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四月六日の参院予算委員会で、公明党の風間昶氏が総理の母が計九年にわたって長期入院していることを問題に取り上げた。そして総理が「元厚相で厚生族のドンだからではないか、という声もある」と質したと言う。 一般の市民は、入院が三十日を過ぎたら、追い出されたり転院を勧められたりするのに、どうして橋本総理の母だけがそういうことを許されるのか、ということである。ほんとうにこの老人や病人が返されて来たらどうしようと思う時の心細さは、体験がない人でなければわからない。しかしこの正しい論理を振り廻すと、どこか心が痩せ細って来るのも感じる。 今は平等や正義が、やたらと好きな人が多い。その二つを振り廻せばいい人になるのだろうが、総理と私たちとは、平等ではないのだ。橋本龍太郎氏という個人とは平等でも、総理大臣という機能上の立場は、一般人とは平等でありえない。 総理の母は特別でいいのだ。総理は何しろ忙しい。だから少なくとも在任中は「特別扱いで」総理の母を預かればいい。多分、そこは見舞いにも行き易いところなのだろうから、人情としても、便宜を図って上げるべきだ。それが病院というところであっていい。 久しく忘れていたのだが、正義というものが、いかに日本人と他の神の認識を持つ人々とは違うかということも、考えるべきである。 正義というものを、日本人は、裁判の冤罪を防ぐことや、差別をなくすことや、少数民族が平等に扱われることや、弱者を助けることなどだと考える。これらの関係は、社会で人間と人間の間の横の関係を示す。しかし正義はほんとうは人間と神との間の縦の関係のことである。つまり神と人間が折り目正しい関係にあることだけが、正義なのだ。 だから社会の常識も世評も大した支えにはならない。自分の心に照らして、神もこのことを許すかどうか、もし許さないとしたら、許されるようにすることが正義なのである。 先日『イエス時代の日常生活』(山本書店)という本を読みなおしていたら、長い間忘れていた次のような言葉にぶつかった。 「しかしヤハウェを信ずる者たちは、理想と適用との間に人間の罪深き性質が深淵を作っていることを充分に知っていた。従って彼らは一切の人間の正義を軽蔑した。預言者イザヤは不朽の言葉を述べた。『すべてわれわれの正義は、汚れた下着にほかならない』」 汚れた下着に当たるヘブライ語はかなり強い意味を持っているという。イタリア語訳は、その強烈なニュアンスを残して「女性の生理で汚れた下着」という訳を残したと言う。 ユダヤ人たちは、正義正義という人間が、実はどのようなことをするか知っていた。正義と実行の間には常に誤差が生じることを、認めないという方が未熟であった。それが正義に関する羞恥心というものであろう。日本にはこういう大人の思想も感覚も、全くなくなってしまったのだ。
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