|
チリの元大統領ピノチェト氏はイギリスで逮捕されていたが、その逮捕は有効とする上院の決定は、他国で外国人を裁くことができるということなので私は不思議な感じがした。ピノチェト氏は、初めて選挙で選ばれているアジェンデ社会主義政権をクーデターで倒して政権の座についた人である。その後「左派を徹底して弾圧」したと新聞は報じている。 一九七三年十月十三日、私はチリのサンチャゴにいた。クーデター後約一月目であったと記憶する。わざとその時期に行ったのではなく、たまたま計画していた旅行の一月前にクーデターが起きた。アジェンデはモネダ宮殿で殺され、経済混乱はひどくて食料も自由ではなく、町にはまだ時々銃声がした。 ピノチェト政権になって以来、旧政権側に属していた人たちで惨殺されたとか、行方不明になった人が少なからずいたという話は、私の帰国後も友人から伝えられた。アジェンデ政権時代、さんざん苦い思いをした右翼の、左翼に対する報復だというのである。 最近の記事だけを読むと、ピノチェトの右派のみが非人道的なことをしたという判断になるのだろうが、当時は決してそんな空気ばかりではなかった。何しろアジェンデ社会主義政権の堕落もひどかったのである。チリは銅の産出国であったが、アジェンデは銅生産に関係したヨーロッパの人の技術者を追い払って生産を停滞させた。職場では、仕事よりまず職域集会、デモとストばかり。 社会主義は人民のものかと思っていたら、アジェンデ側の左翼連合(ウニダ・ポプラール)は、特権階級になった。アジェンデ自身が、「自分はチリ人全部の大統領ではない。左翼連合の人々のための大統領だ」とテレビで発言したのを聞いた日本人もいる。 やがてアパートも左翼連合でないと入れなくなった。パンを買う時も、左翼連合の人は並ばないでいい。ガソリンも左翼連合の人は不自由しない。子供たちはデモに参加して「大臣の馬鹿(ミニストロ・トーント)」と歌いながら町を歩いた。 アジェンデは法を守らなかった。土地の不法占拠を許し、これはと思う国営企業には腹心の人物を送りこんでストをさせて経営をマヒさせ、価格を抑えて儲からないようにする。経営がうまくいかない企業は国有化ができる仕組みなのを利用したのである。こうして乗っ取りが合法的に行われたのである。 アジェンデになって以来、共産主義者たちは自分の思考を失って同じ言葉(ウナ・ソラ・パラーブラ)を鸚鵡のように繰り返すようになった、と私が会った人は証言していた。当時の実情に関して、私は『愛と許しを知る人びと』(新潮文庫)の中に記録している。 その頃から軍部が拷問をしているという噂はあった。報復がいいという理由はどこにもない。しかしそう言えるのも私が外部の人間だからだろう。 ただ今回もどっちかが正義の人で、どっちかが悪者だ、という報道は、すなわちニセモノである証拠を露呈していると言っていいだろう。
|
|
|
|