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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 海南島・その光と影(補論) 雲流るる果てに……  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/08/11  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  流刑地の蘇東坡
 世界中、どんな小さな場所に旅しても、そこに人間が住んでいる限りそれぞれ固有の歴史や、さまざまな物語がある。島とはいえ九州とほぼ同じ面積をもつ海南島は、もちろんその例外ではない。むしろ故事来歴や歴史上の変化、そしてそれにまつわるエピソードは、ふんだんにもっている島である。
 この島の先住民は蔡族と呼ばれる少数民族であった。今日でも、人口の約七分の一の百十万人が居住している。中国の文化人類学の分類によれば、古代の「百越人」のひとつだという。越とは漢民族にとっては南の僻地をさし、ベトナムやカンボジアの人々と源流は同一だ、ということなのだろう。
 大陸の中国人(漢民族)は、この地を「天涯海角」(天と海の果て)とか、「瘴癘の島」(厳しい気候で、南の疫病のある地)などと名づけ、隋・唐の時代はもっぱら流刑地と位置づけていた。
 省都の海口から三時間ほど車で行ったところに「東坡書院」という観光地がある。これは北宋の時代の宰相・蘇東坡が、政治家としての頂点に上りつめたものの、皇帝の勘気に触れ島流しにあった居住地跡だ。
 詩人としても有名な彼は、生活苦にあえいだという。「北船不到米如珠。酔飽簫條、半月無……」などという詩も残っている。北からの船が途絶え、米は宝のようになった。酒を飲み、腹一杯食べることは、半月もない、何とわびしいことか……という意味だそうだ。
 奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上が日本への渡航を試みたものの、台風で失敗、五回目の渡航で、海南島に漂流、ここで一年間過ごした。そして六回目に奈良に出かけ、くだんの寺を建立したというエピソードもある。
 要するに海南は、漢民族のつづる中国古代史上は文化果つるところだったのである。
 もともと先住民の蔡族にとっては、わびしい「天涯海角」でもなければ、「文化果つるところ」でもない豊かな南の楽園だったに違いない。でも、文字をもたない民族なので、そのあたりの事情は、はっきりしない。中国が国家事業として、この島に積極的な関与をはじめたのは、革命後だ。最初は、中国南海の前線である軍事基地として、そして一九八○年代の改革開放政治の導入で、鉱山と資源の“宝島開発”の国策へと転化していった。
 どこの国の歴史も、征服者中心でいささか天動説的なところがある。海南の近代史も、中華人民共和国史観が色濃く出ている、それによると、海南への文明の訪れはどうやら八○年代以降ということになる。そのことに目くじら立てるつもりはないが、海南の近代の訪れは、もっと早かったのではないのか。
 今回の島の旅の目的のひとつは、それをこの目で確かめることでもあった。出発前、海南島には鉄道がある、と聞いた。戦前、日本が、鉱山開発のために建設した鉄道だという。ところが日本で入手し得る海南島のガイドブックについている小さな略図には、道路はあっても、鉄道線路は印刷されていない。はたして鉄道はあったのか、それともあったけれども今はないのか。
 広州から同行の張向東君に聞いた。「海南にはアジア一の埋蔵量をもち、中国一の高品質の露天掘りの鉄鉱石の鉱山はある。でも、それを運搬する鉄道があるという話は聞いていません。私も勉強になります。一緒に探しましょう」と言ってくれた。

三亜に残る日本の鉄道
 それは幻の鉄道ではなく、実在し、しかもSLに曳かれた貨車や客車が動いていたのである。だが、それを見つけるのには結構、手間がかかった。中国最南端の都市であるこの島の南側の観光地、三亜。そこには、れっきとした駅舎があるはずだとの情報を頼りに「三亜車站」(三亜駅)を尋ねた。
 そこにたどり着くまでに、少なくとも四人の三亜市民に道を尋ねなければならなかった。最初の一人が教えてくれた場所に行ってみたら、それは、鉄道駅ではなくバスターミナルであった。二人目は「三亜車站、知らない」と言った。三人目は「商店街の裏に火車(汽車)の駅がある」と言って、指さした。
 だが、それは逆方向であった。実はそこが駅の入り口で、四人目の露天商のおばさんに尋ねてようやく場所が特定できた。両側に屋台店のある神社の参道風の広い道の突き当たりが、目的地「三亜車站」だった。JRの田舎の駅よりは、ずっと大きい駅舎がある。ひっそりと静まり返っている。出札窓口のなかには駅員が二人。「火車はまだ来ないよ」という。待合室に乗客らしき姿は見えない。
 時刻表がかかっている。三亜楡林港から、三亜のダウンタウンと「天涯海角」の観光名所を通り、島の西北部の山、石碌の海南鉄鉱山に至る二百キロ。貨車の時刻表はないが、客車は一日に十四本走っている。中国発行の観光案内書に記述がないが、この鉄道は日本が建設したものだという。戦前には数千人の日本人が、鉄鉱山開発のためにこの島に住んでいたという説もある。日本がこの島を占領した三九年から四五年には、島の幹線鉄路としてにぎわっていたのではなかったか?
 閑古鳥の鳴く鉄道にしては、古ぼけた駅舎はいかにも大き過ぎる。元駅長事務室とおぼしき建物をのぞいたら、旧式の足踏みミシンが十台ほど置かれ、女性の縫製工が仕事をしていた。「市場経済の導入で、採算向上のため鉄道が、縫製業者に建物を貸したんでしょう」。張向東君が、そう解説してくれた。
 後日、判明したのだが、海南の鉄鉱山は、日本の民間機が偶然見つけたものだといわれる。石碌山の上空を飛行すると必ず計器に異常が発生する。有望な鉱脈がこの山にあるのではないか、と現地探査をしたら地表にむき出しの超一級の鉄鉱石が、ごろごろしていた。もっぱら九州の八幡製鉄所に運ばれたそうだ。
 鉄鉱山の発見。「瘴癘の地、海南」の文明の到来であり、それが近代史の始まりであったと言ってもよいであろう。だが、この島に“自然に手を加える”という意味で最初の文明をもたらした日本の終末は悲劇そのものであった。海南占領の後半、日本軍は孤立した。陸では、国民党と八路軍ゲリラに追いまわされ、三亜に基地を築いた日本の海軍航空隊は、日夜、米軍の空襲で壊滅寸前であった。だがいま、この島を訪れる日本人観光客で、それを知る人はほとんどいない。この島への日本の足跡は、記録も散逸し、もはや風化しつつある。
 そんな思いで、今回の「海南島参観遊覧」に思いをめぐらしているうちに、この島での日本の末路についての、貴重な証言集を見つけたのだ。『海軍飛行科予備学生・生徒史』と題する五百余ページの手記である。その一節に、末期の海南島の戦闘記録があった。この部分の筆者は、なんと毎日新聞の記者として、私が一緒に仕事をした先輩、吉岡忠雄氏であった。
 以下はその抜粋である。

海軍少尉吉岡忠雄
<私は海南島三亜の二五四空付を命じられ十九年(四四)十一月、鹿児島から二式大艇でたどりついた。主計長はしかめっ面で「また米食い虫が一匹増えたか。この島にはもう食糧がないのだよ」といった。三亜は連日敵機にさらされた。明るいうちは比国のクラーク基地からB25、F6F、P38など、夜は桂林からB29とB24が。基地上空や沖合で空戦が展開された。火炎に包まれて落ちるのは零戦、火を吐かないまま落ちるのが米機。たび重なる戦闘と内地方面への移動命令によって零戦隊はほとんどいなくなった。少尉候補生になっていた私と四人の海軍予備学生は二十人の整備兵を率いて、楡林に入港する徴用漁船に分乗し、九州の大村基地に戻るよう命令を受けた。三日後、B24に発見され銃爆撃を受け、私の船でも三名の戦死者を出し、八所港(鉄鉱石の積み出し港)の陸戦隊基地に逃げ込んだ。
 それから二カ月後、楡林に帰港する病院船氷川丸に三亜駐屯の整備兵全員を率いて便乗し、佐世保に戻れという命令が出た。白昼、完全武装で病院船に乗り込んだ。だが氷川丸はなかなか出航しない。軍医少将が現れて、「君たちの乗船は米軍に筒抜けだ。国際法違反は明白だから、撃沈されても文句はいえない。ほんものの病人はどうなる。下船してくれ」といった。准士官がいきなりピストルを抜いて少将につきつけた。
「我々は戦争するために帰るのだ。指揮権のない軍医の分際で口をはさむな。つべこべいうなら射殺する」。彼の言葉に少将は怒りで真赤になったが、やがて憮然たる表情で席を立ち、そして氷川丸は出航した。
 私はシージャックと国際法違反の共同正犯であったのだ……氷川丸は一週間後に無事、佐世保に入港した>
 それは海南島開発に手を染めた日本のこの島での劇的な幕切れであった。吉岡氏はすでに鬼籍に入られている。彼の駐屯した三亜航空隊基地跡は、九四年、海南経済特区の開発計画のもとで、「三亜鳳凰機場」となり、B747の発着する国際空港に衣替えした。
 五月の海南の夕暮れ。三亜国際空港を離陸した中国民航CJ6721香港行きの機窓から見た三亜の海は、夕焼け雲に、赤く映えていた。あのころ、吉岡氏も、雲流るる果てに、同じ夕焼けの海を眺めていたに違いない。
 



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