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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 中央アジアの草原にて(2) タシュケント(石の町)・雑記  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/07/13  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「キムチ」あります
 タシュケントは、二千年のオアシス都市の歴史をもち、十一世紀ごろから、トルコ系遊牧民によって「石の町」(タシュケント)と命名されたという。ウズベキスタン共和国の首都である。人口は二百万人、中央アジアの中心都市ともいわれる。「ウズベキスタン」という国名は、ワールドカップサッカーのアジア地区予選リーグで、日本がかろうじて勝ったこともあって、昨今、日本でも知名度が出てきた。だが「中央アジア」となると別問題である。
 結構、もの知りの人でも、中央アジア五カ国の国名をよどみなく列挙できる人はまずいない。ましてや「中央アジア」とは何ぞや?と問われたら、答えに窮するのが普通だ。
 私のウズベキスタン行きは、これで二回目である。一回目は東京からフランクフルト経由でカザフスタンの首都アルマトイに。そこからバスに十時間も乗ってタシュケント入りした。今回は韓国のソウルからタシュケントに七時間で直行した。空のシルクロード、週一回の定期便だ。日本からヨーロッパよりずっと近い。やはり地理的にはアジアだった。ところで、どうして韓国がウズベキスタンに定期航路を持っているのだろう。
 中央アジア、とりわけウズベキスタンの隣国のカザフスタンを中心に朝鮮族が二十万人も住んでいるからだ。カザフとウズベキでは韓国レストランがありソウル直送の本物のキムチがふんだんにある。
 だが、そういう私も、本当はこの地域をわかっちゃいない。タシュケント空港で、私にロシア語がダメならドイツ語で話せと要求する女性空港職員に遭遇、大いに面食らったのだ。彼女は茶髪の白人だったが、れっきとしたウズベキスタン人。「私、英語を話さない。用があるならドイツ語で言ってほしい」と英語で言う。いつまで待っても出てこない荷物の行方を尋ねたのだ。「今、英語で話しているじゃないか」といったら「ナイン、ナイン」。荷物が「ない、ない」では酒落にもならぬ。ウズベキスタンとドイツ語といかなる因果関係があるのか……。それが解せない。
 東京で一度面識のあったタシュケント国立大のアルクメドフ副学長が出迎えてくれた。米国ジョージ・タウン大学院出の経済学博士だ。
「世界広しと言えども、英語の代わりにドイツ語で話せという空港は始めてだ。ドイツでもそういう経験はない」。そう言ったら「中央アジアの多様性さ」と彼はいう。「ウズベキスタンには、ドイツ系が少数だが住んでいる」と。初耳であった。副学長氏の解説によるとスターリンの「敵性民族集団強制移住政策」の産物だそうだ。クリミアのタタール人、メスヘティアのトルコ人、沿海州の朝鮮人、そしてヴォルガのドイツ人がその一例だという。空港の彼女は、きっとドイツ系の三世だったのだろう。
 中央アジアの歴史は、東洋人とりわけ日本人にはつかみどころがない。欧州中心の世界史と、中国中心の東洋史が、それぞれこの地域を本流の外にある辺境として位置づけているからだ。中国からみればこの地域は「西域」であり、欧州は東にあるこの砂漠と草原を「トルキスタン」(トルコ系遊牧民の土地)と名づけた。旅をしても、両者の歴史観の透き間を埋めるのは容易ではない。そう思って今回の旅には『中央アジア史』(角川書店刊)を持参した。東京では頭に入らなくても、臨場感のある現地のホテルで読むと大いに役に立つ。
 
ソ連のプレゼント地下鉄
 本で得た知識をもとに副学長氏の中央アジア論を現地学習した。東西トルキスタンとモンゴルとチベットを含めて「中央アジア」と命名した時代(十九世紀)もあったが、今日では、ソ連邦時代の五つの共和国をさして中央アジアという。一八六七年、帝政ロシアは、中央アジアを併合し、セント・ペテルスブルクに「トルキスタン省」を設置、そしてタシュケントに皇帝の総督府を置いた。ウズベキスタンとりわけタシュケントが選ばれたのは、草原の文明度が高く魅力的に映ったのだろう。
 世界がいま注目しているこの地の石油、天然ガスの地下資源が、さほど重要性をもたなかったころの話である。まだ中央アジアには間仕切りとしての国境もなく、オアシスの諸都市にある王国の外の空間は、遊牧民が自由に往来していた。使用言語に若干の違いはあったものの、中央アジアは地域的にも民族学的にも一つの生体だった。この地に国境線を画定したのはスターリンである。ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、タジキスタンを名乗るソ連崩壊後の五つの独立国はその当時の区別そのままである。一個の生体を切断し、バラバラにしてソ連の中央集権に組み込んだのだ。
「DEVIDE AND RULE」。つまり分割統合である。ロシアとソ連は新植民地、中央アジアに膨大なカネを注ぎ込んだ。タシュケントには地下鉄が二路線ある。「植民地支配にはいいこともある。鉄道を建設したり!」と発言して物議をかもした日本の政治家がいた。それはアナクロニズムであるとしても、地下鉄がソ連の高価な置き土産であることは確かだ。試しに三駅ほど乗ってみた。駅は豪華で、電車は速くて、涼しい。トンネルには空気をかきまわす巨大な扇風機がついている。ソ連の威信をかけて建設したとのこと。「威信」というものには「値段」がない。国力がまだ貧弱だったころ建設された東京の「銀座線」や「丸ノ内線」よりはるかに賛沢にできていた。
 この街には千五百人収容の石造りのオペラハウスがある。一九四七年完工だが、シベリアから連れて来られた日本人捕虜の強制労働で建設された。六六年、この地に直下型地震が襲い街の大部分は崩壊したが、この建物だけはびくともしなかったという。日本の先輩たちは捕われの身ではあっても、絶対に手抜き工事をしなかった。「日本の兵士は規律正しく勤勉だった」。今でもそう語り継がれている。
 鉄道、近代的ビルなどの大部分のインフラ、そして銀行や工業生産の経済システムは、ソ連が基礎を作った。コメコン(COMECON)分業体制のもとで綿花生産に特化するよう命じられ、下請けの地位に甘んじていたが、経済的には植民地時代のこの国は失うものより得るもののほうが大きかったのではないか。だが民族としての誇り、あるいは文化的伝統となると話は別だ。スターリンは、民族自決とイスラム教正統派を極度に警戒した。たとえばである。今日ではウズベキスタンの国父として仰がれている十四世紀のティムール王朝の創始者アミール・ティムールの墓をあばき、「生首のピラミッドを築いたティムール」と単なる残虐者扱いをした。
 
レーニンの一枚の絵
 その半面、ティムールの孫で、イスラム正統派の思想には興味を示さなかったウルグ・ペグを絶賛した。ウルグ・ペグは、サマルカンドの丘に地下天文台を築き、肉眼で星の位置を観察し、一年の長さを確定、「ウルグ・ペグ」の天文表を発表した。だがその天文台がどこに存在したのかは何世紀にもわたって不明だった。うずもれた天文台跡を見いだしたのはロシア人の考古学者で、二十世紀初頭であった。
 私は地下部分の天文台跡まで出かけたのだが、深い地下から星を観測するというイスラム文明の発想が面白かった。井戸の中から天を仰げば確かに昼間でも星が見える。昼間の空は青い。それは空気中のチリに太陽が乱反射するからだ。深い井戸から空を見れば、乱反射は避けられる。宇宙に行けばいつも星が見えるのと、ほぼ同じ状態が作れるのだ。スターリンはそういう科学的精神がお好みだったらしい。「科学を極めると神の存在が否定される」。それを恐れたイスラム教カルト集団に暗殺されたウルグ・ペグは科学の殉教者である??と持ちあげた。
 タシュケントには、ウズベキスタン独立後にわかにティムール博物館が建設された。ソ連離れをするために民族独立の象徴がほしかったからだ。「ウズベク人とは何ぞや。ウズベク人の力と正義、限りなき能力。ウズベク人の世界への貢献とゆるぎなき信念。それを知りたいと欲するなら、アミール・ティムールの姿を思い浮かべよ。大統領カリモフ・イスラム」とある。「ウズベキ族」とは、厳密にいうと十六世紀にティムール王朝をほろぼした北の草原民族をさすのだが、そういう“枝葉末節”なことは、この新興国は一向に気にしていない。
 どこかに「マルクス、レーニン、スターリンの痕跡はないものか」。そう思ってタシュケントの街を散策していたら、ついにレーニンにお目にかかった。バザール横の露天で画家が絵を並べていた。そこに一枚のレーニンの肖像画があった。お値段は二十ドル。なんとティムールの肖像画の十分の一であった。この国の税関は旅行者に難クセをつけることで悪名がとどろいている。レーニンさんには窮屈でお気の毒だったが、キャンバスを小さく巻いて、そっと日本に持ち帰った。
 



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