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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 辛口・サイパン紀行 「観光ガイド」の書かない話  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/02/15  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「地球の戸籍法」は…
 サイパンには一年で三十七万人もの日本人が訪れる。成田から三時間半、なにしろ近い。南海の常夏の自然と情緒をお手軽に楽しめる観光の島だからだ。訪問記の手始めに、ちょっとした算数をやってみる。
 一九九八年、現地政府統計局の推計によれば、サイパンの推計人口は約六万人とのことだ。日本人観光客は、海外からやってきた観光客の七〇%を占めるが、仮にこの島にやってきた日本人観光客が五日間滞在するとしたら、島で日々出会う人々の十二人に一人は、日本人であるとの計算が成り立つ。日系資本のホテルが九つもある。海水浴、ウインドサーフィン、アクアダイビング、ゴルフ、そしてブランド物のショッピング。九九年十一月、私たち一行がパラオ共和国からの帰途、立ち寄ったこの島は、いつものようににぎわっていた。
 ふと妙な疑問が頭をよぎったのである。この島を訪れる観光客に「サイパンとはどこの国か」と尋ねたら、どれだけの人が正しく答えられるだろうか??と。
 島にいくつもある観光案内所で、日本文のパンフレットを集めてみた。「すべてが原色、自由気ままなパラダイス、サイパン」「透明度抜群のサイパンの海。スキンダイビングをどうぞ」「クリスチャンでなくても、チャペルで結婚式OK。挙式は判事か政府職員の立ち会いのもと、結婚証明書を発行。海外ウエディング、バッチリのサイパンヘどうぞ」とある。何やら楽しそうだ。でも、何という名の政府が結婚証明の署名をしてくれるのか。それは書いてない。
 念の為に、日本で一番人気のある海外旅行シリーズ本の「サイパン編」をめくってみた。どこにもこの島の国名を紹介するページは存在しなかった。これは、旅行随筆を連載する私にとっては、ひとつの発見であった。日本以外で出版されたどの国のガイドブックにも、訪ねる国の国名、そして簡単な歴史と地理くらいは紹介されている。島の国名と沿革抜きとは不思議な旅行案内書があるものだ。サイパン国際空港は、入国審査も税関もある。日本のパスポートを出すと、「カンコー。ナンニチ」と片言で聞かれ、入国スタンプが押される。ということはこの島はれっきとした外国なのである。それなのに、国名が今ひとつ定かではないとは……。
 サイパン島は「サイパン国」ではない。正式国名は、英語でCOMMONWEALTH OF THE NORTHERN MARIANA ISLANDSという。日本語に直訳すると「北マリアナ諸島連邦」になるが、連邦国家ではないので、「自治領」とでも翻訳しておこうか。
 この島は一五二一年、ポルトガル人の探検家フェルナンド・マゼランによって発見されたのち、十九世紀末ではスペインの植民地だった。一八九八年、米西戦争に敗れたスペインは財政が不如意になり、ドイツに売却した。第一次大戦で、ドイツも敗北、国際連盟の委任を受けて、日本が統治した。ところが第二次大戦で日本もこれまた敗北、そして米国が施政権をもつ、国連の信託統治領となった。
 百年以上も列強の植民地であったこの島の“ご主人様”は、五つも代替わりしたのである。チャモロ、カナカなどミクロネシアの原住民にとってみれば、なんとしても自分たちの政府がほしかった。信託統治終了後米国と交渉し、「盟約」を締結、一九八六年レーガン大統領の宣言により、米国自治領という政治的地位を確立した。外交と防衛の権限は米国がもつが、内政に関しては自治権を確立した。独自の憲法をもち、民選の知事と議会がある。北マリアナ諸島国は、米領であるグアムをのぞけば十四の島からなり、一番大きな島(といっても、面積は大島の二倍程度)が自治領政府がおかれているサイパンである。
 以上が、日本の観光ガイドには記されていないサイパンの「地球の戸籍」である。
 
日本国、サイパン駐在所!?
 この国には日本領事館がある。「在サイパン出張駐在官事務所」という変テコな名称の領事館だ。年輩のベテラン領事が所長だが、この人の苦労話を聞くと、その仕事たるや、誇り高き日本外交官のやることなのか??といったら語弊もあろうが、観光客のお守りとは、かくも大変なのかと同情したくなる雑事がほとんどだった。
「邦人の保護は外交官の重要な仕事です。たとえば、万引きして警察に捕まった女の子の親元への照会。麻薬所持で逮捕されたヤクザマガイの男の外交ルートでの処理。金を使い果たしたので貸してくれという若者の相談。そんな仕事で、毎日忙しいんです」と首席駐在官の河野喜邦さん。「失礼ながら村の警察官駐在所みたいですね」といったら、苦笑しつつ、本省に何度も頼み込んで若い領事を一人増員してもらったばかりだといっていた。
 わが日本国を代表する多忙な駐在所、いや領事館は、サイパン島の西海岸中央部の、この島随一の繁華街、ガラパンにある。観光の中心地である。レストラン、土産物屋、カラオケ、日本語の看板が目立つ。この情景、ハワイ・オアフ島のワイキキを頭に浮かべればよい。だが、ワイキキとは異なる。ここは日本の統治時代、南洋開発株式会社の拠点で、一万四千人もの邦人が住む街であった。私の宿泊した「第一ホテル・サイパン・ビーチ」は、そのど真ん中にあった。昔は、ホテル裏の海岸沿いに「シュガーキング」、松江春次が建設した八十キロに及ぶ砂糖運搬鉄道が通っていたというが、今では線路らしきものの形跡はない。
 記録によると、ガラパンには日本の統治時代、南洋庁支庁がおかれた。一丁目から四丁目の地番がつけられ、商店や医院、学校、映画館、料亭、鉄工所、それに銭湯もあり、島の砂糖キビ労働者たちでにぎわい「ガラパン銀座」と名づけられていたという。
 このことは、ガラパンの夜を興ずるいまの若者たちは知る由もない。四四年六月、「南洋の東京」といわれたガラパンに一挙に破局が訪れたのである。戦艦八隻を含む米機動部隊による空襲と艦砲射撃ののち、米海兵隊二個師団、二万人の上陸作戦が行われ、ガラパンは砲撃で数時間で廃墟と化したという。米軍は日本本土侵攻のための基地として、サイパンを選んだのである。この戦闘で、玉砕した日本軍の戦死者は四万千人といわれている。
 この島に住む日本人も含めた約三万人の民間人(うちチャモロとカナカの原住民約三千人)は、米軍の侵攻とともに北へ、北へと逃げまどった。島の北端にプンタン・サパネタという悲劇の景勝の地がある。別名、バンザイ・クリフともいう。日本陸海軍を率いる南雲忠一中将(ハワイ急襲の機動部隊司令)らの自決の翌日、追いつめられた婦女子と老人を含む日本人は、米兵の制止の声を背に、「バンザイ」と叫び、断崖から身を投げた。
 
テノリオ知事の悩み
 バンザイ・クリフの帰路、ペドロニアノリオ知事を表敬訪問する。サイパン生まれのチャモロ人である彼は、当時、小学校五年生だったという。南雲中将の自決した地獄谷近くの洞窟に逃げこんで、九死に一生を得た人だ。「そのとき、どう思ったかだって? 米軍に投降を勧告され穴から這い出した。水を与えられたとき、とにかく助かったと思った。とにかく僕は子供だったからね。難しいことはわからなかったよ」。彼はそう述懐している。「私も小学校の同学年だった」というと、「それなら一緒に」とカメラに収まった。
「日本語は使う機会がないので、ほとんど忘れてしまった」というテノリオ知事の最大の関心事は、米国の北マリアナ諸島に対する今後の出方だという。この国の主要産業は、衣料の縫製で観光収入を上回る。中国人を主体とする出稼ぎの縫製工を一万三千人も雇用し、アパレル製品を数量無制限、無関税で米国に輸出していることは、知る人ぞ知るサイパン事情だ。米本土より賃金が安いのが対米輸出競争力の源泉だ。ところがクリントン政権から「最低賃金引き上げにより外国人就労者の保護制度の改善を怠るなら米国連邦に編入し“自治領”としての権限を剥奪する」と脅迫されているのだ。
 その夜、ホテルのロビーには、マッサージ師をよそおった中国人女性の売春婦が出没していた。縫製工のアルバイトらしい。最低賃金を米国並みに引き上げればこの国の縫製業の将来はない。米国連邦のカサに入れば経済は安泰だろうが、民族としての誇りが失われる。“南海の楽園”サイパンも、よくよく観察すると悩みが深いのである。
 



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