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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: スリ・ランカ(美しい島)を訪ねる(上) キャンディ王国の跡  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/02/16  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「インド人もびっくり」
 世界地図を開く。インド亜大陸の南端に、西洋梨を半分に割った切り口のような形の島がある。南北の最長が四百三十五キロ、東西が二百二十五キロ、北海道より少し小振りだが、人口はそれよりも三倍以上、千八百万人もの人が住んでいる。インドからポーク海峡をはさんで三十キロも離れていない。インド亜大陸からアーリア人種が移住し、それに伴い仏教と稲作文化が伝播した。南アジア文化圏に属するこの独立国が、現地語で「美しい島」を意味するスリランカである。
 日本人は明治の昔から戦後にいたるまで、この島はインドの一部だと思っていた。明治の初期、真言宗の僧侶、釈興然が、この地に渡航・留学し小乗仏教を学んだ、とものの本にあるが、当時スリランカではなく、「印度遊学之事」と名づけた留学許可願いを明治政府に出している。
 一九三二年(昭和七年)に書かれた森鴎外の娘、小堀杏奴の、「コロンボ」と題するエッセイを読んだ。その一節に「印度という所は、男も女ものんびりしていて、総てが人間として独立するより、自然の一部分と云った感じがします」「道の所所で、印度の坊さんが歩いているのを見ました。皆樺色か黄色い衣を纏ひ、……、手に天狗が持つような団扇を持って、恐ろしい目をギョロ、ギョロ光らせている……」とある。
 この光景は、まさしくスリランカであり、インド亜大陸のそれではない。だが当時、小堀さんにとって、スリランカとインドの分類上の区別はない。もちろん、カレーを主体とする食文化や、カースト制度など両国に文化的な共通性はあるが、もし現代インド人が彼女のエッセイを読んだら、「インド人もびっくり」だろう。
 インドとスリランカは、今日においては“似て非なる国”である。だいたい道のいたるところに「印度の坊さんが歩いている」光景は、仏教の本家でありながら、それがほとんど滅亡してしまったインドでは、あり得ない。
 もっとも、これは小堀女史のせいではなく、世界中が、近代に入ってからインドとスリランカの区別をやめてしまったからなのだ。スリランカの建国は紀元前五世紀といわれる。それから二百五十年後に東インドから仏教が伝来し、この島の古代王権は仏教と灌漑農業を中心に発展した。その後、南インドのヒンドゥ教の王権と、この地に定着した小乗仏教のシンハラ王権との戦いが繰り返されてきた。スリランカ史にはそう書いてある。
 国としてのインドとスリランカの区別を廃止したのは、東洋を植民地支配した十九世紀の英国である。この島は、一八〇二年の条約でイギリスの一元統治となってインド帝国へ編入された。以来一九七二年の独立にいたるまで、スリランカはインドだったのである。
 六十年前小堀女史は、コロンボの港から車で、シンハラ仏教の最後の王国の跡、キャンディに出かけている。山の上に英国に滅ぼされた王宮と、釈迦の歯が祭られている仏歯寺がある。エッセイに触発されたわけではないのだが、思い立ってキャンディに出かけてみた。

「キャンディは俺のことか」と寺がいい…
 ガイド兼通訳のマラスリエ君(MALATHURIE・若い太陽という意味)とバンに乗り、コロンボ市内のホテルからキャンディ市をめざす。この“若い太陽”氏、年齢は四十歳、日本語がウマイ。食うために独学で覚えた日本語だという。
 キャンディ、アルファベットではKANDYと書く。覚えやすいがそれにしてもCANDYを連想させ、いかにも安っぽい名前ではないか。だがキャンディ王国の正式名称は、「カンデー・ウラ・ラタ」だと彼はいう。「山の高い国」という意味だ。もともと、この地に十三世紀に興ったウダ・ラタという仏教王朝の名前である。それなら「ウダ・ラタ(高い国)市」と命名するのが本筋なのに、植民地時代、イギリスが「キャンディ」と呼び慣らしてしまったとのことだ。
 九八年十一月。一年の二度目の田植えのシーズンである。そろそろ雨期に入るので、北緯七度の熱帯の島の暑さはそれほどではない。コロンボからキャンディまで、山あいを国道が蛇行しながら上っている。車で三時間半の行程だ。道の両側は緩やかな山地で、山あいに入り組んだ狭い平地に水田が広がる。村民の共同作業なのだろう、腰巻きとシャツ姿の十人ほどの女性が、一列の横並びとなって田植えをしている。隣の田んぼでは、老人が牛にスキを曳かせて、深々と耕している。五十年前の日本の農村風景と変わりない。
「見なさい。フンドシ、フンドシ……」とガイドの“若太陽”君が指さす。水牛を使う老人は六尺フンドシ一丁の裸で、泥まみれの作業をしていた。「フンドシ」という日本語を彼が知っているのはいささか驚きだったが、多分、物珍しさに喜ぶ日本人観光客が教えたのだろう。
 スリランカの土は、日本の土ほど黒くはない。雨水がたまると朱色になる。椰子、芭蕉、アカシア、マンゴー、パパイア。それぞれの緑が朱色に映えて、旅人の目を楽しませてくれる。途中、椰子の実を買う。日本円で一個三十円。ビールビン一本分はあるココナツジュースを試してみる。椰子は五年で大人になり寿命は三十五年。家を造るとき植えるのが習わしで、スリランカでは木材は高値だという。
 道中、痩せ犬がやたらに目につく。ほとんどが飼い犬とのことだ。「仏教徒のシンハラ人は生き物を殺しません。原則として肉は食べません。だから生活が貧しくても犬はたくさんいる。犬が痩せているのは、この国の人間と同じように菜食だから。でも菜食の犬は穏和で、吠えたり喰みついたりしない」。“若太陽”君の説である。というわけで、キャンデイに限らずコロンボ市内にも放し飼いの痩せ犬が多い。だが、年に一、二回、コロンボ港周辺の犬が一匹もいなくなることがある。「北朝鮮の貨物船が入港すると、犬を連れていってしまう。あの人たちにとって、犬は最高の食べ物らしい」と絶句する彼。実話である。
 田園風景、そこに働く稲作農民、そして痩せ犬。車窓から眺めるこの国の田舎は、自然と人と動物がゆったりと共存し、時計がのんびりと動いている。「男も女ものんびりとしていて、全てが自然の一部分と云った感じがします」と書いた小堀さん。同感である。
「そう。パンチャ・シーラ(五戒)を仏教徒が忠実に守っていたころは平和な国でした。でも、イギリスがキャンディ王国を滅ぼしてから、私たちの国は変わってしまった」と彼はいう。「英国の植民地化が、この国の不幸の始まり」。これがスリランカ知識人の定説である。
 キャンディの町は、なだらかな山に囲まれた盆地にあった。「スリランカで、一番、スリランカらしいところです。日本でいえば京都」というので、「京都に行ったことがあるの」とガイド君に聞いた。日本のODAでやっているコロンボの日本語学校で一番だったので、日本旅行に招待してもらったそうだ。この島の北に栄えていたシンハラ人の王朝(仏教徒だが人種的には二千年前インドから来たアーリア人だと自任している)が、インドからの侵入者に追われ南下を続け、十九世紀の初頭英国に滅ぼされるまで、三百余年、仏教文化の華を咲かせた。

「仏の御利益目でわかる」
 インドで生まれた仏教が、なぜインドを追われたか。それは、同じヒンドゥ教から生まれたのが仏教だが、カーストの僧侶階級の支配に強く反対し平等を説いたからである。ではなぜ、ここで栄えたのか。それは海を隔てた島国だったからだろう。それにこの地の王たちは、歴代、王としての正統性を仏教に求め、その代償として王は仏教を国家として保護したからではなかったか。王と仏教の持ちつ持たれつの関係のなかで栄えた仏教文化の目玉は、この町の中心、仏歯寺(TEMPLE OF THE TOOTH)である。キャンディ湖畔、肌色の壁に茶色の屋根、シンハラ建築様式だという八辺形の堂と、その後ろに王宮跡がある。とてつもなく大きな菩提樹がある。樹齢何百年なのかはつまびらかでないが、前出の小堀さんのエッセイにもある。
 一八一五年、英国がこの寺の本尊である釈迦の犬歯(仏歯)を確保、そしてウダ・ラタ王国は滅びてしまった。仏歯寺に入るには、靴を脱ぐしきたりになっている。面倒なので門前に靴を預けたまま、ハダシでこの古都を二時間ほど散策した。砂と小石の心地よい痛みが足裏のツボに伝わってくる。頭がすっきりして、景色がはっきりと見えてくる。
「そんな気がする」と言ったら、
「それは正しい。スリランカ人は目の悪い人はほとんどいません。ハダシで歩く人が多いから……」と彼がいうのだ。
「コロンボにはアイバンクがある。来世の良い運にめぐり合うために、死後、目を寄付する人が大勢います。でもスリランカ人は、目は不要。半分は日本に寄付されてます。これ仏教の慈悲の心。先生、ハダシで歩いたから、仏の心が通じた」と彼。私の足裏の指圧効果、それは「仏の御利益」と思うことにした。
 キャンディは旅人を、そんな気持ちにさせる古都である。
 



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