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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 現し世の深い音  
コラム名: 私日記 第2回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/02  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   一九九九年十一月十二日
 お昼少し過ぎ、文藝春秋の講演会のために佐賀に向かう。文藝春秋の舩山幹生さんと日本財団の星野妙子さん、鈴木浩司さんも同行。文藝春秋の仕事のついでに、財団の支援している事業を見せて頂きに寄る予定である。
 しかし果たして飛行機の出発が遅れた。佐賀空港に着いたのは五時少し過ぎ。今から「たすけあい佐賀」という宅老所を訪問するのはいくら何でも非常識な時間である。最近の人たちは、食事の用意をしている時間帯だろうが、もしかするともう寝んでいる時間だろうが平気で電話をかけて来るけれど、私は古い人間だからそういう時間は避けたいと思う。
 それで講演前に、四人でさっさと食事に行くことにする。仕事より食い気という感じで、少し気がとがめるが、皆嬉しそうなので共犯の気分。タクシーの運転手さんに教わった活魚料理屋には私たちが一番乗りだった。河豚の中落ちの唐揚げ、いさき(女中さんは“いっさき”と発音した)といかのお刺し身。いかはまだ透明で足が吸いつく。鯛頭の煮つけも大きくて食べ切れるかと思う。
 講演は小沢昭一さんが、自分でさっさと先にやる、と決めてしまわれた。小沢さんは朝が弱いそうで、講演が終わると今晩中に移動して、朝はゆっくりお休みだそうだ。私は夜が弱い。人生には、思いがけない優しい調和が用意されているものだ。
 
 十一月十三日
「たすけあい佐賀」、は少年刑務所の近くにあった。ここに財団は平成九年度に車椅子用スロープ付軽自動車マツダAZ?ワゴンを一台、平成十一年度に宅老所の障害者用トイレの工事一式九十九万円を援助している。玄関のベルを押す前に、トイレの増築工事中と思われる基礎の部分が見えた。
 朝九時少し前に着いて突然の訪問の言い訳をした。
「まあ、昨日講演あったんですか!?」
 それでいいのだ。行けたら立ち寄る、といい加減な気持ちで行くのが私の趣味。待っていてもらうのが一番気が重い。
 今日の「宅老部の止宿人」は少し痴呆の出ている男性一人と、ご主人が入院中の上品な奥さん。男性は用務員さんをしていたが、奥さんを亡くしたあと、痴呆が出た。母親が今でも自慢で、古いアルバムの中の母の写真を見る時だけ、無表情な顔に笑顔が流れる。
 「託児部」の方は、少し無口な男子小学生と体に一部障害のある女子高校生。
 ここの施設の魅力は、もう亡くなった前の持ち主の設計で十二畳くらいはありそうなダイニング・キッチンに広い和室がつながっていることである。世話をする西田京子さんや他のヘルパーさんが、お料理を作りながら、後片付けをしながら、喋りかけたり、様子を見たりしていることができる。落語の「小言念仏」じゃないけれど、生活というものは、同時に何か二つ以上のことに心を割いて、不純に生きているのが一番自然だ。
 コーヒーを出してくださったので、「止宿人」たちもいっしょに、皆でごちそうになる。それから朝日の中で皆で記念撮影。
 佐賀駅まで車で送って頂いて、今度は佐賀と福岡との間のと或る駅で下りた。ここに第二の訪問先があるのだが、組織の名前も場所もはっきり書けないのは、それが女性の「駆け込み寺」的なシェルターだからである。日本財団はそこにもパソコン等機材の整備費として八十四万円を出している。
 夫が暴力を振るうので逃げだす女性が多いのだが、それだけに夫が無理やり連れ戻しに押しかけて来る例もあり、どうしても秘密にしておかなければならないのだという。
 ここでもチンコーンといきなりベルを押したのだが、なかなか人が現れない。とたんに私の「突然おじゃまする」のがいいという気持ちがぐらついた。私は講演の帰りだからどうでもいいようなものの、わざわざ東京から仕事の責任者として来た人には相手がいなかったら申しわけない。やはりちゃんとアポイントメントを取って来る方が常識的というべきだろう、などと、らしくもなく反省しかけていると、中から鍵を開けてくださる気配があった。責任者の女性である。ここでも「まあ!」と驚かれ、「どうぞ、どうぞ」と温かく招き入れられた。
 階下に三、四部屋ある普通の住宅だが、今はフィリピンの母子が入っているという。やはり外国人の嫁を嫌ったお姑さんと折り合わず、子供を連れて婚家を出た。子供は日本国籍なので、母親として残ることを許され、今、女性はフィリピンの言葉を生かして堅気の仕事についている。母子の部屋は整然と片付けられ、おもちゃや写真も戸棚の一部にきちんと納めて飾られている。こういう真面目な性格のお嫁さんならいいのではないか、と思うが、それが国際結婚のむずかしいところだろう。
 もう一室にはダンボールが二十箱くらい積んである。つい前日落ちつき先の決まった人の荷物を預かってあげているのだという。しかしどんな施設でも、一人がダンボール二十箱分の荷物を入れる押入れはないだろう。人間うまくモノを諦めることができないと、ずっと現実の重荷や執着を引きずることになる。
 物置みたいな部屋にはもらいもののテレビや家具を綺麗に磨いて取って置いてあるという。駆け込んで来た女性たちが新しく生活を始める時、お金をかけずに新生活がスタートできるように持たせるのだという。こういう配慮がどんなに温かく感じられることか!
 福岡空港からは珍しいプロペラ機で高松へ出る。夜は高松のホテルで、毎年、障害のある方や高齢者と行っているイスラエル旅行(通称「障害者との聖地巡礼」)の国内同窓会がある。毎年一回、十六年続いたので、リピーターも多いのだが、約九百人の方たちが、生きた歴史と信仰に触れる旅をした。
 砂嵐が吹きまくって私たちの顔も衣服も砂まみれになった午後、私たちはベドウィンのキャンプに泊まっていたのだが、夜になって風がおさまると星が出た。車椅子で視力もほとんどなくなっている四十歳代の男性が、
「僕は星を見ました。生きてこの砂漠まで来られるとは思いませんでした」
 と言われた。その伸びやかな二言を思い出すと、私はいつも胸をしめつけられる。しかしこうして会えば、お互い、ワルクチと冗談ばかり。売り物になるほどすばらしい音痴の旅行社の社長が、イスラエルの歌を歌ってお開きになる。
 
 十一月十四日
 九時半、高松発のマリンライナー号で岡山へ。長い橋の上から忙しく首を右と左に向けて海の眺めを楽しむ。岡山駅から御津郡加茂川町の吉備高原希望学園に行く。この学校は不登校児のための寄宿学校で、日本財団は中学校を建てるために資金を出したのである。
 不登校児というのは総じて知能が高く、ただ親との関係がちょっと捩れただけなのだ。だから家庭から離しさえすれば、たいていの子供は立派に立ち直る。ここだけは子供たちに会わせてもらうために、「予告なし」というわけにはいかない。
 手品を見せてもらい、ちょっと人生について対話もしたりしたが、果たして手応え十分な子供たちばかり。今に別に不登校でなくても、こういう自然の中の寄宿学校に子供を預けたいという親が増えるだろう。そうすれば、今に吉備高原希望学園が本来は不登校児の学校だったことなど、みんな忘れてしまうだろう。そうなるのが、財団の願いである。
 夕方五時少し前、羽田帰着。少し疲れた。
 
 十一月十五日、十六日
 文芸雑誌は、年末の新年号のために、特別のスケジュールに入って、締め切りがすべて早まっている。『新潮』新年号のために「パリ号の優雅な航海」三十枚をひたすら書き続ける。
 
 十一月十七日
 朝七時家を出て、WHOの事務局長ブルントラント女史にお会いするために、ホテルオークラヘ。日本財団は笹川記念医療保健財団を通して今までに九千万ドル近くを出してWHOの事業を支えた。その中ではハンセン病対策がもっとも大きい。ハンセン病は終息宣言を出せるまであと一息というところまで来ているが、今ここで手を抜くと、火事場の残り火のようにまた広がる危険性もある。その対策を改めてお願いする。
 ブルントラント女史と夫君、エイキトン上級顧問、尾身茂西太平洋地区事務局長が出席されて、朝食会。ブルントラント女史は一九九六年までノルウェー首相であった。
 午後、司法制度改革審議会のマスコミ各社との懇談会。その後、ラジオ日本で録音。
 
 十一月十八日
 午後・NHKテレビの「ホリデー・インタビュー」の録画撮り。話の内容は過日、鈴木源庫氏と打ち合わせ、斎藤季夫氏がインタビュアーとして聞いてくださったのだが、一つとして漏れている内容はない。お二人の厳密な連携に改めて畏敬の念を感じる。ことに斎藤氏は本番でも全くメモなし。こういう話術と自然な神経の配り方は神業に近い。誰であれ、すばらしい能力を持った方にお会いすると、後の気分が実にすがすがしい。
 
 十一月十九日
 午後、東京の問題を考える会。都庁の建物に入るのは二回目。どの知事の時に建てたものか知らないが、私は長い年月、高額の特別区民税を払って来たと思う。毎年数百万円。一千万円近く払った年もある、と思いながら厳かな廊下を歩いた。
 会議の終わり頃、東京都の広報費を聞く。約五十億円とのこと。石原都知事は少し申しわけなさそうだったが、都の予算から見たらこれくらいは当然の範囲だろう。それに比べて我が日本財団の広報費の多さが恥ずかしい。私が会長に着任してから、広報費を削減することをやって来たが、もっと引き締めてもいい、と改めて感じる。
 
 十一月二十三日
 夕方、芝の「醍醐」で、ご両親を殺された、韓国の元大統領。朴正煕氏の長女、朴槿恵さんと十数年ぶりに会ってお食事をした。前にお会いしたのは、まず母上を、五年後に大統領の父上を殺されて、まもなくの時だった。
 ソウルの朴家はごく普通の中産階級の、ひっそりした家に見えた。大統領が、蓄財をしていたとも思われない。もし父と母が揃っていれば、それは温かい「普通の」家庭になっていたはずであった。母上の陸英修さんは、ハンセン病の患者たちが集まって住む聖ラザロ村に、小さな理容室を寄付されていたが、亡くなられた後は、それが小さな教会のように私には見えたものだった。
 当時、槿恵さんはまだ二十代の終わりだったろうと思う。それが今では野党ハンナラ党の副総裁であり、国会議員になっておられた。今度は日本政府がオピニオンリーダーとしてお招きしたので、約十二日間、日本のあちこちを旅行して精力的に見学を続けられたという。
 槿恵さんは苦しみから抜けるまでに、どれだけかかったろう。しかし年月は確実に癒し、伸ばし、ふくよかに育てる。いつでも日本に羽を伸ばしに来てくださいね。
 
 十一月二十四日
 すべての予定をキャンセルしなければ、原稿間に合わず、という状態。終日家にいる。階下へ下りると、電話の音がして速度が落ちるので、ずっと二階にいた。
 
 十一月二十五日
 午前十時から財団で予算の基本方針説明を聞く。正午少し前から食事をしながら、新ビルの設計に関しての会議。
 三時、ボスニア・ヘルツェゴビナ大使。
 夕方五時から、A・ゼッカ夫妻がアメリカン・クラブで感謝祭の夕食をごちそうしてくださる。私が全く今まで会う時間がなかったので、七面鳥のおまけがついた。
 
 十一月二十九日
 夜、裏千家家元・千宗室氏と若宗匠・千宗之ご夫妻が、阿川弘之ご夫妻と私たち夫婦を招んでくださる。阿川さんの文化勲章、三浦の文化功労者のお祝いをしてくださったのである。阿川さんとお家元とは、海軍のお仲間だが、「海軍ではどちらがエラクていらしたのですか」と聞くと、阿川さんの由。じゃ、ほんとに偉いんだ。
 この日、最高におもしろかった話。亡くなられた登三子夫人は、子供の時の写真をほとんど持っておられなかった。若宗匠が母上の伝記を書くにあたり探し出してみると、鼻はぺっちゃり、煩はまるまる。同じ年頃の娘たちの写っている集合写真の中で、どれが登三子さんか、誰もわからなかったそうだ。お家元によると、結婚して半年くらいで、顔つきがどんどん変わってこられた、と言う。あの美しさは奇跡によって生まれたものなのか。
 お家元には周囲に責められて、「仕方なく」元気になられて、生きる限り働いて、お土産話をたくさん持って奥さまに再会なさって頂きたい、と願うばかりである。
 
 十一月三十日
 午後、海上保安庁運用司令室を訪問し、遭難船舶船位通報システムを見学。最近立て続けに、アルミのインゴットを積んだ日本船が海賊に襲われたので、船位を確認する業務を教えておいて頂くと、今後専門家の話を理解しやすいというお願いを聞いて頂いたもの。
 
 十二月一日
 午後、財団で賞与支給。私は無給だからボーナスともご緑がない。
 三時から中野警察学校で講演。この中で信仰を持っている人はいますか? と手を上げてもらおうとしたら、最初からはっきり上げた人は一人か二人。こういう時代だからためらっているのだろうが、人にはっきり言えない信仰の方が怪しいと私は思う。警察官は、勇気がなければ仕事はできない。神奈川県警の不祥事の原因は、個々の警察官に不正に屈しない勇気がなかったからだ。
 夜、私の家で、海外邦人宣教者活動援助後援会の会合。ペルーからマヌエル・加藤神父、ケニアからシスター寺田、全トヨタ販売労働組合連合会から松浦勝さんと樹神誠治さんがPTA?として様子を見に来てくださる。
 
 十二月二日
 七時から小渕総理夫妻主催の、ヨルダン王国のアブドラ国王とラーニア王妃の歓迎晩餐会。気さくで英邁さの感じられる若い国王陛下と、美人の王妃は魅力的な方々だ。
 官邸側のメニューもおもしろい。まず日本式のお口取りが出て、それからコンソメスープ。次が焼きものを主とした日本料理のお魚料理。それからすばらしい小振りのステーキ。こういう和洋合作のお料理が正餐に取り上げられる時代になったのだ。
 食事が終わると、吉村作治先生が小声で、「横飯は大変ですね」。横飯というのは外務省用語で、外国語でしゃべりながら食事をすること。私のお隣はヨルダンの王室儀典長のファイサル・エル・ファイーズ氏で、大変気持ちのいい方だったから、日本の神道のことなどお話は尽きなかったのだが、吉村先生のお隣はお二人ともあちらの方。すなわちアラブ語で会話をされたはず。同じ横飯でも、こちらは左から右へ書く外国語だからまだいいが、あちらは右から左へ書く言語だから、大変さが違うだろう。
 
 十二月三日
 夜、新宿で、目白学園女子短期大学の教授だった親友の岡宣子さんの遺稿集『豊饒の翼』の出版記念会に出る。去年十一月二十七日、宣子さんは肝臓癌で亡くなった。
 本が届いたのは昨日。大急ぎでページをめくった。
「盆の月生家に闇夜置きざりに」
「同じ道もどらぬ夜のななかまど」
「現し世の深い音する森二月」
 いい句を残して……としみじみ思う。
 
 十二月四日
 最近うちにはちょっと毛色の変わった日本人がずっと泊まっていた。アメリカのシアトルからカトム・ユリコさん。シンガポールから陳勢子さん。イタリアのミラノにお住まいのモンティローリ富代さんである。三人共、純粋の日本人で、外国人の奥さん。しかし人一倍日本的にきれいなものが好きな人揃い。
 カトムさんは帰ってしまわれたので、今日は勢子さんと富代さんとで、芝の美術倶楽部で骨董市を見た後、「おばあさんの竹下通り」という異名のある巣鴨の刺抜き地蔵さまの縁日へ行くことにした。
 お地蔵さまの近くで、ブラジルから来たばかりの藤野さんが、車を止める所を探していて、信号無視をしたらしい。助手席に座っていた私が気がつかなかったのも悪い。感じのいいお巡りさんによくお詫びして罰金を払い、後でよくもここには「おのぼりさん」と「田舎っぺ」ばかり集まっていたものだ、と気がついて笑い出した。
 四人は皆中年より少し上だが、この年まで誰一人としてお地蔵さまの近辺へ来たことがなかったのである。それで勢子さんは「シンカッペ」、冨代さんは「イタカッペ」、藤野さんは「ブラカッペ」、私は東京とは言えもう神奈川県に近い端っこの田園調布から来たから「デンカッペ」ということになった。これでカトムさんもいたら「アメカッペ」も揃ったのに、惜しいことをした。
 お地蔵さまでは、勢子さんが、塩大福、豆餅、鳥の子餅、芋ようかんなどを買いまくって、それで一同満足。
 
 十二月五日
 午後、モーリス・ベジャール振付で、東京バレエ団出演の「ザ・カブキ」を見る。私はベジャールのファンなのだが、どうしてオペラやバレエで廓を描くと、こうも薄汚くなるのだろう。廓には虚偽的品格があったはずなのだが。討ち入りと切腹の場面はよくできているが、三島由紀夫氏の自決以来「富士山、芸者、五重の塔、切腹」になった。それも寂しい。
 
 十二月六日
 夕方、歯医者さん。私は眼が悪かったが、歯はまだ全部自前。少しおかしな感じがすると、すぐ歯医者さんへ飛んで行く。
 夜はマッサージ。ここのところ、何かしていない時間はずっと原稿を書いている、という状態なので、体中コチコチ。
 
 十二月七日
 十時、日本財団で執行理事会。
 十一時、NHKの方たちと、来年後半に始まる予定の聖書の話の打ち合わせ。
 午後一時。十九日に日本財団の関連のスポーツ財団が主催する神宮の「ふれあいマラソン」に車椅子で出場してくださる田中照代さんと東京新聞の対談。
 二時半、二〇〇〇年六月二十六日にイスタンブールで行なわれる世界商船大学フォーラムについて、イスタンブール工科大学のサー学部長ほか。
 三時、厚生省の堺厚生科学審議官。
 夕方、夫と国立劇場で「義経千本桜」「芝浜」などを見る。夫は芸術文化振興財団の仕事をしているので、第一、第二国立劇場のことを「劇場関係者」の一人としてけっこう本気で考えているのだが、どうしても歌舞伎的な感覚も素養も板に付かない。
「大物浦の荒海を望む渡海屋の裏手の場」では、安徳天皇を守る官女たちが、合戦の様子を案じて障子を開ける、という場面がある。すると、「心配なら、最初から障子を開けときゃいいんだ」とかなり大きな声で独言。周りに聞こえるから小さな声にして、と私は身が縮む。
 
 十二月八日
 午後一時から五時少し過ぎまで、司法制度改革審議会。臨時教育審議会以来、こんなに長く疲れる審議会はない。
 
 十二月九日、十日、十一日、十二日
 やっと三戸浜の海の家に来た。晴れて温かく、蜜柑もレタスも水仙も、すべてが元気。ここのところ毎日大根ばかり煮ている。うすあげ、身欠き鰊、ぶりのあら、などと煮るのである。
 



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