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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 天国の平安?わずかな光の中でも輝きたい  
コラム名: 自分の顔相手の顔 232  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/04/20  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   障害者を中心にした巡礼の旅行をしていると、おもしろい原則に気がつくのである。
 一つは、体がへとへとになるほどの労働の爽快さを参加者が思いだすか、初体験するかすることである。農村の生活なら別として、今では多くの都会型の勤労者は、日常、肩、腕、背中、足の筋肉を精いっぱい使うことはほとんどない。その代償としてゴルフやサウナに行っているが、そんなものでは、この労働の翌朝、ぐっすり眠って疲労が取れた後の爽やかさなど、とうてい味わえない。
 一日の終わりには、二十代から六十代までのボランティアたちはくたびれ果て、寝酒よりもベッドという感じになる。今度も改めて感じたことなのだが、遺跡のごろごろ道や階段で車椅子を動かすことは、相当な重労働なのである。しかしこの旅行にボランティアとして参加してくれた人たちは、それをちゃんと覚悟して来てくれている。そして私はふと、神はその人たちに報いるように、夜の深い眠りを贈られるのだろうな、と思う。不眠症患者から見たら、天国の平安であり幸福である。
 旅の初めに、引率の神父のお一人が、この旅行の中心的な人たちをご紹介しましょう、と言われた。視力障害者二人、車椅子二人であった。もちろん他にも内臓の病気や家庭的な問題を抱えたり、愛する家族を失って失意のどん底にいる人たちもいる。
 この旅では人間の生涯の基本的感情の一つである苦しみを正視し、それを私たち仮の家族が支え合うことになっている。たった二週間の旅だけれど、一年のうちの二週間を仮の家族が支えることを受け持つのである。その苦しみを抱えた人たちがいなかったら、そしてその人たちによって、私たちがこの世がいかに儚(はかな)くもろいものかを知らなかったら、私たちの旅は中心を失って、軽佻浮薄(けいちょうふはく)なものになるだろうと思うのである。
 トプカピ宮殿の宝物殿に行った時、同行の神父のお一人が熱心に宝石のコレクションを見ておられた。私たち俗人なら、こんな飴玉みたいに大きいエメラルドをほしいとか、こんな宝石だらけの王座は冷えて腰痛のもとだろうとか、反応するのだが、神父は何がおもしろくてこういうものを熱心に見ておられるのだろう、と私はちょっと興味を持ってその姿を見ていた。
 外へ出た時、私が質問する前に、この疑問はもののみごとに解かれた。私の気持ちなど何もご存じない神父が言われたのである。
 「展示室の中には、大した光もないのに、あの宝石はよく光るなあ。私たちもああいうふうに僅(わず)かな光で光らなきゃいけないのに、修道者でもなかなかそうはできない。大したもんだなあ」
 宝石の見方にも、さまざまあるのである。神父は宝石には無縁、ではないのである。
 私たちはすべてのことから学べる。悪からも善からも、実からも虚からも恐らく学べる。狭い見方が敵なのであろう。
 



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