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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: カンボジア王国点描(上) ペン夫人の丘の町で  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/03/03  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「天竺」はいずこに?
 十七世紀の初め、長崎奉行所のオランダ語の大通辞に島野兼了という人がいた。島野通辞は三代将軍家光から、「天竺」行きの出張命令をもらい、オランダ船に便乗して、カンボジアの地に渡った。そして、小乗仏教のメッカ、アンコールワットに詣で、壮大な寺院を写生し、帰国後「祇園精舎の図」と題する墨絵を献上した。この図は、いまでも、水戸の彰考館に所蔵されている??。
 ものの本にはそう書かれている。「天竺」とは、本当は、仏教の誕生したインドをさす古い中国語だ。もともと空とか高いところという意味である。だから、カンボジアがインドでないと同様に、天竺はカンボジアではない。当時の日本人はインドとカンポジアの区別を知らなかった。でもあこがれの地天竺こと、カンボジアの首都プノンペン近郊の村には、れっきとした日本人町があった。最盛期には、数百人の日本人が、中国、オランダ、ポルトガル人らとともに、活発な通商活動を営み、大変なにぎわいだったという。
 それにひきかえ、いまカンボジアに駐在する日本人は、外交官、商社、建設、NG0関係者を全部ひっくるめても当時より少ない。出発前、外務省の広報資料をインターネットで検索したら、一九九七年七月現在、「在留邦人数二百三十七人」とある。ところが、在日カンボジア人の数は、千百四十七人。江戸時代の日本に、カンポジア人はまず居住していなかったことを思えば、日本?天竺人物交流関係は逆転した。東京に、エスニック料理を中心にカンボジア人コミュニティが誕生したのも、この数字からもうなずける。
 さて、私の“天竺行き”は、タイのバンコクから空路一時間十五分のプノンペン・ルート。ベトナムのホーチミン市経由もあるのだが、三カ月前、ロシア製のツポレフ型旅客機が“謎の墜落”事故を起こし、いまだに原因はあいまいと聞いて、タイ航空にした。
 空港で、ガイド兼通訳の田中修一さんと助手のサンダップ嬢が迎えてくれた。われわれ一行、といっても、私と日本財団の若いプロジェクトマネジャーIさんの二人だけ。
 出張の最終目的地も、プノンペンを経由してかの長崎の大通辞島野兼了と同じ、アンコールワットのある古都シエムリアップ。ただし、「祇園精舎」参りに来たのではなく、日本財団を代表して当地で開かれる、この国初の精神科医たち三十人の卒業式に列席するためだ。その話は、次号のカンボジア王国点描(中)で紹介しよう。
「お二人を、二人のガイドでお迎えするなんて、大げさだとお思いでしょ。でもご心配なく。日本政府の“観光自粛勧告”が、いまだに解除されないものだから、日本人のツアーは、一組もありません。どうせヒマなんです。見習いのつもりで、この子も連れて来ました」と田中さん。サンダップ嬢は二十一歳、日本の僧侶が現地でやっているボランティアの日本語学校を出て、田中さんの旅行社に就職したばかりだという。

朽木の中に仏像が一体
 そういえば、バンコク発のTG六九六便はアメリカ、フランス、ドイツの観光客で満席だった。だが日本人らしき人物は見かけない。
 九七年の七月、首都プノンペンの空港の周囲で、例のフンセン第二首相とラナリット第一首相(シアヌーク国王の息子)の追い落としの武力抗争があり、死者が出た。
「今は、平穏で、欧米の大使館は旅行自粛勧告をとっくに解除したんですが、なぜか日本大使館だけが……」とぼやく田中さん。お蔭でこちらは、カンボジア通の彼と、じっくり話をする機会が持てる。
 プノンペン。カンボジア語で、「プノン」とは、丘の意味である。「ペン」は、この土地の豪族の夫人の名前だ。
 十四世紀の末、ペン夫人は、川を漂流する朽ち木の中に仏像を見つけた。信心深い彼女は川を見下ろす小高い丘の上に堂を建立し、その仏像をお祭りした。それが、メコン川とトンレサップ川が十字に交差する交易都布、プノンペンの由来とのことだ。
「ペン夫人の丘」。こんなに平和でロマンチックで、やさしい響きをもつ都市の名称は、世界にもそう多くはあるまい。十九世紀には、ベトナムとタイにはさみ打ちの格好で侵略され、フランスに助けを求めたのが裏目に出て、植民地に成り下がった。そのかわり、フランス人の設計で都市が整備され、小パリとさえ呼ばれる酒落た町に変容した。
 だが、この国の歴史をたどると、プノンペンの内実は「やさしく」も「ロマンチック」でもなかった。下級官僚はベトナム人で占められ、日常生活はフランス人というよりもむしろベトナム人に支配された。
 その怨念が第二次大戦後も尾を引き、この国の不幸な内戦の遠因を作ってきたと言えまいか。平穏だったのは、シアヌーク王の対仏独立宣言以降の十数年ぐらいで、あとはロンノル将軍のクーデター、米軍のカンボジア介入、ポルポトの反ベトナム・親中路線、ベトナム軍の侵攻、ヘンサムリン政権の樹立、これに対する三派連合抵抗戦線。「ペン夫人の丘」をおびやかしたすべての戦禍には、多かれ少なかれ、ベトナム問題が背景にある。こうしてみると、十九世紀から今日にいたるまで、カンボジア人の恨みの対象は、植民地のご主人であるフランスではなくて、実は、あの時代の「虎の威を借るキツネ」のほうであり続けたのではなかったか。
 田中さんは、この説に同感だという。「日本人のツアーがプノンペンのホテルでチェックインをする。もし途中で、フランス人がやってくると、日本人はそっちのけ。フランスのツアーグループに部屋のキーを先に渡したりする。お愛想を言ったりして。恨みを持たないどころか、潜在意識の中では、まだご主人様です」と。
 空港から五分の国道沿いに、車窓からこの町で最も新しい戦禍の傷跡を見る。九七年七月のフンセンとラナリットの紛争の置き土産だ。
 トタン屋根におおわれた一見駐車場風の粗末な建築物があった。そこで気の毒な事件が起こった。それはプノンペン第一の野外バイク市場だった。カンボジア人が、最も欲しがる物のひとつが、バイクである。五〇ccから九〇ccのホンダ・カブの中古品が、ここに二千台あったという。
 いまは、一台のバイクも見当たらない。
 ラナリット派追い落としの戦闘の最中に、兵士たちが略奪して、持ち去ってしまったからだ。バイクの修理屋からたたき上げ、この街のサクセスストーリーの主だった中年のカンボジア人オーナーは、現地の新聞に兵士の非を訴え、フンセン政府に賠償を求めた。だが徒労に終わった。犯人を特定できないだけでなく、バイクは転売され、兵士のもとにはなかった。中古バイクの市場価格は、この国では一台千ドルもする。プノンペンの平均給与は月七十〜八十ドルだから、一年分の給与に相当する。この店主にとっては、二千年分の収入を一日で失ったことを意味する。思い余った彼は自殺した。

死の町からよみがえって
「でも、この話、ポルポト時代のプノンペンの悲劇を思えば、たいした事件ではないと現地の人は言うのです。日本人の私にとっては大ショックですけど……」
 田中さんはそういう。
 ポルポト時代の「ペン夫人の丘」は、「月世界」であったという。
 七五年四月十七日、原始共産主義者? ポルポトが政権を握ると、当時二百万人いたプノンペン市民は、三日間で、農村地帯に連れ去られ、思想改造を強要された。
「都市に住む者は人民の敵」という超単純な図式をもつ、この狂信的な革命家によって村落に収容された。
 わずか四年の間に飢えと重労働で、市民の半数以上は死亡した。拷問の末、虐殺された人も数え切れない。当時、この町には、ポルポト政府の軍隊と役人と、中国をはじめとする数カ国の大使館員を含めて約一万五千人しか住んでいなかった。まさに、死の町、ゴーストタウンだったのである。
 ホテルに向かうバスの車窓からは、死の町当時のプノンペンを想像することは、ほとんど不可能だ。現在の人口は約八十万人という。「約」とつけるのは、何事にも几帳面にやらぬと気がすまぬ日本の常識からいうと奇妙な表現だが、三十年も国勢調査をやっていないので、首都の人口の正確なところはわからない。多分、もっと多いのだろう。
 農村で食いつめた人が、この町に集まり、一見するところ、活気がみなぎっている。マイルドセブンの看板がやたらに目立つ。街角のあちこちに「MILD SEVEN」と書かれた大判のパラソルがある。この下で、市民が夕涼みをしている。笑顔が沢山ある。ちなみに、マイルドセブンの市価は一カートン(十個入り)七ドル。空港の免税店だと九ドルする。このあたりがこの国の“市場経済”の摩訶不思議なところで、経済だけでなく社会も政治システムも、まだ混沌としている。
 現地の英字紙CAMBODIA DAILYに、「九八年三月の国勢調査にご協力を。見知らぬ人が、家族数、年齢、職業、収入を聞きに来るけど、統計のために使うのだから怖がらないで」とあった。この国の首都のシステム作りは、国勢調査から始まる。
 



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