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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: サハリン(樺太)の二泊一日(下) 日本現代史の忘れ物?  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/09/28  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「樺太」とは「唐人」なり
 サハリンの北緯五十度線以南は、一九〇五年の日露戦争の勝利から、四五年の日本の敗戦にいたる四十年間は、日本領だった。
 この島は、十九世紀中葉、帝政ロシアと江戸幕府が目をつけ、それぞれ異なる名前をつけていた。ロシアは沿海州の黒竜江地方の名前をとって「サハリン」と名づけ、江戸幕府は「北蝦夷」とか、唐人の地と呼んでいた。樺太とは、唐人の転譜である。樺太庁の時代、南樺太の領土には最盛期には四十万人の日本人が住んでいた。今でも、三百人の“残留日本人”がいる。正式には日系ロシア人である。
 でも、この人たちはロシア人になりたくてサハリンに残留し、国籍を取得したのではない。やむにやまれぬ事情があったのである。
 “残留日本人”に限らず、“サハリンの主”の変遷にまつわる物語は、複雑かつ悲劇的でさえある。樺太史を振り返る。原住民は、ニフヒ、ギリヤーク、オロッコ、アイヌなど九つの北方アジアの少数人種だった。今日でも三万二千人ほど住んでおり、最大の部族ニフヒは、北部サハリンでラジオ局と彼らの言葉による新聞をもっている。アイヌは敗戦後北海道に日本が引きとった。
 近世に入りこの地に足を踏み入れたのは、ロシア、日本、清国であった。清国は、間宮海峡の一番狭い部分が八キロしかないのを利用して、沿海州からごくたまに小舟でやってきて、原住民から主従のあかしとして、わずかな貢物をとりたてていた。江戸幕府は、北の脅威から北海道を防衛する目的で、樺太探検を試み、「サハリンは島」であることを実証したが、ここを植民地にする余裕はなかった。
 事実上の“無主”の地であるこの島を、植民地として版図に組み込んだのは帝政ロシアであった。大量の政治犯と刑法犯を、黒海のオデッサから船で、そして陸路シベリア経由で、開拓民としてこの地に送り込んだ。
 日本がサハリンの経済開発と植民を、国策として推進したのは、明治三十八年(一九〇五)の日露戦争後、北緯五十度以南のこの地を領有してからである。
「以前(日露戦争以前)のロシアからの強制移民というのは、他でなら死刑を課せられるほどの極悪の無期流刑者と、その後商の者が主であった。どういう風に話を付けたものか、それをそっくりと対岸(ロシア)のいづれかへ送り返すことにきまって、迎えの船の来るまでの間、かなり久しいこと大泊(現・コルサコフ)に集めて(明治政府は)保護していた。それが、この間、やっとのことで還って往った処へ、私は行ったのである」
 柳田国男の『樺太紀行』(修道社刊・世界紀行文学全集)の書き出しの一節である。明治三十九年(一九〇六)、日露講和の翌年、国文学者柳田は、樺太島の中部高原と西海岸の一部を巡回し、日誌が残されている。柳田が樺太の地に足を踏み入れたとき、まだロシア人の流刑者は少し残っていた。柳田日誌はこう続けている。
「この家の持主は露人マルテンという殺人犯なり。六十八にて、妻もここにてもらいたる。情婦の為に夫と十四になる男の児を(ロシア本土で)殺せし者なり。家と家畜を売りたれば、明日はここを引揚げて小樽より(ロシアに)帰えるという」
( )内は筆者の注。
 
飲み屋から始まった日本植民史
 長与善郎も、明治三十九年、中学の修学旅行で、ホヤホヤの日本領であるこの地を訪れているのだから驚きだ。
「『何ですあの女は』。我々の或る者が案内の役人に聞いた。
『醜業婦ですよ。日本では新開地には何よりも先にあれが来るんです。西洋では忙しい土地に宣教師がまっ先に出かけ教会が建つんですが、日本は何より先に銘酒屋が出来るんです。でないと、移住してがありませんから』」(長与善郎・シスカの一夜)
 日本の南樺太開発は、まさにここから始まる。
「ニシン・サケ・マス・タラ・カニ・コンブ、トド松・エゾ松、ソシテ、石炭」
 私の小学生時代、地理の時間に、樺太の天然資源について、教師から暗唱させられた語呂合わせだ。「ツマラナイコトヲ、オボエサセラレル」。幼少のころそう思っていたのだが、これが今、お役に立つとは……。日本政府の樺太拓殖史の記録を読むと、まさにこのとおりだった。
 樺太庁が軍事、治安、産業、移民、財政、福祉、教育のすべてに強力な権限を行使、植民地経営に遭遇した。
 初期の主役は漁業だったが、乱獲で水揚げが減り、パルプと石炭に主役が交代した。石炭は太平炭鉱の露天掘りで、九州の筑豊炭田の生産量に匹敵し、王子製紙のパルプは、日本の需要の半分をまかなっていた。そして、第二次大戦の始まった一九四一年には、東京の政府からの補助金を全額返済、食糧自給率こそ二〇%と低かったものの、樺太の植民地経営は成功であった。
 だが、豊かな日本領樺太の時代は、ここまでだった。それから五十余年。ときは九九年八月、元豊原、現ユジノサハリンスクの質素なアパートの一室にあるサハリン日本人会の本部で。
「十七歳のとき、樺太で働く叔父と姉を頼ってやってきました。王子製紙に勤めていました。十九歳で韓国人と結婚、子供もできた。終戦で叔父と姉は帰国したが私は夫とともに樺太に残った。ところが、夫はスターリン時代に、“日本の協力者”と名ざしで非難され、シベリアに連れていかれ抑留されていた。八年間も重労働させられたあげく冤罪だったということで釈放、樺太の私のもとに帰ってきた。夫はとても身体が弱っていたが、“家族に苦労をかけた”といって、八年間一生懸命働き続け、そして病死してしまったのです」
 七十八歳になる残留日本人、新岡登美子さんは、淡々とした口調でそう語ってくれた。日本に帰りたくても、もはや帰りようがなかったというのだ。
 
浜本栄子改め金栄浜さん
 樺太の日本人は戦後五年かかって引き揚げてきた。このうち十万人は内地に身寄りのない人々だったが、新岡さんのように帰りそびれた戦前生まれの日本人が、ロシア国籍をとって三百人残っている。その七割は女性で、新岡さんのように韓国人を夫にもった人が多い。「日本の植民地時代はモノが豊富だったが、ソ連になってからは生活が苦しい」ともいう。
 彼女たちは、決してめげてはいない。幸せとは言えない運命を背負って、強く生きているように見受けられた。日本国にウラミ言もいわなかった。サハリンには、多くの朝鮮系の人々も残留している。
 金栄浜さん六十五歳(日本時代は浜本栄子と名乗っていた)もその一人。今の北朝鮮出身である。ご主人の李さんは大学の朝鮮語教師だ。
「私の血は朝鮮人。初等教育は日本人。そしてロシアに拾われた。三つの祖国をもっているのだから、客観的にものごとを見ることができる」
「時代が変わっているのだから、いつまでも朝鮮を併合した日本にあやまれと言い続けるのはどうかと思う。映画じゃないんだから歴史の逆まわしはできないよ。いつも前を向いて歩こうと自分に言い聞かせている」
 彼女は一気にそう言ってのけた。
 日本や韓国の一部に、日本が朝鮮人を強制的に樺太に連行して、敗戦で置き去りにしたとの説があるが、それは必ずしも正しくない??と彼女は次のように解説する。
 いま、サハリンに三万人の朝鮮系のロシア人がいる。出自は三通りある。1)は戦前、戦中の出稼ぎや自由募集、戦時中は強制的な徴用もあった。2)は戦後、ソ連が友好国である北朝鮮から労働力を募集、これに応じた人。3)日本精神をたたき直すという趣旨で、ソ連政府はカザフスタンやウズベキスタンから、ロシア語のできる朝鮮族を指導者として入植させた。
 このうち圧倒的多数は、第一グループの、日本の植民地時代に樺太にやってきた朝鮮人だという。
 金さんも含めて第一グループの人々は、最初は、「先生、先生」と第三グループに媚びへつらったが、ロシア語を習得し、劣等感を少しずつ克服していったという。
 日本政府は、ソウル郊外に朝鮮系サハリン残留者の永住帰国のためのアパート建設の資金を拠出し、残留邦人には帰国旅費を支給、東京近郊に定着促進センターを設置している。それはそれでよい。だが肝心なのは、日本人の心の問題で、怖いのは樺太開拓史を忘れ去ることだろう。そのとき、日韓の残留戦士たちは、日本現代史の遺失物となる。
 いかんながら、その日が近づいているような気がしないでもない。
 



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