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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: きれいごと報道は真相隠す?奇病に苦しむアフリカで  
コラム名: 時代の風   
出版物名: 毎日新聞  
出版社名: 毎日新聞社  
発行日: 1998/10/11  
※この記事は、著者と毎日新聞社の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この9月に、私はアフリカのコートジボワール共和国(象牙海岸)に入った。要都アビジャンから北西に300キロほど離れたところに、ズクブという町がある。その付近にブルーリ・アルサーという奇病があるのだが、その実態をマスコミや中央官庁の調査団の人たちに見てもらうためであった。
 アルサーというのは潰瘍のことだが、この愚者の発生が初めて報告されたのがウガンダのブルーリ地方だったところからブルーリ・アルサーという名前になったという。
 私が初めてブルーリ・アルサーを見たのは1995年にズクブで働いている日本人のシスターを訪ねた時であった。私たちのやっている海外邦人宣教者活動援助後援会というNGO(非政府組織)は海外で働く日本人の神父や修道女の活動を経済的に支援することを目的としていて、ズクブからの要請でニッパハットの識字教室を作るためのお金を送った。それを見に行って、私はこの病気を知ったのである。
 それは外見的に悲惨な病気だった。皮膚が焼死体の一部のように真っ黒に変質し、爛れ、腐り、文字通り腐臭を立てる。まだその時には病院の建物は建設途中だったので、途方にくれて近隣の村から出てきた患者たちは、その辺の軒下に住んで、看護婦のシスターや、土地の看護士らしい人から傷口を洗ってもらうくらいしか治療方法はなかった。今でも覚えているのは、乳房が腐ってとれてしまった13、14歳の少女と、腐肉の下から大腿骨が見えるほどになった8、9歳の少年であった。
 その時、私はこの病気はこの近くに300人あまりがいるだけだと聞かされた。それは川に関係のある細菌感染症で、腐った部分を外科的に切除するより今のところ治療の方法はない、という話だった。
 その奇病が3年たって思いもかけないところで、治療が開始されることになった。私の働いている日本財団では、前会長の笹川良一氏がWHO(世界保健機関)と協力して存在がわかる限りの全世界のハンセン病患者に治療薬を配り続けて来た。その結果紀元2000年にはハンセン病はほぼ終息宣言を出せるまでになった。毎年何人の患者が出るかは予想で予算を組みWHOへ支出して来たわけだが、ここへ来て60万ドルほどの余裕ができた。そのうち50万ドル(約6500万円)をこのブルーリ・アルサーの研究に向けることになったのである。
 私が驚いたのは、コートジボワールだけだと聞いて来た病気が、実は最近、世界的にその発生が増加し、結核、ハンセン病についで多い細菌感染症になったということだった。オーストラリアにもあり、1930年に第1号の患者がビクトリア州ベアンズデールで発見されたところから、ベアンズデール病と言われているという。アフリカでは西アフリカのギニア、リベリア、コートジボワール、ガーナ、トーゴ、ベニンなどで、もはや数千では済まず、数万人の単位の病人が発生しているが、正確な数はつかめない。初めはほんの小さな痛みもない皮下の結節で始まるので、患者は重大に考えず、傷が深くなってからも交通機関のない奥地に住む人たちは、なかなか医師に見てもらえないのである。
 ズクブの修道院には、カナダの援助できれいな小病院ができていた。30床くらいだが、患者たちはこざっぱりと包帯をしてもらい、清潔なベッドに寝ている。私以外の人はこの病気を知らないのだから、患部をよく見てもらおうとすると可哀相なこうとになった。膿んだ傷から包帯をはがすのは痛いことで、誰もそんな思いを余計にしたくない。
 しかし一人の少年がその役を買って出てくれた。彼の真っ黒な皮膚は腫れ上がり、足は片方だけまるで象の足のような大きさになっている。所々無惨な肉の色が見えている部分があるが、それはよくなって来た徴候で健全な皮膚が生々しい色に見えるのである。しかしたとえ治ったとしても、植皮手術が要ったり、萎縮したままの筋肉組織を直す手術も必要なことは眼に見えていた。
 その時、少年の写真を撮っていた全国紙や通信社の記者たちの中から「この写真は使えないな」という声があったのだという。それはあまりにも残酷すぎてということだろうが、私は後で聞いて不思議でならなかった。
 その数日後に私たちはアビジャンからブルキナファソの首都ワガドゥグに移動した。飛行機の中で私の隣に乗った男性が読んでいる雑誌を見て、私は彼に声をかけた。
 「すみません。あなたが今読んでいらっしゃる雑誌は、何というのですか」
 雑誌は「フィガロ」であった。隣人が私に快く雑誌を貸してくれたので、私は私の眼を引いた特集だけを見せてもらうことにした。それは南スーダンの飢餓の報道であった。
 飢餓の原因はもう15年も続いている部族間の内戦だという。そしてそのような状態が、本来ならアフリカで最も豊かな国と言ってもいいスーダンの油田の開発を遅らせている、とフィガロは書いている。飢餓のひどいのはワオを中心とした地方で、それはハルツームから1200キロも離れており、その上雨期で、悪路では食料のピストン輸送はとても望めない。空輸は非常に高くつくから、現在国連の援助はケニアから行われているという。
 記事とともに載せられているこの胸をうつような写真は、トム・ストッダルトという人の撮影したものだった。
 一人の少年はマッチ棒のようにやせ細って道に四つんばいになって前を通る一人の男を見上げていた。その男は透けて見えるビニール袋にトウモロコシを入れてぶらさげている。少年の食いいるような視線はその袋に注がれていた。彼はそのトウモロコシを下さいと言ったかどうか。男は無視して歩み去った。
 またもう一対の写真は母と子の写真だった。10歳は過ぎていると思われる息子はもはや人間というより立っている骸骨である。彼の顔は髑髏に近く、前歯だけが突き出し肋骨は骨格標本のようにくっきり見えている。
 「明け方、母は息子を助けて立たせた。しかし彼の顔にはもはや絶望と諦めの色さえもなかった」
 息子は死の直前にいたのである。私はうまく訳せないのだがフィガロは2枚の写真に、「まさに人間の思いそのもので」という同じ表現を使っている。
 この写真は帰国後、日本の女性週刊誌が1誌だけ載せていた。人道をうたいながら、日本ではその人のあるがままの姿は報道しない。それがほんとうの人間的な反応なのだろうか。
 私が眼にする外国の新聞雑誌はほんのわずかに過ぎないが、それでも「あるがまま」の厳しい姿を報道する姿勢は少なくとも日本よりはっきりしている。興味本位ではないなら、死体の写真も、逮捕の瞬間も、銃殺の記録も同じ「人間の思いそのもので」報道すべきだろう。日本のマスコミのおきれいごとの報道姿勢で、日本人は世界の真相を知る方途から確実に遠ざけられている。
 



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