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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ハワイとはどういう国か?(上) 一問あれば百答あり  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/03/30  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「アイスクリーム」との出合い
 一つの問いには、答えが一つしかないわけではない。あのNHKでさえも、番組のなかで問題提起を行うには、回答を三つぐらいあらかじめ考えて筋書きを設定し、そのなかで無難で視聴者からの文句が一番少なそうな答えを一つ選んで一つのシナリオを作るのだ、と言う。だからNHKは面白味に欠ける??という話を聞いたこともある。だが、ここでNHK論をやるつもりはない。でもよく考えてみると、旅の話はこれとよく似ている。
 たとえばハワイである。この島には年間二百万人の日本人が訪れ、海外旅行先としては人気ナンバーワンである。それだけに「ハワイとは何ぞや」と問われれば、答えは一つではないのはもちろんのこと、答えが三つ以内に限定されているわけでもない。おそらくハワイは「一問百答」の世界有数の観光地なのだろう。私は、これまで仕事も含めてハワイに七回行ったことがある。行くたびに「ハワイとは何ぞや」についての私自身の答えが変化する。そこが、外国への旅の面白さなのだ。ハワイ州観光局の調査では、日本人の観光客の四〇%はいわゆるリピーターであり、ステレオタイプの旅行ガイドブックにだんだん満足しなくなる。「最大多数の最大幸福」をめざして編集すると、どうしても複雑な定食になってしまう。
 私にとっての「定食」ではないハワイとはいかなるものか。それを書こう。
 一九六八年一月、初めての海外旅行がハワイだった。しかも会社の出張だった。このときの私にとって、「ハワイとはアメリカなり」であった。
 私は当時、ある新聞社の経済記者をやっていたが、国際収支の赤字が頭痛の種だった米国は日本に対し、米国の国債を五億ドル買えと要求してきた。まだ経済の規模が小さかった日本の外貨準備は二十億ドルしかなく、輸入の決済のドルの確保に四苦八苦しており、米国債の購入どころではなかった。そのための会談がホノルルで九日間も続き、私は取材に出かけたのだ。「ホウ、ハワイに仕事にいらしたのですか。奇特な方もいらっしゃるものですのう」。この地の日系一世に、冷やかしとも激励ともつかぬ「ご苦労さん」を言われたものだ。確かにハワイというところは、決して暑いわけではないが、あまりにも温暖で、人々の動きが万事のんびりしている。東京からやってきた各社の記者たちも特ダネをものにすべく、秘密会談の行われたサーフライダー・ホテルの廊下に忍び込んだり、いろいろ試みたが、ハワイの風土のせいか、今ひとつ気合が入らない。
 バタバタと駆けまわる東京人は、この地では違和感をもって迎えられたに違いない。そのうち特ダネへの戦闘意欲も萎えてしまった。ともかく場違いなのだ。かといって昨今の旅行案内番のお勧めのようなショッピングというわけにもゆかぬ。一ドル=三百六十円時代であり、とても手が出ない。米国とは物価の高い国、一ドル=百円でちょうどいいのではないか??と思ったものだ。
 アイスクリーム屋に入る。ここなら安い。いまでは東京のいたるところにあるが、「三十一」種のアイスクリーム、BASKIN ROBINSだ。「ONE ICE CREAM」といった。そしたら店のおばさんが早口の英語で何やら言った。「バニラ、リコリッシュ、ナッツ、ストロベリー……」。後日、そう言っていたのが判明したのであって、そのときは、皆目わからなかった。あの黄色い普通のアイスクリームのつもりで「JUST ICECREM」と言ったら、「この店は全部アイスクリームだ」と笑われた。当時の日本人にとって、アイスクリームといえばバニラに決まっていたのだ。
 私にとっての初めてのハワイ旅行、それはまさしく豊かな消費社会米国との出合いだったのだ。
 
落下したヤシの実二つ
 二度目のハワイ訪問。それは七二年、三年半のワシントン駐在生活を終え、帰途、ホノルルに立ち寄ったのだ。そのときの私にとって、「ハワイとは日本なり」であった。午前七時から純日本風の朝食を出す食堂があると聞いて、ワイキキの浜辺に出た。アメリカン・ブレックファーストには食傷していたからだ。
 突然「アブナイ」と正真正銘の日本語の叫び。どちらが先だったかはさだかではない。ヤシの実が二つ、私と小学生だった息子の頭をかすめ地上に落下した。
 声の主は、日本式食堂の店先をホウキでていねいに掃いていた日系米人のおじさんだった。朝の掃除は昔の東京の下町ではよく見かけた風景だが、ハワイにはそれがある。「ダイジョウブ? ヤシノ実デケガスルト、MUNICIPAOFFICEガ、ホショウシテクレルケド、ケガ、ナイホウガイイデス。ウンガ、ヨカッタネ」と。この人の気持ちの温かさがほんのりと伝わってきた。
 他人のことはWHO CARES(知っちゃいない)の米国生活の後だっただけに、ハワイには「下町の人情がある」と古きよき時代の日本をかみしめた。
 旅行記というものは、旅人と旅先との対話である。だから同じ場所について書かれたものでも、旅人の数だけ旅行記がある。しかも、同じ人物が同じところを再三訪れた場合は、そのつど、旅行記の中身も変わってくる。
 九〇年。半分仕事で、半分は観光で何度目かのホノルルを訪問した際のハワイ旅行記がそうであった。その時点での私にとってのハワイとは、「日本があり過ぎる」であった。それを「もうひとつのハワイ旅行」と題して、ある企業の社内報に随筆を書いたのだが、それは以下のような書き出しだった。「ハワイの日本化は目を見張るばかりだ。特にホノルルのワイキキはその印象が強い。一日、一万人の観光客が滞在するハワイの訪問客の半分は日本人であり、海岸に林立する高層ホテルの七〇%は日本資本だ。土産屋のお目当ては日本人であり、これではヤシの並木のあるワイキキは、温泉の出ない別府か熱海の海岸を散歩しているような錯覚に陥る。ホテルも日本語通用、地図も日本語アリ。土産物屋も日本語、寿司屋、ラーメン屋、おにぎり屋あり、日本語の観光客用の新聞もある。ゴルフ場の八割は日本資本だと聞いてびっくりした」
 十八年間のハワイ旅行のブランクの期間に「ホノルルよ、どうしてそんなに変わってしまったの」。米本土からの帰路、一杯の味噌汁に出合って感激したあのホノルルはどこに行ったのか。どこに行っても日本人。それはそれでよい。「あそこは駄目だよ、日本人が多いから……」と“海外旅行の通”ぶった人はよくいう。私にはそういう趣味はない。「そういう偉そうな、ことを言うのなら、お前一人でその国を歩いて見ろ」と言いたくなる。それをやらずに「あそこは日本人が多いから」などと恰好をつける手合いは、日本人であることをやめたらよい。
 初めに行いありき。このとき、もうひとつのハワイ、つまり米国のハワイを味わうために英語の観光ツアーに参加した。確か値段も二十ドルと格安だった。当時のメモ帳が見つかった。
 
強者どもの夢の跡
 アイランドボーイ(ハワイの島生まれ)と自己紹介するガイドのK君の音頭で、十数人の小型バスの乗客、国籍と名前を名乗り合う。米国の中西部出身の家族二組、オーストラリア人の女性グループ、スウェーデン人の家族。そして「私」である。「エー、これからインターステートに乗って島めぐりに出発。インターステートは州から州を結ぶ高速道路。島から出られないのに、インターステートとはこれいかに……」。ちょっとしたジョークに一同ウフフ。
「ここはチャイナ・タウン。この店は一八八二年創業の中華料理店。砂糖工場に奴隷的労働者として連れてこられた大量の中国人が、満期明けに伴い残留した。それがホノルルの中華街。アヘンの輸入で大もうけの中国人が開いた街。ベトナム人、タイ人もここに住んでいる」とK君はいう。
「後日、この街の最古の中華料理店、和発酒家で焼きソバを試す。安くて、味もまずまず」とメモ帳に記してあった。
「右に見えますのは、ホノルルの××ホテル。日本資本が建設した超高級ホテルで、スイートルームは一室一泊千七百ドル。ホノルルの住宅の一カ月分の家賃より高い。ほんとに日本人はお金持ち。ハワイの住宅難は全米一。入居のためのウエーティングリストに三十五年もかかる公営住宅もある。それなのに日本の成り金が、リムジンで島を乗り回し、一日で二百戸の住宅を買い占めてしまった」。メモにあるガイド君の解説を再現したら、こんなとんでもないストーリーになった。九年前の話である。
 そして、今のホノルル。一九九八年に訪れたとき聞いた話だが、日本の不動産資本の大部分は撤退中とのことだった。「日本が買いとった」と騒がれたアラモアナ・ショッピングセンターも売りに出されるとか。「ハワイは何ぞや」。それは、日本のバブル経済時代の「強者どもが夢の跡」でもある。この芭蕉の句は、「夏草や……」で始まる。オアフ島は、いつも常夏の緑に包まれている。だが十九世紀、キャプテン・クックがこの島を訪れたころは、ヤシの木と砂と岩だらけの殺風景な浜だったという。
 



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