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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: オランダ王国第二話「貧しき者、汝はパンを盗め」  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1997/01/28  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  酒天童子か亡霊か
「渡る世界には鬼もいる」。この題名、江戸時代からのいい伝え「渡る世間に鬼はなし」のパロディーである。『財界』社長の村田博文氏から、早速、「鬼とはなんぞや。その定義を問う」との電話があった。「おお、おいでなすった」。VERY GOOD QUESTION だ。日本では、恐ろしい形をして人を食うのが鬼であり、大江山の酒天童子なんていう話もある。中国では、鬼とは亡霊のことだ。昨年、長江を下った際、出港地の重慶の次の寄港先が「鬼城」の観光であった。そこではあの世の人間、いや神仏はすべて鬼という普通名詞で呼ばれていた。
 しかしここでいう「鬼」とはそういう意味ではない。念のために平凡社の百科事典をひいた。「鬼とは、和名抄によると隠がなまったもので、姿がかくれて見えないものをいう」とある。ただし、複眼でみると、見えてくるものらしい。だから、「その気になって世界を旅すると、知ってるつもりでも、あっと驚く知らない世界があるものですよ」。それがこの随筆のタイトルにある「鬼」の定義だと思っていただきたい。
 さて、オランダは、そういう意味では鬼のたくさんいる国である。ただし、それは通常の旅行案内書には書いてない。私が“鬼の存在”のきっかけをつかんだのは、『週刊・欧州ニュースダイジェスト』というホテルやレストランに置いてある無料のパンフレットだった。その一面トップの記事に、「ムスケンク司教がコック首相と“貧しき者はパンを盗んでよいのか”について論争した」とある。オランダを案内してくれたM・角柄さんにこの話を解説してもらった。カトリックの坊さんが、“貧しき者、汝はパンを盗め”と教えるとは……。オランダとはいったいいかなる国か??と聞いてみたのだ。
「そう。オランダは面白い国でしょ。なんでも主張しなければ損をする国、そして弱者が堂々と威張って暮らしている国なのよ」と彼女はいう。一個のパンをめぐって首相と司教が論争するとは面白い国柄ではないか。
 パン論争のきっかけは、あるホームレスが食物を盗み警察に捕まったことに始まる。彼は「私は貧しいから盗みをするのだ」と堂々と主張した。この話が伝えられると、カトリックの司教が貧しき者を援護した。「彼は正しい。貧しき者はパンを盗んでもよいのだ」と聖書には“汝の隣人を愛せ”とか“心貧しき者、汝は救われん”とはいっているが、これをどう解釈したら、“盗んでもいい”ことになるのか、あるいはこのような聖書の引用とは無関係なのか。そういう神学論争は私の得手ではない。ともかくオランダ国総理大臣コックさんは、この事件を国の治安の危機と受け取ったのである。そうしてこう反論した。
「オランダは互助協力の美風をもち、人権を尊重する伝統ある民主主義国である。貧しき者が貧しさを主張するのはよい。しかし、オランダは食糧に困っている国ではない。隣の人に、じゃがいもやパンをくださいといえば必ずもらえるのだ。どうか盗まないでほしい」と。この事件はTVでも「貧しき者の議会」という名の番組で取りあげられ、髪の毛の長い麻薬常習者や、入れ墨をしたホームレスが出演し、「それでも俺は盗む」と宣言したという。なんともはや、オランダとは奇妙な国である。同じヨーロッパ人でもアングロ・サクソンの目からみると、オランダはやつぱり変てこな国に映るらしい。
 前号でも紹介したアングロ・サクソンの書いた『THE UNDUTCHABLES』という皮肉っぽい本によると、「過度の自由の心をもつ母親と福祉精神に満ちあふれた父親に育てられている国、それが現代オランダだ」とある。オランダの「自由」と「福祉」は世界一であり、ここまでいくと、「うらやましい」というより「すさまじい」といったほうが適切かもしれない。
 例えば「自由」についてである。この世に存在する「自由論」の極地は、英国人J・S・ミルの書いた古典『ON LIBERTY』で、「他人に迷惑が及ばぬ限り、個人は自由を謳歌すべき」がその趣旨だが、この本の「自由」が現代オランダにそっくりあてはまるのではないかとお見受けする。
 麻薬は、ヘロインやLSDはダメだが、ソフトな麻薬(例えばマリファナやハシシ)の個人の所有はOK。売人も三十グラム以下なら違反ではあるが格別の罪にはならない。オランダは安楽死について国家が容認する唯一の国である。病苦から解放され、死という最後の選択を行うのも、個人の自由に属するのだ。
 男女の同棲が結婚と同等に扱われるのも、この国が個人の自由をいかに尊重しているかを示すものだ。「結婚」という形をとるかとらないかは、男女の自由であり、公証人役場で、「緒婚」の代案として、「同居契約」を登録することもできる。社会保障も結婚のケースと同等だ。だからオランダのパーティなどの招待状は「MR&MRS X」ではなく、「MRX&HIS PARTNER……」と書かれるのが通例である。
 PARTNERの話とはもちろん無関係ではあるが、この国では売春は合法である。「福祉」の話になるが、売春婦は立派な職業であり社会保険、病気の際の休業補償、妊娠やメンス時の所得補償も、他の職業の人と同様に国や地方自治体が手厚くやってくれる。オランダとは「超福祉国家ナリ」であり、失業すれば給料の七〇%を政府が保証してくれる。もともとこの国は、会社をクビになる心配はあまりない。与えられた仕事がイヤなら転属を申し出る権利があり、それでも仕事がイヤなら、ノイローゼになったと申し立てれば、合法的に数カ月の有給休暇がとれるとのことだ。
 いたれり尽くせりの超福祉国家オランダ。それでも人々は不満をもち、いや、だからこそ不満のタネを見つけて、ストライキをやる。スキポール空港に向かうためロッテルダムから鉄道を利用した。ストの余波とかでダイヤは乱れに乱れていた。「近代文明の産物である高度の技術が鉄道システムに取り入れられたので、神経が疲労する。週三十六時間労働に短縮せよ」が、労働組合の要求だそうだ。急行で四十分で空港にいけるところを、回り道して一時間半の旅になった。
 おかげですばらしい? 発見をした。鉄道より一メートも高所にある運河の水面越しに小ぎれいな白亜の建物が幾棟か見える。住宅用地かと思ったら「刑務所よ」と角柄さんが言う。全室個室、キッチン付き、テレビ、ステレオも持ち込める。オランダでは「犯罪者」と呼ばずに「社会の犠牲者」というのだそうだ。刑事裁判の刑期も、刑務所の収容余力で決まるという説さえある。「これではあんまりだ」というわけで、一部屋二人刑が議会で提案されたが、否決されたとのこと。「受刑者には可能な限り、普通人のライフスタイルを」が否決の理由である。
 



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