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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: タイ王国紀行・2001(1) 川と運河の都バンコク  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/09/25  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 今、「橋のない川」は? ≫

 タイの首都バンコクの地を踏んだことはこれまでに5回ある。でも、そのほとんどは飛行機の乗り継ぎのためだった。空港内のアマリ・エアポートホテルに1泊し、翌朝はインドとか、中央アジアに出かけてしまう。

 だからバンコクの歓楽街のナイトライフの一端を垣間見たことはあるものの、タイを旅行しまとまったストーリーを書く機会には恵まれなかった。この「タイ王国紀行・2001年」はその意味では、私の初めてのタイ旅行の記録でもある。季節は3月、滞在は3日間であった。

 バンコクの空の玄関ドン・ムアン国際空港を出ると気温は36度。今年の夏の東京に勝るとも劣らない蒸し暑さだ。この空港は東京から成田ほどひどくはないがバンコクからかなり遠い。空港ホテルから夕刻のラッシュ時に市内に食事に出かけたらタクシーで2時間もかかった上に、ひどくぼられた悪い記憶がある。

「いまは改善しましたよ。2階建ての高速道路が完成したから…。成田から都心に行くよりずっとスムーズです」。旅の相棒、笹川平和財団常務理事の関晃典さんが言った。関さんは丸紅のバンコク支店長を長く勤めたことがあり、いまでもバンコクの財界の顔役である。「BOTと言いましてね。Buildを受け持った日、タイ合弁の建設企業体がOwnerになり、通行料で建設資金と一定の利益を稼いだあと、政府に所有権をTransfer(移転)する仕組みです」。

 いまバンコク市内は、この方式で環状道路の建設が進み、世界最悪の交通渋滞都市の汚名をとうに返上した。40分足らずで、あっけなく市内の繁華街のホテルに着いた。ちょっと見ぬ間に変わったものだ。私が5年前に立ち寄ったバンコクとは様変わりだ。「あの頃が最悪でした。時速10キロ以下でしか車が進まない大通りがいくつもあった」と関さんは言う。

 バンコク。人口670万人。この都市の歴史の解説書によると、その始まりは18世紀、チャオプラヤ川の対岸のタクシン王朝の王都トンブリから川をはさんで、東岸に遷都した現王室のチャクリー王朝の王都である。いまは旧王都のトンブリ県も大バンコク市に編入されたが、もともと道路らしい道路もなく、交通手段はもっぱら舟であった。道路がなければ橋のないのは当然でチャオプラヤ川は、旧都と新都の間を流れる「橋のない川」であったという。

 タイの人々は海抜ゼロから1メートルの湿地帯であるこの地域に土盛りをして王宮や寺院を作り、溝を掘って、運河による交通網を完成させた。鎖国時代のバンコクの交通はそれで万事OKだった。19世紀中のシャム王ラーマ4世は、運河網を開発し、チャオプラヤ・デルタを大水田地帯に仕立てあげた。いまでもその名残りがあり、トンブリの南、50キロ四方がエビの広大な養殖池として利用されている。「ラーマ4世といえば、ミュージカル“アンナとシャム王”のモデルですよ。でもあのストーリーは、眉つばものだとタイ人は怒ってる」。関さんが教えてくれた。運河の父、ラーマ4世はタイ近代化の礎を築いた人で、1855年英国と通商条約を結び鎖国のシャム王国(1393年、シャムはタイと改名)の門戸を開いた。言うなれば日本の明治維新みたいなものだったのだろう。


≪ 上映禁止の「アンナとシャム王」 ≫

 私はミュージカルは不案内だが、スキンヘッドのユル・ブリンナー扮するシャム王とデボラ・カー扮する王子の英人家庭教師アンナの共演する映画『王様と私』を見たことがある。このストーリーは、シャム近代化のためには西洋文化の導入が不可欠と考えたラーマ4世に、王子の家庭教師として雇われた、シンガポール在住の英人女性の伝記を脚色したものだ。

「でも、タイ人に言わせると伝記そのものが、ウソで固めた彼女の自慢話。タイ人を未開人と見下し、王に対してなれなれしいという理由で、あの映画はこの国では上映禁止です」。関さんの解説である。

 話を運河と道路に戻そう。首都の近代化とともに、ラーマ4世時代のバンコク市内の運河は次々にフタをされ、道路に化けていった。しかし水路を埋めて作られた道路ネットワークは、80年代央から始まった産業化と経済の高度成長に伴う車の激増で、パンクしてしまった。それが、数年前までの「世界最悪の交通渋滞都市、バンコク」の実体だった。

 チャオプラヤ川をフェリーで渡ると旧都トンブリである。新都と旧都を結ぶ橋は、いまでは6本あり、もはや「橋のない川」ではない。対岸にあるトンブリ王朝時代の王室の寺院、ワット・アルン(暁の寺)に出かけた。橋は遠くて不便なので、ここを訪れるには渡し船に限る。

 トンブリは1767年、チャオプラヤ川の上流80キロにあるアユタヤの将軍タクシンによって開かれた王朝だ。当時、タイの天敵はビルマで、何度もアユタヤ王朝は、ビルマ軍に占拠された。タクシンは苦闘の末、ビルマ軍を撃退したが、戦乱で廃墟となったアユタヤに見切りをつけて、川を隔ててバンコクと目と鼻の先のこの地に遷都したのである。

 ワット・アルンは、バンコクの川向こうでたった1つの観光名所であり、タイを訪れる外国人たちが、トンブリ地区に足を踏み入れるのは、せいぜいこの寺までだ。トンブリ王朝は短命であった。王朝の開祖タクシン王は精神異常となり、随臣の将軍、チャオプラヤ・チァクリーが王を処刑し、王都を川の東岸に移しチャクリー王朝を興し、ラーマ1世を名乗った。これが現在のバンコク市の始まりだ。1782年のことだ。現在のプーミポン・タイ国王はラーマ9世だ。


≪ トンブリの運河めぐり ≫

 ラーマ1世がなぜ都を東岸に移したのかは、はっきりしないが、天敵、ビルマとの関係が悪化した場合を考慮し、川を防衛線とすることを想定したのではないか。「トンブリが王朝であったのはわずか15年。だから見物すべきものも少ない」と関さんが言う。そう言われてしまうと、川岸の「暁の寺」の向こうはどんなところなのか、訊ねてみたくなった。

 翌日バンコクの一等地にあるチュラロンコン大学で財団の仕事をした帰路、タイ人のハイヤー運転手に「橋の向こうのトンブリに行ってくれ」と頼んだ。タイ人は英語が不得意の国民である。この日はタイ語の通訳を同伴しなかった。「トンブリ?OK」というので安心していたら、連れていかれたのは、シャングリラ・ホテル下の船着き場だった。「舟に乗れ。ここで待っている」と言っているらしい。車を断念して舟外エンジン付きの小さな遊覧ボートに乗った。後刻、わかったのだが、これがトンブリ見物の最良の策だった。

 トンブリに残る旧王都の昔そのままの、運河めぐりの舟旅を満喫したのだ。船着き場で地図を求める。チャオプラヤ川を南下し、ラーマ3世橋の手前で右折、トンブリの運河路に入った。水門をくぐると、右側にスラム街が迫り、左岸には何隻かの小舟がつながれ水上生活者のバラックが並んでいる。幅10メートルほどの運河だ。ドブ臭い。橋を何本かくぐる。民家が運河に半分ほどせり出して並んでいる。

 子供たちが水浴びをしている。このあたりは道路がきていないので、運河が交通路であり、子供の遊び場でもある。女が洗濯をしている。亭主とおぼしき人物が、家の奥で昼寝しているのが見える。タイ人の女性は働き者で、男はなまけ者と聞いていたが、本当らしい。私の地図ではこの運河には名前がない。でも道路に例えれば、大通りに相当する。小さな運河が路地のように何本も枝分かれしていた。

 手漕ぎの行商の小舟が接近してきた。水と絵葉書を売りつけられる。スラム街を通過すると両岸に小さな寺がいくつも並んでいる。黄衣の坊さんが1人、岸辺で合掌していた。やがて高級とおぼしき住宅街が両岸に展開する。各戸に自家用のエンジン付きの小舟が繋がれている。T字路にぶつかった。トンブリの運河の幹線バンコク・ヤイ運河に到達したのだ。舟は右折し、バンコク方面に向かう。幅は20メートルはある。水道橋、ガス管の橋、そして高速道路をくぐる。

 このあたりも寺が多い。しかも大型の名のある寺ばかりのようだ。小僧が黄衣の袈裟を物干竿にかけている。関羽廟もある。この運河は昔、トンブリ王朝の都大路の機能を果たしていたのだろう。悲劇の王、タクシンも王宮から王家の菩提寺であるワット・アルンまで毎日のように舟で往復したことだろう。

 やがてチャオプラヤ川に出る。沿岸のワット・アルンを再訪したのち、バンコク側の船着き場に戻る。10キロの運河の旅だった。常夏の国の昼下がり。水郷の生活を裏窓から堪能した。というより250年前の古都のたたずまいへのタイム・スリップの旅といった方がふさわしい。ちなみにバンコク側の運河はほとんど道路に転用され、舟でのツアーは不可能とのことだ。

 いにしえの水の都、バンコクを味わいたければ、対岸の運河の町、トンブリに出かけるしかない。
 



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