西洋の石の文化と木の文化の違いが出たね」と私。「そう。ビルマ軍の猛襲で、すべてが灰になってしまったから。でも日本人町は鎖国でその前に自然消滅してしまったらしいけど」と関さん。

 バンコクの泰日協会が、オランダ東インド会社の文献から、旧日本人町の位置を特定、この土地を入手、「旧日本人町跡」として保存している。1972年、日・タイ修好100年を記念して、この地に記念館が作られた。

 20バーツの入場料を払って中に入った。「土産屋が目立つのみで、見るべきもの、ほとんどなし。テーマパークとしては最低。ODAの金使って、つまらんものを作ったものだ」。泰日協会には申し訳ないが私のメモ帳には、そう記されている。
 

≪ 昔長政、今本田 ≫

 話があらぬ方向にいってしまった。ODA批判が、この紀行文の本旨ではない。テーマは中世にこの南国の地で展開されたタイ、ビルマの宿命ともいえる領土争奪戦である。相棒の関さんとアユタヤ市内の、日本めし屋「さくら」で、Singha Beerとカツ丼の昼食をとった。その時の会話である。

「なぜビルマ人はタイより強かったのかね」そう水を向けた。タイびいきの関さんの答は、タイ人が弱いのではなく、2つの民族のおかれた地政学的条件がそうさせたのだというのだ。

「ビルマの地図を見てごらんなさい。北はヒマラヤ、西はアラカン山脈の向こうにインド、南西にはベンガル湾。版図を広げるには、豊かな東のタイ側しかない。だから新領土獲得への意欲が違う。その点タイはビルマなんか相手にしなくても、東征してカンボジアやラオスを手に入れることができる。それにビルマは、北や西から攻められる心配がないから、後顧の憂えなく、タイに進攻できる」と。

 要は“戦争エネルギー”の違いである。関説によれば、タイ人は格闘技に優れていた。タイ名物、キックボクシングは、アユタヤ王朝の格闘技「ムエ・タイ」をスポーツ化したものだという。中世のインドシナ半島は戦火の絶えることがなかった。「1にビルマ、2にタイ、3にカンボジア、4はラオス」、「1にベトナム、2にカンボジア、3にラオス」。これは2人で格付けした、中世インドシナ半島の「強弱」のランキングだ。西の横綱ビルマ、東の横綱ベトナムは地理的に遠く、戦ったことはない。

 話に興じるうちに、「さくら食堂」は満席になっていた。ここは観光客用ではない。昼休みに付近の日系企業から半袖、半ズボンの日本人がどっと「定食」を目当てにやってきた。旧都アユタヤ市は、インフラを整備し、税制を優遇し、日本企業誘致に熱を入れている。

 一番の大どころは「ホンダ」だ。昔長政、今本田。アユタヤの現代版“日本人町”である。付近には、リネンサービス付きで、月、3〜4万円の長期滞在日本人用の小ぎれいなコンドミニアムもある。
 



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